定職に就かず、家族を持たず、シェアハウス暮らし。社会的評価よりも自由に生きることを大事にしてきたphaさん。6月5日には新刊『パーティーが終わって、中年が始まる』が発売になります。かつて「日本一有名なニート」ともいわれたphaさんは、どんな生き方を実践してきたのか? 著書『がんばらない練習』よりご紹介します。
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アンコールで誰も手を叩かなかったらどうなるんだろう
昔からアンコールを待つ時間が苦手だ。あの、ライブで一通りの演奏が終わって演者たちが退場したあと、会場にあふれていた拍手の音がそのうち自然と揃ってきてリズムを取るようになり、バッ、バッ、バッ、バッ、バッ、とアンコールが始まるまで手を叩き続けるというやつだ。
何が苦手かというと、アンコールに何をやるかは最初から用意されているにもかかわらず、「本当はここで演奏は終わりなのだけど、観客の皆さんが盛り上がってくれたからリクエストに応えて特別に何かおまけをやりますね」という形式を取っているところだ。あらかじめ結果が決まっているのに形式的なやりとりをしなきゃいけないということに何か恥ずかしさと無駄さを感じてしまう。
アンコールを用意していたのに観客が誰も手を叩かなかったらどうなるんだろう、とか想像してしまうのだけど、一度もそんな風になったことはない。結局、一人だけ手を叩いてないのも落ち着かないし、自分もアンコールを見たい気持ちはあるので、自分も手を叩いてしまうのだけど。手が痛くならない程度に柔らかく。
社会の中では、同じような苦手さを感じることがたくさんある。結論は決まっているのに何か形式的な手続きを取らないといけないというシチュエーションが。例えば店で食事をしたときに、ここは多分相手がお金を出してくれる感じなのがわかっているのだけど、自分でも一応財布を出して払う素振りを見せたほうがいいのか、とか。
ときどき、ひょっとしてこれは、あれをやらないといけないのか、と思って戦慄してしまう。レジの前で伝票を奪い合いながら「ここは私が」「いやここは私が」「いやいや」「いやいやいや」「まあまあまあ」「まあまあまあまあ」という茶番を。社会は恐ろしい。
居酒屋でどの席に座ったらよいのかがわからない
そうした形式的なやりとりが何かを緩和しているのだということはわからなくはない。その形式を身につけている人にとっては、形式があったほうがないよりも人付き合いがやりやすいというのがあるのだろう。だけどその形式にうまく乗れない人間にとっては、こいつの振る舞いは変だと嘲笑されないだろうか、という恐怖がのしかかってくる。
他には、居酒屋でどの席に座ったらよいのかもよくわからない。上座とか下座とかを気にするべきなのか、それともざっくばらんな席でそんなことを気にする方が変なのか。
居酒屋では料理を取り分けるべきなのかどうかも難しい問題だ。基本的には各自勝手に食べたい人が取ればいいと思うのだけど、そう思って何もしないでぼーっとしていると、気が利く女子とかが取り分け始めて、何もせずに座っている自分が女性にばかりそういうのをやらせる差別主義者みたいになってしまうから、いっそのこと率先して自分が取り分けたほうがいいのかと思ったりもするけれど、でもそれも面倒臭い。
居酒屋で瓶ビールを頼んだとき、お酌をし合うというのをやったほうがいいのかどうかもわからなくなってつらいから、生ビールのほうがいい。ていうかそもそも瓶ビールと生ビールの味の違いもよくわかっていない。なんで瓶と生と両方あるんだろう。面倒臭い。なんか居酒屋の話ばっかりだな。居酒屋が全部悪い気がしてきた。居酒屋を全部潰せば解決するのではないだろうか。
ちゃんとした社会人はみんな、居酒屋での席の座り方とか、お酌をするタイミングとか、お酌をするときはラベルを上に向けるとかどうするとか、瓶ビールと生ビールの味の違いとか、日本酒の醸造方法による味の違いとか、そういうのを全部わかっているのだろうか。僕はよくわからないのでずっと公園で缶ビールを飲んでいたい……。
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がんばらない練習
やる気がわかない、社交が苦手、決めるのが怖い……。仕事や人間関係で疲れたあなたに、そっと寄り添ってくれるのは、京大卒というエリートながら「日本一有名なニート」として幅広い共感を集めるphaさんだ。著書『がんばらない練習』は、そんなphaさんが実践する「自分らしく生きる方法」をつづった一冊。読めば心がふっと軽くなる本書より、一部をご紹介します。