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世にも美しき数学者たちの日常

2021.04.19 公開 ポスト

日本を代表する数学者、黒川信重先生との初めての待ち合わせ。場所の指定は「3階のどこか」二宮敦人(小説家・ノンフィクション作家)

想像以上に天才的頭脳をもつ彼らの日常は、凡人と以下に違うのか?

あまりに面白い!と話題になった世にも美しき数学者たちの日常の文庫化を記念して、本文を公開!

第一回目は、日本を代表する数学者・黒川信重先生。

もう、始まりから面白すぎる!!

*   *   *

(写真:iStock.com/urfinguss)

数学者に初めて出会った日
黒川信重先生(東京工業大学名誉教授)

東京工業大学、本館のロビーで、袖山さんが手帳を確認して頷いた。

「十四時に、三階のどこかで待ち合わせです」

思わず聞き返す。

「どこか、とはどこでしょう」

「わかりません。三階のどこかにいるそうです」

「……」

「歩き回って、出くわすのを待ちましょうか」

野生のポケモンを探すような作業が始まった。それにしてもざっくりとした約束である。

数学者と言っても、全てが厳密とは限らないようだ。

そして本当に三階のどこか、廊下の中途半端な場所で、僕たちはのんびりと歩いている黒川信重先生を発見した。背が高く大柄で、きちっとスーツを着ているが少しお腹が出ていた。

温和な熊のような印象である。

「ああ、どうもどうも、こんにちは。インタビューの方ですね」

日本を代表する数学者の一人である黒川先生はにこやかに笑い、手を振った。

 

紙で埋め尽くされた研究室

「退官直前ということもありまして。ちょっと今、散らかっているのですが」

黒川先生は照れたように頭をかきながら、研究室を見せてくれた。僕と袖山さんは目を丸くして部屋の中を覗き込む。

「確かに少し、紙が散らかっているようですね……」

散らかっているのは紙だけ。だがその紙があまりにも多いのである。床を埋め尽くしている、どころではない。部屋中を埋め尽くしている。A4サイズのコピー用紙が、床といい棚といい、およそ載せられる場所全てに積み上げられ、何か所かは土砂崩れを起こしている。

合計したら数万枚にはなろうか。白い城壁の隙間から、机らしきものがかすかに見えた。

しかしこの紙の山こそが、黒川先生の研究成果だそうである。

「僕は栃木に住んでいまして、片道二時間半かけて東工大まで通っているんですが、その電車の中で研究をするんですよ」

通勤鞄の中には鉛筆と紙。必要な道具はそれだけ。

「紙に数式なんかをこう、書いていって……五十枚くらい溜まると、論文が一つできるわけです。もうかれこれ四十年くらいですか、そういう生活を続けています。宇都宮線、進行方向寄りの奥のボックス席、窓側。そこが僕の指定席なんです」

「それを通勤の間、ずっとやられているんですか」

「ええ。二時間半が全然長く感じませんよ。青春18きっぷを使って、朝から夜までずっと乗って、数学をやっていたこともあります。JRに感謝しないとなりませんねえ」

大学の研究室は単なる紙の倉庫であり、電車の中こそが黒川先生の研究室なのである。

「ちょっとこれ、見せてもらってもいいですか」

紙には丸っこい字が並んでいる。何が書いてあるのかはわからない。どうやら数式らしいのだが、抽象的な絵のようにも、あるいは知らない言葉で書かれた文学作品のようにも見えた。一枚一枚、黒川先生が電車の中で紡ぎ続けてきたのだ。

「研究中に詰まってしまうことはないんですか。どうしても問題が解けない、とか」

「うーん、あんまりないですね……」

黒川先生はあっさりと言う。

「一つの論文が一ヶ月くらいで完成するペースですね。もちろんその一ヶ月には研究だけでなく、授業の準備をする時間なども含まれていますが」

そんなにすいすいと研究は進むものなのか。

聞けば黒川先生が数学の楽しさに気づいたのは小学生の時。友達と数学の問題を出し合うのが遊びだったという。そして、高校生からは作った問題を数学雑誌に投稿し、何度も採用されていたそうだ。

これは、相当頭の作りが違うらしいぞ。僕はううむと唸りながら、研究室を出た。

(写真:iStock.com/Zummolo)

答え合わせに五年以上

黒板と机と椅子だけがある数学科の教室で、黒川先生は自著を一冊、僕にくれた。題は『リーマンと数論』。

「こんな風にして『リーマン予想』が解けると思う、そういうことを書いた本です」

「えっ、リーマン予想というのは……」

「ええと、有名な未解決問題の一つですね」

要するに、まだ世界で誰も解いたことのない数学の問題である。この「リーマン予想」はその中でもかなりの難問だそう。どれくらい難しいかというと、アメリカのとある研究所が、これを解いた者に百万ドル(約一億円)を授けると発表しているほど。賞金のかかった大物である。

「そのリーマン予想が解けたということなんですか?」

目の前に座っている黒川先生が、世界中の数学者が狙っている大物を仕留めた。と思ったのだが、それは早計だったらしい。

「あ、いえいえ。おそらくこんな風にしたら解けるだろうと。『リーマン予想』という問題を作った張本人であるリーマン、彼は三十九歳で死んでしまったんですが、もう少し長生きしていたらこんな風に解いただろうと、そういうことを最後の方に書いたんです。はい」

僕は首を傾げた。

「それは解けた、とは違うんでしょうか。こんな風に解いただろう、というのがわかったということは、解けたようなものじゃないですか」

「それが数学の場合は違うんですよ。実際には論文という形にして、専門の雑誌に出して、レフリー……審査を受ける必要があるんです」

「本当に解けているかどうか、第三者が確かめるということですか」

「そうです。これに結構時間がかかるんですね。たとえば少し前、京大の望月新一先生がABC予想というものを解いたと騒ぎになったんですが、これもずっと審査が続いてますね」

「どれくらいの期間になるんですか」

「もう五年になりますね」

五年!?

僕は目を剥いた。

「問題を解くだけでも大変なんでしょうけれど。その答えが正しいかどうかを確かめるのに、そんなにかかるんですか」

「望月さんの論文の場合は、数学の言語から新しく作ってしまっているんですね。皆さんが勉強されてきた数学とは、言葉からして全く違うんです。そのあたりが時間がかかっている理由でしょうね。論文の内容を理解するのがそもそも難しいわけです」

難しい、その難しさの次元がとてつもない。

巻末を見れば解答例が載っている参考書の問題を解くのとは、かなり隔たりがあるようだ。

なお、この後二〇二〇年四月、望月先生の論文は審査を通過して専門誌に掲載された。審査期間は、約七年半である。

「ところでその『リーマン予想』が解けると、どんないいことがあるんでしょうか」

「ざっくりと言えば、素数がどのように分布しているのか、がわかるようになります」

出た。素数。

実は僕は、黒川先生に会う前に少し予習をしてきていた。数学者の書いた自伝を読むとか、数学者を扱った小説や映画に目を通す程度のことだが、そこで気になったことがある。

数学者、素数を愛しすぎではなかろうか。

素数とは1とそれ自身でしか割り切れない数である。2とか、3とか、5とかがそれにあたる。確かに特徴的な数ではある。だが、道路標識に素数があったからと言って飛び跳ねるとか、わざわざくじでは素数の番号を選ぶとかいう話を聞くと、ちょっと首をひねりたくなる。創作なのか、はたまた大げさに語られているのだろうか?

しかし実際に手間暇かけて、二千四百万桁もある素数を見つけ出して喜んでいる人がいる。

3と5のように差が2である素数の組を、双子素数などと呼んで愛でたりもする。同様に、差が4である素数の組をいとこ素数、差が6である素数の組をセクシー素数だなどと呼んでしまう、はっちゃけっぷりなのである。

ただしセクシー素数は6を表すラテン語に由来する呼び名なので、はっちゃけていたのは僕一人だったわけだが。

一体なぜそんなにも素数を大切にするのか。僕は疑問をぶつけてみた。

「万物は数である、とピタゴラスという学者が言ったんですが」

黒川先生はにこやかに頷きながら答えてくれた。

「彼は音楽の旋律から、惑星の運行まで、自然界の諸法則は数式で表せることに気が付いたんですね。世界を表現する一つの形が、数なんですよ。その数を分解していくと必ず素数に行き着きます。これはモノを分解していくと必ず原子に行き着く、そういうようなことなんです」

全ての数は、素数の組み合わせによって表現することができる。つまり素数とは数学世界の原料。水素だとか、アルミニウムのようなものらしい。

なるほど。これは大切である。

そんな素数の分布がわかれば、原料がどのようにどれだけあるのかがわかる。世界の理解が、一気に深まるのだ。

「ただ、原子もエネルギーを上げていけばいつかは分解しちゃいます。素粒子とか、そういったものに変わってしまう。同じように数学でも、たとえば5は素数ですが、根号、ルートという概念を使えばある意味で分解できちゃう。だから素数が『分解できない材料』でいられるのは整数の世界だけです。

を使った、また別の数学の世界もあるわけです。素数を大切にするというのは、そういういろいろある中の、一つのものの見方なんですね」

頷きながら、何だか僕は不思議な感じがした。急に数学が実体を持ったもののように思えてきたのである。

数学者は数式の中から素数を導き出す時、ガラス瓶の内側を這う水銀を眺めるような気分になるのだろうか。銅と錫を合わせて青銅を作るように、素数を掛け合わせて何かを生み出しているのだろうか。

人間には「食べきれない」問題

「リーマン予想を実際に解くのは、やはり相当難しいんでしょうか」

「人間が扱える限界に近いと思いますね。ある意味では百五十年くらい、進展がないわけですし……」

何気なく百五十年などという言葉が出てきて、絶句してしまう。

「そんな問題、どうやって解くんですか?」

「そのまま考えるのは難しいので、それを解くための新しい問題を作ったり、細かいバリエーションを作って少しずつ解いたりしていくんです」

とても一度には食べきれない大盛りのパフェがあるとしよう。まずはウェハースだけを食べ、次にアイスを攻略するというように段階を踏む。あるいは、フルーツ部分をミキサーにかけ、ジュースにして攻略しやすくする。ざっくりそんなイメージである。

「この場合のリーマン予想、この場合のリーマン予想というように細分化してね。その中のいくつかでは、きちんと解けているんですよ」

「ウェハースとか、アイスとかの一部は攻略できた、ということですね」

「はい。そういうのを見ると、元気が湧いてきます」

「なるほど……『この場合のリーマン予想』のバリエーション、つまりパフェの具はいくつくらいあるんですか?」

「今はですね、無限個あることがわかっています」

「……」

食べきれないぞ。

「解いているうちに少し別の問題になったりすることもあります。整数論から幾何になるとか。リーマン予想から、その変形であるラマヌジャン予想ができたり、そのラマヌジャン予想が解けることで、フェルマー予想が解けたり……そうしてあちこちに波及して、進歩したりもするんです」

「問題が問題を生んだり、別の問題を解くヒントになったりするんですね」

大盛りパフェ攻略に使えた技術が、大盛りカツ丼に応用できたりもする。それを見た店主が、ならこれも食ってみろと大盛りラーメンをメニューに加えたりする。そうして切磋琢磨が生まれていく。

「じゃあいつかリーマン予想も解けそうですね」

前に進んでいるのは確かです、と頷いてから、黒川先生は首を傾げた。

「ただ、問題が解けるというのは、我々としてはそんなに嬉しくないんですね。商売道具が一つなくなってしまう、ということでもあるので……」

「数学の世界で、解く問題がなくなって商売あがったり、なんてことはありうるんですか?」

「問題は、なくなりません。いくらでも作れるはずです。ただ、今の人間に解けそうな問題がなくなる危惧、というのがありますねえ」

そうか。数学には、人間の能力を超えた問題というものがありうるのだ。

「進化した人工知能や、次の世代の生き物なら解けるかもしれませんが……彼らがそういう問題を解いているのを見ても、人間には理解できないでしょうね」

「解けているのに、理解できないわけですか」

「はい。なぜ解けているのかわからない。問題には適切なレベルというものがあって、ただ難しくなってもダメなんです」

「そんな時、どうするんですか」

「数学の発展の歴史を見るとよくわかります。難しくなりすぎて行き詰まったら、数学自体の仕組みを変えたりするんですよ。で、簡単なところからもう一度出発すると」

ちょうどいい難易度のパズルを作って、解き続けるようなものだろうか。

「そうして作った『新しい数学』を進めることで、根本から考え方を見直せるので……以前の数学が積み残していた問題が、ひょっこり解けたりもするんです」

「その『新しい数学』って、たとえばどんなものなんでしょうか」

「そうですね。いろいろあると思いますけれど、僕は最近『一しか使わない数学』というものを考案しているところなんですよ」

黒川先生の目は、きらきらと輝いていた。

一しか使わない数学。ウェハースだけで作られたパフェ。ちょっと見当がつかないが、新しいことは確かだ。

関連書籍

二宮敦人『世にも美しき数学者たちの日常』

百年以上解かれていない難問に人生を捧げる。「写経」のかわりに「写数式」。エレガントな解答が好き。――それはあまりに甘美な世界! 類まれなる頭脳を持った“知の探究者”たちは、数学に対して、芸術家のごとく「美」を求め、時に哲学的、時にヘンテコな名言を繰り出す。深遠かつ未知なる領域に踏み入った、知的ロマン溢れるノンフィクション。

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世にも美しき数学者たちの日常

「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!

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二宮敦人 小説家・ノンフィクション作家

1985年東京都生まれ。一橋大学経済学部卒業。2009年に『!』(アルファポリス)でデビュー。『正三角形は存在しない 霊能数学者・鳴神佐久のノート』『一番線に謎が到着します』(幻冬舎文庫)、『文藝モンスター』(河出文庫)、『裏世界旅行』(小学館)など著書多数。『最後の医者は桜を見上げて君を想う』ほか「最後の医者」シリーズが大ヒット。初めてのノンフィクション作品『最後の秘境 東京藝大―天才たちのカオスな日常―』がベストセラーになってから、『世にも美しき数学者たちの日常』『紳士と淑女のコロシアム 「競技ダンス」へようこそ』など、ノンフィクションでも話題作を続出。

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