古典とは時代を超越した作品であり、決して古くなることがない――。無類の読書家として知られる経済学者の野口悠紀雄さんは、次々刊行される経営書やビジネス書を乱読するより「古典」を読もう、と言います。なぜなら古典には、仕事や人生の深い洞察が凝縮されているから。そしてそれが今も役に立つから。勉強は自分の血肉にしないともったいない!大反響の『だから古典はおもしろい』(幻冬舎新書)から試し読みをお届けします。
聖書を説得のノウハウ書として読んでみる
イエスの説教は、福音書に記録されています。それを読めば、なぜこれほど強い影響力を発揮できたのかを知ることができるでしょう。
福音書は、人類の歴史上、最も長く、かつ最も多くの人に読まれてきた説得法の教科書なのです(*)。
*─ただし、キリスト教がかくも多くの信者を獲得できたのは、聖書の力だけによるのではありません。カトリック教会の布教方法(いまの言葉で言えば「ビジネスモデル」)に成功の大きな原因がありました。
説得法に関するビジネス書は、世にあまたあります。しかし、聖書を超えるものはありません。
2000年間も読まれているのですから、せいぜい50年のピーター・ドラッカーよりは、ビジネス書としてずっと有効であるに違いありません。そうしたアプローチで聖書を読み直してみれば、有用なノウハウを数多く学べるでしょう。
「年数だけで比較するのはあまりに乱暴」と思われるかもしれません。しかし、50年と2000年の差は重大です。いまから2000年後にドラッカーが読まれているとは、到底考えられないのです。2000年間読み継がれてきたということの重みを、いま一度考えるべきです。
ドラッカーを読んでいる人に対して、また、つぎからつぎへと現れるビジネス書に追い回されているビジネスパーソンの方々に対して、私は、「なぜ聖書を読まないのか? こちらのほうがずっと役に立つのに」とアドバイスしたい気持ちです。
なぜ、聖書は書店のビジネス書のコーナーに置かれていないのでしょうか? 不思議なことです。
そして、ローマ・カトリック教会の教義には、福音書で伝えられるイエスの説教とは異質の要素があります。これは、吉本隆明が「マチウ書試論」(『マチウ書試論・転向論』所収、講談社文芸文庫、1990年)で指摘していることです。
しかし、カトリック教会も、福音書を大いに利用していることに注意が必要です。
聖書をビジネス書として読めるのは、非キリスト教徒の特権
聖書に魂の救いを求めるのでなく、ビジネス書ないしは説得のノウハウ書と見み做なすのは、キリスト教徒から見れば、許しがたい冒瀆(ぼうとく)行為ということになるでしょう。
神聖な福音書を取り上げて「説得法の教科書だ」とか、「最高のビジネス書だ」などと言えるのは、私がキリスト教徒でないからです。そのため、聖書を客観的に見ることができるのです。
聖書を説得法の教科書として利用できるのは、非キリスト教徒の特権です。この特権を、最大限に活用しようではありませんか。
では、具体的にどのような意味において聖書が説得法の教科書になっているのでしょうか? それについて、以下に述べます。
(第4回へ続く)
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