想像以上に天才的頭脳をもつ彼らの日常は、凡人と以下に違うのか?
あまりに面白い!と話題になった『世にも美しき数学者たちの日常』の文庫化を記念して、本文を公開!
第一回目は、日本を代表する数学者・黒川信重先生。
もう、始まりから面白すぎる!!
* * *
数学者に初めて出会った日
黒川信重先生(東京工業大学名誉教授)
東京工業大学、本館のロビーで、袖山さんが手帳を確認して頷いた。
「十四時に、三階のどこかで待ち合わせです」
思わず聞き返す。
「どこか、とはどこでしょう」
「わかりません。三階のどこかにいるそうです」
「……」
「歩き回って、出くわすのを待ちましょうか」
野生のポケモンを探すような作業が始まった。それにしてもざっくりとした約束である。
数学者と言っても、全てが厳密とは限らないようだ。
そして本当に三階のどこか、廊下の中途半端な場所で、僕たちはのんびりと歩いている黒川信重先生を発見した。背が高く大柄で、きちっとスーツを着ているが少しお腹が出ていた。
温和な熊のような印象である。
「ああ、どうもどうも、こんにちは。インタビューの方ですね」
日本を代表する数学者の一人である黒川先生はにこやかに笑い、手を振った。
紙で埋め尽くされた研究室
「退官直前ということもありまして。ちょっと今、散らかっているのですが」
黒川先生は照れたように頭をかきながら、研究室を見せてくれた。僕と袖山さんは目を丸くして部屋の中を覗き込む。
「確かに少し、紙が散らかっているようですね……」
散らかっているのは紙だけ。だがその紙があまりにも多いのである。床を埋め尽くしている、どころではない。部屋中を埋め尽くしている。A4サイズのコピー用紙が、床といい棚といい、およそ載せられる場所全てに積み上げられ、何か所かは土砂崩れを起こしている。
合計したら数万枚にはなろうか。白い城壁の隙間から、机らしきものがかすかに見えた。
しかしこの紙の山こそが、黒川先生の研究成果だそうである。
「僕は栃木に住んでいまして、片道二時間半かけて東工大まで通っているんですが、その電車の中で研究をするんですよ」
通勤鞄の中には鉛筆と紙。必要な道具はそれだけ。
「紙に数式なんかをこう、書いていって……五十枚くらい溜まると、論文が一つできるわけです。もうかれこれ四十年くらいですか、そういう生活を続けています。宇都宮線、進行方向寄りの奥のボックス席、窓側。そこが僕の指定席なんです」
「それを通勤の間、ずっとやられているんですか」
「ええ。二時間半が全然長く感じませんよ。青春18きっぷを使って、朝から夜までずっと乗って、数学をやっていたこともあります。JRに感謝しないとなりませんねえ」
大学の研究室は単なる紙の倉庫であり、電車の中こそが黒川先生の研究室なのである。
「ちょっとこれ、見せてもらってもいいですか」
紙には丸っこい字が並んでいる。何が書いてあるのかはわからない。どうやら数式らしいのだが、抽象的な絵のようにも、あるいは知らない言葉で書かれた文学作品のようにも見えた。一枚一枚、黒川先生が電車の中で紡ぎ続けてきたのだ。
「研究中に詰まってしまうことはないんですか。どうしても問題が解けない、とか」
「うーん、あんまりないですね……」
黒川先生はあっさりと言う。
「一つの論文が一ヶ月くらいで完成するペースですね。もちろんその一ヶ月には研究だけでなく、授業の準備をする時間なども含まれていますが」
そんなにすいすいと研究は進むものなのか。
聞けば黒川先生が数学の楽しさに気づいたのは小学生の時。友達と数学の問題を出し合うのが遊びだったという。そして、高校生からは作った問題を数学雑誌に投稿し、何度も採用されていたそうだ。
これは、相当頭の作りが違うらしいぞ。僕はううむと唸りながら、研究室を出た。
答え合わせに五年以上
黒板と机と椅子だけがある数学科の教室で、黒川先生は自著を一冊、僕にくれた。題は『リーマンと数論』。
「こんな風にして『リーマン予想』が解けると思う、そういうことを書いた本です」
「えっ、リーマン予想というのは……」
「ええと、有名な未解決問題の一つですね」
要するに、まだ世界で誰も解いたことのない数学の問題である。この「リーマン予想」はその中でもかなりの難問だそう。どれくらい難しいかというと、アメリカのとある研究所が、これを解いた者に百万ドル(約一億円)を授けると発表しているほど。賞金のかかった大物である。
「そのリーマン予想が解けたということなんですか?」
目の前に座っている黒川先生が、世界中の数学者が狙っている大物を仕留めた。と思ったのだが、それは早計だったらしい。
「あ、いえいえ。おそらくこんな風にしたら解けるだろうと。『リーマン予想』という問題を作った張本人であるリーマン、彼は三十九歳で死んでしまったんですが、もう少し長生きしていたらこんな風に解いただろうと、そういうことを最後の方に書いたんです。はい」
僕は首を傾げた。
「それは解けた、とは違うんでしょうか。こんな風に解いただろう、というのがわかったということは、解けたようなものじゃないですか」
「それが数学の場合は違うんですよ。実際には論文という形にして、専門の雑誌に出して、レフリー……審査を受ける必要があるんです」
「本当に解けているかどうか、第三者が確かめるということですか」
「そうです。これに結構時間がかかるんですね。たとえば少し前、京大の望月新一先生がABC予想というものを解いたと騒ぎになったんですが、これもずっと審査が続いてますね」
「どれくらいの期間になるんですか」
「もう五年になりますね」
五年!?
僕は目を剥いた。
「問題を解くだけでも大変なんでしょうけれど。その答えが正しいかどうかを確かめるのに、そんなにかかるんですか」
「望月さんの論文の場合は、数学の言語から新しく作ってしまっているんですね。皆さんが勉強されてきた数学とは、言葉からして全く違うんです。そのあたりが時間がかかっている理由でしょうね。論文の内容を理解するのがそもそも難しいわけです」
難しい、その難しさの次元がとてつもない。
巻末を見れば解答例が載っている参考書の問題を解くのとは、かなり隔たりがあるようだ。
なお、この後二〇二〇年四月、望月先生の論文は審査を通過して専門誌に掲載された。審査期間は、約七年半である。
「ところでその『リーマン予想』が解けると、どんないいことがあるんでしょうか」
「ざっくりと言えば、素数がどのように分布しているのか、がわかるようになります」
出た。素数。
実は僕は、黒川先生に会う前に少し予習をしてきていた。数学者の書いた自伝を読むとか、数学者を扱った小説や映画に目を通す程度のことだが、そこで気になったことがある。
数学者、素数を愛しすぎではなかろうか。
素数とは1とそれ自身でしか割り切れない数である。2とか、3とか、5とかがそれにあたる。確かに特徴的な数ではある。だが、道路標識に素数があったからと言って飛び跳ねるとか、わざわざくじでは素数の番号を選ぶとかいう話を聞くと、ちょっと首をひねりたくなる。創作なのか、はたまた大げさに語られているのだろうか?
しかし実際に手間暇かけて、二千四百万桁もある素数を見つけ出して喜んでいる人がいる。
3と5のように差が2である素数の組を、双子素数などと呼んで愛でたりもする。同様に、差が4である素数の組をいとこ素数、差が6である素数の組をセクシー素数だなどと呼んでしまう、はっちゃけっぷりなのである。
ただしセクシー素数は6を表すラテン語に由来する呼び名なので、はっちゃけていたのは僕一人だったわけだが。
一体なぜそんなにも素数を大切にするのか。僕は疑問をぶつけてみた。
「万物は数である、とピタゴラスという学者が言ったんですが」
黒川先生はにこやかに頷きながら答えてくれた。
「彼は音楽の旋律から、惑星の運行まで、自然界の諸法則は数式で表せることに気が付いたんですね。世界を表現する一つの形が、数なんですよ。その数を分解していくと必ず素数に行き着きます。これはモノを分解していくと必ず原子に行き着く、そういうようなことなんです」
全ての数は、素数の組み合わせによって表現することができる。つまり素数とは数学世界の原料。水素だとか、アルミニウムのようなものらしい。
なるほど。これは大切である。
そんな素数の分布がわかれば、原料がどのようにどれだけあるのかがわかる。世界の理解が、一気に深まるのだ。
「ただ、原子もエネルギーを上げていけばいつかは分解しちゃいます。素粒子とか、そういったものに変わってしまう。同じように数学でも、たとえば5は素数ですが、根号、ルートという概念を使えばある意味で分解できちゃう。だから素数が『分解できない材料』でいられるのは整数の世界だけです。
を使った、また別の数学の世界もあるわけです。素数を大切にするというのは、そういういろいろある中の、一つのものの見方なんですね」
頷きながら、何だか僕は不思議な感じがした。急に数学が実体を持ったもののように思えてきたのである。
数学者は数式の中から素数を導き出す時、ガラス瓶の内側を這う水銀を眺めるような気分になるのだろうか。銅と錫を合わせて青銅を作るように、素数を掛け合わせて何かを生み出しているのだろうか。
人間には「食べきれない」問題
「リーマン予想を実際に解くのは、やはり相当難しいんでしょうか」
「人間が扱える限界に近いと思いますね。ある意味では百五十年くらい、進展がないわけですし……」
何気なく百五十年などという言葉が出てきて、絶句してしまう。
「そんな問題、どうやって解くんですか?」
「そのまま考えるのは難しいので、それを解くための新しい問題を作ったり、細かいバリエーションを作って少しずつ解いたりしていくんです」
とても一度には食べきれない大盛りのパフェがあるとしよう。まずはウェハースだけを食べ、次にアイスを攻略するというように段階を踏む。あるいは、フルーツ部分をミキサーにかけ、ジュースにして攻略しやすくする。ざっくりそんなイメージである。
「この場合のリーマン予想、この場合のリーマン予想というように細分化してね。その中のいくつかでは、きちんと解けているんですよ」
「ウェハースとか、アイスとかの一部は攻略できた、ということですね」
「はい。そういうのを見ると、元気が湧いてきます」
「なるほど……『この場合のリーマン予想』のバリエーション、つまりパフェの具はいくつくらいあるんですか?」
「今はですね、無限個あることがわかっています」
「……」
食べきれないぞ。
「解いているうちに少し別の問題になったりすることもあります。整数論から幾何になるとか。リーマン予想から、その変形であるラマヌジャン予想ができたり、そのラマヌジャン予想が解けることで、フェルマー予想が解けたり……そうしてあちこちに波及して、進歩したりもするんです」
「問題が問題を生んだり、別の問題を解くヒントになったりするんですね」
大盛りパフェ攻略に使えた技術が、大盛りカツ丼に応用できたりもする。それを見た店主が、ならこれも食ってみろと大盛りラーメンをメニューに加えたりする。そうして切磋琢磨が生まれていく。
「じゃあいつかリーマン予想も解けそうですね」
前に進んでいるのは確かです、と頷いてから、黒川先生は首を傾げた。
「ただ、問題が解けるというのは、我々としてはそんなに嬉しくないんですね。商売道具が一つなくなってしまう、ということでもあるので……」
「数学の世界で、解く問題がなくなって商売あがったり、なんてことはありうるんですか?」
「問題は、なくなりません。いくらでも作れるはずです。ただ、今の人間に解けそうな問題がなくなる危惧、というのがありますねえ」
そうか。数学には、人間の能力を超えた問題というものがありうるのだ。
「進化した人工知能や、次の世代の生き物なら解けるかもしれませんが……彼らがそういう問題を解いているのを見ても、人間には理解できないでしょうね」
「解けているのに、理解できないわけですか」
「はい。なぜ解けているのかわからない。問題には適切なレベルというものがあって、ただ難しくなってもダメなんです」
「そんな時、どうするんですか」
「数学の発展の歴史を見るとよくわかります。難しくなりすぎて行き詰まったら、数学自体の仕組みを変えたりするんですよ。で、簡単なところからもう一度出発すると」
ちょうどいい難易度のパズルを作って、解き続けるようなものだろうか。
「そうして作った『新しい数学』を進めることで、根本から考え方を見直せるので……以前の数学が積み残していた問題が、ひょっこり解けたりもするんです」
「その『新しい数学』って、たとえばどんなものなんでしょうか」
「そうですね。いろいろあると思いますけれど、僕は最近『一しか使わない数学』というものを考案しているところなんですよ」
黒川先生の目は、きらきらと輝いていた。
一しか使わない数学。ウェハースだけで作られたパフェ。ちょっと見当がつかないが、新しいことは確かだ。
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世にも美しき数学者たちの日常
「リーマン予想」「P≠NP予想」……。前世紀から長年解かれていない問題を解くことに、人生を賭ける人たちがいる。そして、何年も解けない問題を”作る”ことに夢中になる人たちがいる。数学者だ。
「紙とペンさえあれば、何時間でも数式を書いて過ごせる」
「楽しみは、“写経”のかわりに『写数式』」
「数学を知ることは人生を知ること」
「数学は芸術に近いかもしれない」
「数学には情緒がある」
など、類まれなる優秀な頭脳を持ちながら、時にへんてこ、時に哲学的、時に甘美な名言を次々に繰り出す数学の探究者たち――。
黒川信重先生、加藤文元先生、千葉逸人先生、津田一郎先生、渕野昌先生、阿原一志先生、高瀬正仁先生など日本を代表する数学者のほか、数学教室の先生、お笑い芸人、天才中学生まで。7人の数学者と、4人の数学マニアを通して、その未知なる世界を、愛に溢れた目線で、描き尽くす!
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