古典とは時代を超越した作品であり、決して古くなることがない――。無類の読書家として知られる経済学者の野口悠紀雄さんは、次々刊行される経営書やビジネス書を乱読するより「古典」を読もう、と言います。なぜなら古典には、仕事や人生の深い洞察が凝縮されているから。そしてそれが今も役に立つから。勉強は自分の血肉にしないともったいない!大反響の『だから古典はおもしろい』(幻冬舎新書)から試し読みをお届けします。
「種蒔く人」のトリック
聖書の比喩の中で最も有名なのは、「種蒔(ま)く人」でしょう(マタイ伝、第13章、4-9)。
これは、ミレーやゴッホが絵画で描いていますし、岩波書店のマークにもなっています。
ここでイエスは、布教活動を麦の種を蒔くことに譬えて、「路の傍らに落ちた種は、鳥が食べてしまう。石の地に落ちた種は、芽が出るけれども枯れる。よい土地に落ちた種は、実って何十倍にもなる」と言います。
イエスが弟子たちに解説したところでは、これはつぎのような意味です。
路の傍らに落ちた種とは、悪い人が来て、信仰を邪魔する場合です。石の地に落ちた種とは、教えを聞いたときには喜ぶが、身に災いなどが生じるとすぐに信仰が潰ついえてしまう場合です。そして、よい土地に落ちた種とは、教えを聞いて悟り、信仰が育つ場合です。
この比喩も効果的です。
仮に、「信仰が挫折する場合もある」と抽象的に言われただけであれば、「ああそうか」と聞き流されてしまったことでしょう。
しかし、「鳥に食べられる」とか「折角芽が出たのに、途中で枯れてしまう」と具体的なイメージを示されたので、弟子たちはその様子を想像することができました。そして、「何と残念なことだろう」と感じ、「そうなりたくない」と心を固めたのです。
「すり替え詐欺」のようなもの(その1)
ここで、つぎの点に注意してください。
それは、「信仰と麦をなぜ同一視してよいのかは、説明されていない」ということです。「屁理屈(へりくつ)」と思われるでしょうが、つぎのように考えてみましょう。
仮に信仰が、麦のように有用なものではなく、雑草のように有害なものであるとしましょう。そうであれば、鳥に食べられたり、石の地に落ちて枯れてしまうのは、むしろ望ましいことだと言えるでしょう。
「信仰を育てるのは重要だ。途中で枯らしてはならない」という結論は、「信仰は麦のように有用」ということを認めるからこそ、導かれるものなのです。
では、なぜ「信仰は麦のように有用なもの」なのでしょうか?
このことは、説明されていません。
最も重要なポイントは、「信仰は麦のように有用なものである」のか、それとも、「信仰は雑草のように有害なものである」のか、ということなのです。
それにもかかわらず、イエスは、証明なしに「信仰は麦のように有用なものである」と仮定して話を進めているだけなのです。
つまり、「なぜ信仰は有用なのでしょうか?」という最も重要な問いに対して、イエスは何も語っていないのです。「有用であると信ぜよ」と言っているだけです。
したがって、「種蒔く人」の譬えは、よくよく考えてみれば、錯覚を利用したトリックです。
あるいは、言葉は悪いですが、「すり替え詐欺」のようなものです。「信仰」という評価が難しいものを、明らかに有用である「麦」にすり替えたのです。
なお、イエスを弁護するために付け加えますが、これは「種蒔く人」にかぎったことではありません。どんな比喩も、程度の差こそあれ、同じ性質を持っています。
つまり、同一視できるかどうかが自明ではないものを比喩の対象として選び、問題とすべきことを比喩にすり替えてしまうのです。ですから、比喩はもともとトリックなのです。
イエスは、「信仰が有用である」ことを証明なしに人々に納得させるために、比喩を用いたのです。
それにもかかわらず、イエスの説教の何と力強いことでしょう!
これは、「魔術」としか言いようのないテクニックです。
※気になる続きは本書でお楽しみください。
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