福岡市の「唐人町寺子屋」の塾長で、日々、150名余りの小中高生たちと奮闘する鳥羽和久さん。同じ塾内では文芸・音楽イベントを開催したり、書籍や雑貨を隣の店で売るなど、地域で楽しめる空間がそこにあります。開校してから19年、子や親のリアルな悩みにも耳を傾け、学びの意味や今の生き方を模索した話題書(『親子の手帖』『おやときどきこども』)もある鳥羽先生にうかがいました。「勉強って何のため?」。子供に聞かれたら、現場の先生のありがたいお話をバシッと伝えようという安易な思いを込めて。しかしそれは思わぬかたちで自分に戻ってくることになりました。
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モヤモヤしたまま、みんな大人になっていた
「何のために勉強するの?」。ある日突然、子どもからそう尋ねられた大人は、ほとんどの場合、とっさに言葉を発することができず返答に窮(きゅう)するでしょう。そして、ひと呼吸置いた後に、なんとか子どもの疑問に大人らしい回答をしようと、「あなたの将来のために必要だから」などと、それらしいことを言ってはみるものの、尋ねた子どもも返答した大人もなんだかモヤモヤとしたものが残ったままになりがちです。
しかし、こうやって無理くりな回答を絞り出す前に、いま一度、私たちが思わず言葉に窮したその瞬間に立ち戻ってみたいと思います。
「何のために勉強するの?」。そう尋ねられてヒヤッとするあの気持ちはいったいどこから来るのでしょうか。それはもしかしたら、自分のプライドが傷つけられてしまう、という大人の直感から来ているのかもしれません。私たち大人は、いままでそれなりに勉強してきたのにもかかわらず、実は何のために勉強してきたのかがいまいち分かっていないのではないでしょうか。その辺りが判然としないままに日々を生きているから、いきなり尋ねられると変な汗が出るんです。でも、「実は分かっていない」なんて、子どもの前で易々と認めるわけにはいきません。だって私たち大人は子どもよりずっと経験値を積んできたはずなんです。その経験の頼りなさを認めることは、私という存在が覚束ない曖昧さに彩られていることを知ることと同義であり、それは案外しんどいことです。
でも、私たち大人は、まず勇気を持って認めたほうがいいと思うのです。自分が何のために勉強してきて、それがいまの生活にどのような影響を及ぼしているかいまいち分かっていないこと。そして、もし幸いにして部分的に分かっている場合でさえ、その個別の実感が、果たしていま目の前にいる子どもに適用できるのかについては全く自信が持てないことを。そうでなくては、いつまでも現実から浮遊した、表面的な回答を繰り返すだけの大人になります。それではいつまでも大人としてアマチュアのままです。そんな大人が発する言葉には、きっと子どもは耳を傾けてはくれないでしょう。
しかしながら、「分からない」ことは必ずしも大人に非があることを意味しません。なぜなら、分からないのは当たり前だからです。私たちの行動の一つひとつ、例えば、友人にメールを送る、会社で仕事をする、同僚と会話する、ウェブニュースを読む、料理する、車の運転をする、人のさりげない一言に笑う、テレビドラマを見てふと泣きそうになる……。それら全てに間違いなくこれまでの人生のさまざまな学習効果が反映されているはずなのですが、それをワン・ツー・ワン方式であのときのあれがいまこの行動の役に立ったなどと言えるほど、人間の認知は単純じゃないんです。それは、説明しつくすにはあまりにも複雑すぎて太刀打ちできないというだけで、私たちのいまはいつでも過去の学習が反映されたものとして立ち現れます。
だから、子どものころ学んだ勉強についても「何のために勉強するの?」という質問に一言で答えられるほどその答えは簡単明瞭ではありません。漢字を覚えていたから文章を書くときに困らなくてよかった。英語を勉強したから外国に行って役に立った。こういう話はとても表層的で、勉強をする意味をたった1%も表現していません。
抽象を扱えるようになるのは勉強の一つの価値。ではあるけれど
一つだけ勉強することの価値を述べておくと、それは、抽象を扱えるようになるということです。私たちは勉強を通して抽象の扉を開き、具体と抽象の間を往還することで、世の中を見る解析度を高める努力をしてきました。虚数を通してしか見えない世界の広がり、量子力学を通してしか実感にたどり着けない世界の深さというのは、確かに存在します。抽象を通して具体を見ることで、ありふれた世界が全く別様になる。それがまさに勉強の醍醐味です。
しかし、このことは、解析度が高いほど素晴らしい世界が広がるというような単純な話ではありません。例えば大人と子どもの環境に対する反応を見比べてみるだけで分かりますが、子どもより大人のほうが世界を見る解析度が高いから、大人はそのぶんだけ世界の豊かさを堪能しているとはとうてい言えません。むしろ大人は、具体を具体のままに見る子どもの目を失ってしまったからこそ、それを取り戻すために抽象という代理物に飛び込んでいるのかもしれません。
解析度を高めたところで、世界を豊かに感受することに繋がるとは限らないとなると、再び私たちはいったい何のために勉強するのか?という問いに戻ることになります。これを解くための鍵は、実はこの問いそのものに潜んでいます。
子どもに「何のために勉強するの?」と尋ねられたとき、私自身は、「なぜ、そんな疑問を持ったの?」と逆に子どもに尋ねることが多いです。そうすると、子どもたちは例えば「勉強がめんどうくさい」とか、「将来何の役に立つのか分からない」とか、「勉強をやる意味が分からないのに頑張れない」とか、そういうことを話し出します。このときに気づかされるのは、子どもたちはいつの間にか、勉強は自分の意志でやらなければならないもの、という意識をデフォルトで大人に植え付けられてしまっているということです。だからこそ、勉強に対するやる気がない自分の意志を、さもそれが問題であるかのように取り扱ってしまう。この点に謎を解く鍵があると私は思いました。子どもが「何のために勉強するの?」と尋ねた時点で、彼らはすでに勉強というものに出会い損ねている気がしたんです。
不思議だな、なんでだろう…純粋で自然な「関心」を覚えたのは最近いつ?
私たちは日常生活のさまざまな場面で、環境から呼び覚まされる経験をしています。例えば、ティッシュを1枚取ったら、またもう1枚出てくる。これだけのことでも神秘が潜んでいて、遠い昔に私たちはそのことを不思議だなと思ったかもしれません。ここには勉強の種が間違いなくあったのですが、私たちはそれを育てる前に、形骸化した「興味・関心」を大人から植え付けられてしまったのかもしれません。勉強という手段が目的に変わった時点で死んでいるのに、そのことが分からない大人から、良かれと思って押し付けられてしまったのかもしれません。誰もその種を大切に育ててくれなかった。だから、ついに実を結ぶことはなかった。だから私たちは、「何のために勉強するの?」という問いの前で身体を固くしてしまうのかもしれません。
しかし、幸いにも勉強はどんな年齢になってもやり直すことができます。「若い人みたいに脳みそが柔らかくないから」なんて言うのは、勉強の一側面を見て言っているだけで、実は年齢を重ねるほど勉強というのは面白くなります。年齢を重ねるとより深く孤独の意味が分かります。孤独が自分自身と対話するための条件であることが分かります。ここから思考が始まり、ようやく真の勉強と出会います。自分自身との対話の中で世界に耳を澄ますことを学んだ私たちは、ようやく勉強する意志を介在することなく、勉強に呼び覚まされて、それに導かれるように勉強を始めることになるのです。だから、私はいくつになっても、自らに勉強の種を蒔くことを忘れないでいようと思います。
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