今、最高にアツい小説家・伊岡瞬さん。
『代償』『悪寒』『赤い砂』……他、話題作が多数ある中で、あらためておススメしたいのが『もしも俺たちが天使なら』。
他人のものを、命懸けで守る。人生、たまにはそんなことがあってもいい―ー。
そんな気持ちにさせてくれる痛快&爽快な本作は、詐欺師、ヒモ、元刑事という、ありえない3人組が大悪党と戦う物語だ。
この物語の魅力をお伝えしたく、本文を公開する!
* * *
「人生最大の教訓は、愚かな者たちでさえ時には正しいと知ることだ」
――ウィンストン・チャーチル
インターチェンジを降りれば、あたり一面がぶどう畑だ。
中央高速道勝沼の料金所を抜け、谷川涼一は迷うことなくハンドルを切った。
視界を遮るような建物がないせいか、やけにだだっ広く感じる甲州街道を少し西へ進んでから、すぐに北へと折れ、なだらかな勾配を上っていく。
青く晴れ渡った空に、クロワッサンのような形をした雲が浮いている。
ゴールデンウィーク明けの平日ということもあってか、賑わいというものを感じない。ぶどう棚で作業をしている人の姿はちらほらと見えるが、道を歩く人はまばらだ。道の両側につぎつぎ現れる《ぶどう狩り、食べ放題》の看板も、どこか色あせて見える。観光地としてのハイシーズンは、まだ先だ。
ただ、品種にもよるが五月のいまは花の最盛期だ。間引きをしたり、房の形を整えたりと、いろいろ忙しいーー。
涼一は、そんなことを考えている自分に気づいて、小さく笑った。ほんのひと月前までぶどうに関する知識といえば、種ありと種なしがある、ぐらいのものだったのに。
《勝沼ぶどう郷駅まであと一キロ》の看板が見えた。
高台にあるこの駅の周辺は県内でも屈指の桜の名所で、花見の季節には、かなり賑わうらしい。いまはもう、葉桜と呼ぶのさえ時期遅れだが。撤収し忘れたのか、臨時駐車場の案内掲示板が、やや傾いてぽつんと立っている。
涼一は、駅を目前にして右手の山側へ折れ、さらに傾斜角度の増した道を上る。シフトダウンしなくとも、V8エンジン搭載のレクサスは息切れすることもない。
もう少し派手な外車を借りる手もあったが、はじめからあまり目立ちすぎてはいけない。
いや、むしろ存在を消すぐらいでなければいけない。
亡き師匠の教えだ。
民家がほとんど見当たらなくなった。人間の背丈ほどのぶどう棚が見渡すかぎりに広がる中を、さらに高台へと上る。
景色のすべてが眼下になるころ、ようやく目的地に着いた。
「このあたりに、停めるか」
つい、ひとりごとを漏らした。ふだんはあまり口にしないのだが、のどかな風景のせいかもしれない。
勾配のゆるやかなあたりに車を停めた。ほとんど車も通らないので、邪魔になることもないだろう。エンジンを切り、ドアを開ける。降り立った瞬間、どこかでうぐいすが鳴いた。
標高は五百メートルちょっとのはずだが、視界を遮るものがないので見晴らしはかなりいい。盆地を広く見下ろし、天下を睥睨している気になる。
涼一は軽く伸びをしてから、丘の下へ目を転じた。いま通ってきた道が、筋になって見えている。農作業用らしき軽トラックがのんびり走っていく。ついさっきまでいた都心の雑踏から、車で一時間半ほどの場所とは思えないのどかさだ。
「さてと」
涼一は腰を折って、車内へ顔を突っ込んだ。
「捷ちゃん、着いたぜ。そろそろ起きてくれ」
助手席のシートをめいっぱい倒していびきをかいていた松岡捷が、両手をあげてあくびをした。寝ぐせのついた髪を二度ほど梳いて、長身を折り曲げるようにして車から降り立つ。
「くそう、よく寝た」
もう一度派手なあくびをする。その気配に驚いて、近くの木から鳥が飛び立った。
はたからは機嫌がいいのか悪いのかよくわからない松岡は、仕立てのいいスラックスのポケットに両手を突っ込んだまま、周囲を睨みまわしている。
「へっ、相変わらず田舎だな」口から漏れたのは、そんな愛想のないせりふだった。
「十年ぶりなんだろう? 懐かしくないか」涼一がたずねる。
こんどは山でかっこうが鳴いた。
松岡が、「いまの、聞こえただろ」という顔で涼一を見た。
「こんなど田舎、百万年経ったって懐かしくなんかねえよ」
「そうかな、たまにはこんなのどかな土地での仕事も悪くないけどね」
涼一は、斜面をやや下ったあたりに建つ大きな白い家に視線を戻した。軽い口調とは裏腹に、気持ちを引き締める。
あの平穏に見える白い家に棲みついたものの正体、それをたしかめるために来た。
ただの善人か、どこにでもいそうな小悪党か、それとも――。
まあいいさ、と思う。たとえどんな相手だろうと、すぐに素顔をさらけ出させてみせる。
1 涼一
谷川涼一は、春物のコートの襟を立てて夜の住宅街を急いでいた。
四月になって一週間が経つというのに、まだまだ夜風は冷たい。風に乗ってちらほらと舞う桜の花びらが、よけいに肌寒さを感じさせる。
早いところ渋谷の街に戻って久々のラーメンでもかきこみたい。さっきから、そんな気分になっている。
このあたりは松濤(しょうとう)地区と呼ばれ、渋谷駅西口の繁華街や都内屈指のラブホテル街に隣接してはいるが、日本を代表する高級住宅街だ。人の背丈よりはるかに高い塀が続き、その奥に豪邸が建ち並んでいる。近づくことを拒まれているようで、涼一はこの街があまり好きではない。
その片隅にある公園に、彼らはいた。
この場所は、昼間に何度も通ったことがある。中央には小さいながら池があり、植え込みも多い。鬼ごっこやかくれんぼをするには最適なので、公園の少ないこの界隈では、子どもたちの希少な遊び場だ。
涼一は歩道に立ち止まり、そっと植え込みの隙間からのぞいてみた。もちろん、こんな時刻に遊んでいる児童などおらず、いかにもガラの悪そうな若者数人が、ベンチに座った中年の男を取り囲んでいる。
若者のひとりが短く何か怒鳴って、ベンチの足を蹴った。ごすん、という低い音が響く。
中年男はうなだれたまま反応しない。陰になって、顔がよく見えない。
いまどきオヤジ狩りか。
周囲を見まわしたが、瀟洒なマンションか要塞のような邸宅があるばかりで、人の気配というものがない。
さて、どうしたものか。――いや、考えるまでもない。気づかなかったふりをしてさっさと通り過ぎるだけだ。金になりそうもないトラブルになど、巻き込まれたくない。
涼一はコートの襟をしっかりと立て、ポケットに両手を突っ込み、ふたたび歩きだした。
少し進んだところで、巻き舌で罵る声が公園内に響いた。
「だからよ、謝るんだったら、誠意を見せろっての」
またもごすんという鈍い音が聞こえ、つい足が止まった。
やめとけ、かかわるな――。
自分に言い聞かせる。あと五分も歩けば、半熟煮卵入りのあったかいラーメンにありつけるのだ。
「てめえ、なに見てんだよ」
思わず振り返ってしまった。
しかし、その怒声は涼一に向けられたものではなかった。五人組の視線は、いつのまにか現れた、白いブルゾンを着た背の高い若者に集まっている。ポケットに両手を突っ込んだまま、たったひとりで、五人を睨みつけている。
また少し興味が湧いた。ラーメンをもう少しだけ先に延ばすことにして、樹木の陰を伝い、会話が聞きとれそうなあたりまで移動した。
双方の風体を観察する。五人組は、背中に海賊の旗印のような髑髏(どくろ)がプリントされた、揃いの黒いジャンパーを着ている。高円寺や下北沢あたりの店先にぶら下がっていそうなしろものだ。一方の白いブルゾンは、デザインや質感からしておそらくハイブランド製だろう。
洋服の趣味以上に両者の大きな違いは人相だ。
五人組は、因縁をつけてまわるためにここまで育ちました、という顔つきをしている。対して、白ブルゾンは、モデルかタレントで通りそうな二枚目だ。このあたりには芸能人も多く住んでいる。そう思ってみれば、どこかで見たような気がしてきた。有名人だろうか。だとすれば、多少は金になるかもしれない。
「もしかしてきみ、浜口君だよね」
白ブルゾンが、ポケットから出した左手で五人組のひとりを指差した。多勢に無勢だが、気負いのようなものがまったく感じられない。一方、最初にからまれていた中年男は、腰を下ろしたまま、逃げるでもなくぼんやりとなりゆきを見ている。
「なんだこいつ」
浜口君と呼ばれた金髪の男が、一歩近づいた。黒いジャンパーの下から、見ているほうが恥ずかしくなるような、派手な黄色いTシャツが見えた。
「あっ、おまえ松岡だな。この――」
浜口は最後まで言うことができなかった。白ブルゾンが無駄のない動きで、浜口の胸を左足で蹴り飛ばしたからだ。瞬きするほどの間に、一メートル以上も吹っ飛ばされて、尻餅をついた。
涼一はすぐに、《松岡、二十代半ば、身長百八十五センチ前後》と頭の中に書き留めた。
「きみたち、このあいだ、おれのお友達を可愛がってくれたらしいじゃん。だから、そのお礼。もうしないでね」
松岡と呼ばれた男の、人を食った物言いに、浜口は地べたに座ったまま口を半開きにしている。
「くそ野郎」
「ぶっ殺してやる」
残った仲間四人が、口々に汚い言葉を吐いて松岡に飛びかかっていった。松岡は薄笑いを浮かべたまま、ひとり目の拳をかわし、ふたり目の足をすくって転ばし、残りのふたりを殴りつけた。
その間、わずか数秒。結局、五人全員が土の上に尻をついていた。
「じゃあ、そういうことで」
松岡は顎の先を軽くしゃくり上げると、さっさと歩きだした。
「あ、待て」
気をとりなおした五人組が立ち上がって、
松岡を追いかける。行く手をふさぎ、ふたたび揉み合いになった。こんどはさすがに五人組も油断していないせいか、さきほどのように簡単には決着がつかない。
それでもやはり、松岡のほうが数段喧嘩慣れしていた。
一対五の勝負にもかかわらず、まったく引けをとっていない。公園灯に照らされて、白いブルゾンが派手に翻るようすは、歌舞伎の立ち回りを連想させた。
涼一は、この松岡という若者がすっかり気に入った。あの顔立ち、あの度胸、あの身のこなし。そのうえセレブとなれば、めったにいない上ものだ。
こいつは使える。ぜひ、お近づきになりたい――。
ところが松岡は、少しも困っていないようだ。これでは、恩を売るきっかけがつかめない。
どうしたものかと見守るうちに、松岡の正体を思い出しかけてきた。やはり、最近どこかで会っている。だが、もう少しというところで答えが出てこない。いらいらする。
「ふざけやがって」
痩せてひょろっとした赤Tシャツがとうとうナイフを出した。公園灯の光を受けて刃先が鈍く光る。それを合図に、あっという間に五人全員が凶器を手にした。三人がナイフ、ふたりが伸縮タイプの特殊警棒だ。
涼一はあきれながらも、その一方で「よしよし」と思った。これで松岡も少してこずることになるだろう。手助けできるチャンスがありそうだ。
「おまえら、もうそのへんにしとけよ」
声の主は、ベンチに座ったきりの中年男だ。よけいな口出しをするなと思いつつ、涼一は首をかしげた。低めだがよく通るこの声にも覚えがある――。何年か前に、似たような場面で、まったく同じせりふを聞いた。
「なんだ、てめえ」
ナイフを持ち出したことで、さらに逆上してしまったらしい赤Tシャツがすごむ。
中年男が、ゆっくりと立ち上がった。黒っぽい、そしてあまり高級そうに見えないスーツを着ている。公園灯の白い光を受けて、ようやく、顔が見えた。うっすら無精ひげを生やし、髪の毛もぼさっとしているが、眼光は鋭く精悍な顔つきだ。
「染井さん」と涼一は小さく声に出した。
(つづく)
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