今、最高にアツい小説家・伊岡瞬さん。
『代償』『悪寒』『赤い砂』……他、話題作が多数ある中で、あらためておススメしたいのが『もしも俺たちが天使なら』。
他人のものを、命懸けで守る。人生、たまにはそんなことがあってもいい―ー。そんな気持ちにさせてくれる痛快&爽快な本作。
公園で、インチキくさい男・谷川、喧嘩の強い中年・染井と出合った松岡捷は、警察を巻いて、ある豪邸に入っていく――。
* * *
2 捷
まったくひどい目にあった――。
松岡捷は、足早に歩きながら、しきりに振り返った。どうやら警官はまいたらしい。
あんなものを連れて帰ったら、さすがの絵美も怒るだろう。喧嘩のことは内緒にしておこう。
「タコ、アホ」
人影のない暗い路地に向かって、悪態をつく。
腹立ちは、浜口一味に対してと同じぐらいに、からまれていた中年男にも向いた。あれだけ喧嘩が強いなら、どうして最初から反撃しないのか。本当は強いくせに弱いふりをしている偽善者は、きざみネギの入った納豆と同じぐらい嫌いだ。
さらに、だ。途中で割り込んできたあの変な刑事、あいつはいったい何者なのか。制服警官が現れたとたん、急にそわそわしはじめた。そもそも刑事というより、金持ちおばさん相手にインチキ宝石でも売りつけているほうが似合いそうな、やわな二枚目だった。もし偽者だとしたら、なぜ首を突っ込んできた?
それにしても、どうして世の中ろくでなしばっかりなのだ――。
遠くから、パトカーのサイレンが近づいてくる。つかまってたまるか。帰るべき屋敷は目の前だ。早くシャワーを浴びてビールが飲みたい。
つい最近になって知ったのだが、このあたりは高級住宅街と呼ばれているらしい。近所づきあいを拒絶したような、高い塀や生け垣をめぐらせた家ばかりだ。「すかしてんじゃねえぞ」と犬の糞でも投げ込んでやろうかと思うが、道端には糞どころか吸殻ひとつ落ちていない。
その一角にあっても、《敷島》という表札の掛かったこの屋敷は、とりわけ存在感があった。
高さ二メートル五十センチもある、むき出しのコンクリートの壁にぐるりと囲まれている。下からは見えないが、壁の上には、侵入者よけの尖った硬質ガラスが隙間なく埋め込まれていると聞いた。そのほか、高性能の監視カメラがそこらじゅうにある。こうしておけば、泥棒も生半可な気持ちでは忍び込む気にはなれないのだそうだ。
捷は、大型乗用車が二台同時に出入りできる自動車専用扉の脇に立った。
電動シャッターの隣に、人がひとり通れるだけの通用門があって、そこから出入りするよう言われている。車庫に比べて人間用のドアがやけに小さいのは、この家の住人が歩いて外出などしないからだ。
壁に埋め込まれた暗証番号を押してキーボックスを開け、さらに指紋認証してようやくロックが解除される。最近は慣れたが、最初のころはエラー表示ばかり出た。一度など、腹立ちのあまり革靴のかかとで叩いたら、アラームが鳴りだして大変な騒ぎになった。あげくの果てに、警備会社ばかりでなく、近くの交番から制服警官まで駆けつけてきたのには驚いた。
人間用の扉を押し開け、するりと中に入る。すぐに、低い唸り声をあげて、放し飼いにしているドーベルマンが近づいてきた。
二頭のドーベルマンは、いつもより興奮しているようだった。捷の切り傷から流れたわずかな血の臭いをかいだのかもしれない。それでも吠えかかることはなく、頭を垂れて捷に近づく。
「よう、レックスにマックス。機嫌はどうだ」
そう声をかけて交互に耳の後ろと首を撫でてやると、二頭は満足したように鼻を鳴らし、防犯用の砂利がびっしりと敷き詰められた広い庭へ戻っていった。
無意味に大きいジャグジーバスに大の字になって浮かんでみたが、股間のあたりがくすぐったいだけで少しも面白くない。ときどき湯を吐き出す金色のライオンの頭を蹴ると、あやうく足の指を折りそうになった。
熱めのシャワーを浴びる。顔の切り傷にシャンプーが少ししみる。
「痛えな、ちくしょう」
広々としたバスルームに、エコーのかかった悪態が吸い込まれていく。
なんとなくすっきりしない気分のまま、風呂からあがった。はずしておいた、唯一の装飾品ともいえる、シャチのペンダントヘッドがついたネックレスをはめる。襟にブランドロゴの入ったふかふかのバスローブに袖を通し、濡れた髪を拭きながらリビングに顔を出した。
ソファにもたれて、敷島絵美がなにか考えごとをしている。
「テレビがつきっぱなしだぜ」
捷の声に、はっとしたように絵美が顔をあげた。ほんの一瞬、とまどったような表情を浮かべたが、捷の顔を見るなりすぐに形のいい眉をひそめた。
「そんなことより捷ちゃん。また、喧嘩したでしょ」
「してねえよ」
「じゃあ、あのブルゾンはなによ。ぼろぼろにして。もう着られないじゃない、八万もしたのに」
「もともと趣味じゃねえから、捨てといてよ」
「またそんなこと言って」
絵美はソファに膝立ちになって、捷に顔を近づけた。肌触りのよさそうな、ピンク色のジャージの部屋着が、柔らかい曲線を作っている。
「それに、顔が傷だらけじゃない。ナイフで切られたの? 顔は傷つけないって約束したのに」
「だったら、絆創膏でも貼ってくれよ」
「まったく」
絵美は、広いリビングを横切って嵌め込み式のサイドボードの中をごそごそと探し、小ぶりの救急箱を持って戻った。
「捷ちゃんがこの家に来るまで、ほとんど使ったこともなかったのに」
絵美は、ピンセットで挟んだ脱脂綿を消毒液で湿らせ、傷口を叩いた。下側半分だけのブラジャーをつけた胸の、柔らかそうな谷間が視界に入る。見慣れたはずなのに、つい目が行ってしまう。敷島のおやじはこの谷間にいくら金を出したのだろうと、少しむかついた。
「痛ててて。消毒なんていらないって。ここと、ここに、貼ってくれればいい」
「痛いんだったら、喧嘩なんかするなっていうの。ばか」
絵美は絆創膏を二枚顔に貼ると、はいできあがり、と頬を軽く叩いた。
「あんまりひどい傷はいやよ。わたし、亭主以外の男には、顔と体以外は求めてないんだから」
「わかったから、ビール」
ソファにどさっと尻を落とした。
はずみで、絵美の体がふわっと浮き上がった。メンテナンスに金をかけているだけあって、三十二歳にしては贅肉が少ない。
「なによ、いばって。テーブルの上のクーラーに入ってるわよ」
捷はうなずいて、バケツほどもあるクーラーからビールの小瓶を抜き取り、置かれたタオルで雫をぬぐった。
「ちぇっ。なんだこれ、また外国産か。国産にしてくれって言ってんのに」
「しょうがないじゃない、外国からのお客さん用なんだから。銘柄にこだわらないのは日本人だけよ」
絵美がにじり寄ってきた。腰や太ももが密着する。薄い部屋着を通して、体温を感じる。
「そんなことより、今日はストーカー変態野郎は来てないのか」
「来てないみたい。それに、ちゃんと手は打ったから」
「手なんか打たなくたって、おれが追い返してやるって」
「捷ちゃんを巻き込みたくないから人を頼んだんでしょ。ねえ、そんなことより、ビール控えめにしといてね」
「なんでだよ」
「だって、酔っぱらって”運動”したら、傷口から血が出るかもしれないじゃない」
「今日は運動はしない」
いきなり耳に唇を当てられたので、小さな悲鳴をあげて二十センチほど逃げた。逃げたぶんだけ、絵美がにじり寄る。
「顔が傷つくのはやだけど、男の血って興奮するのよね」
「かんべんしてくれよ。そういう気分じゃない」
「気分なんて、なりゆきにまかせたらいいのよ」
絵美の体がまたくっついた。手が、捷の太ももに伸びた。それをすぐに払いのける。
「ばかを相手にしてきたから、疲れてんだよ」
「ねえ、ぐずぐず言ってないで、さっさとビール置いて――」
捷がまた逃げようとしたとき、来訪者を告げるチャイムが鳴った。絵美の上半身が離れる。
「誰かしらこんな時刻に」不安げだ。
「あいつじゃないのか。ストーカー野郎」
「やなこと言わないでよ」
顔をしかめながら、テーブルに置かれた電話機に手を伸ばす。小さなモニターがついていて、インターフォンの子機機能にも切り替えられる。
「あ、警察だったら、おれはもう寝てるから」捷が、あわてて釘を刺す。「今日はずっと家でテレビを見てました」
絵美の目がきつくなった。
「やっぱりなにかしたのね」
「してない、してない」
絵美は捷を睨みながら通話ボタンを押し、受話器を耳に当てた。警戒した声で応答する。
「はい、敷島です。――ええ、そうです。――はい、おりますけど、失礼ですが、どちら様でしょう。――え? 公園で? ――ええっ。まあ、ほんとに」
捷は、そっと立ち上がった。ビールの瓶を手にしたまま忍び足で絵美に背を向ける。
「少々お待ちくださいね」
保留ボタンを押した絵美が声をあげた。
「ねえ捷ちゃん、待ちなさいよ。ストーカーでも警察でもないわよ」
捷が振り返る。
「じゃあ、誰だよ」
「通りすがりの人。捷ちゃんのスマートフォン拾ってくれたんだって」
「スマホ?」
ふだん携帯電話はほとんど使わないので、気にもとめていなかった。尻のポケットに入れておいた気がするが、走って逃げる途中で落としたのかもしれない。
まったく今夜はついてねえな、とぼやきながら、脱ぎ捨てたままになっていたスラックスを拾い上げ、ポケットを探ってみた。
「あ、ほんとだ。どっかで落とした」
「よかったじゃない」
絵美は、保留にしていた子機を取り上げた。じゃあ、とりにうかがいます。通用口のロックをはずしますが中に入らないように、なぜなら、放し飼いのドーベルマンが二頭いるから、とつけ加えた。
「松永さんは帰っちゃったから、自分で行ってね」
松永というのは、午後三時以降の家事を受け持つ今年六十歳になる家政婦だ。
「あ、麻亜沙ちゃんだ」
捷は大型テレビの画面に見入った。バラエティ番組に登場したアイドルの麻亜沙が、アップになっている。一年前にはじめて見て以来、大ファンなのだ。
「ねえ、待たせたら悪いわよ」
「悪いけど、代わりに受け取ってくれよ」
「ええっ、なによそれ。捷ちゃんのスマホでしょ」
「だってほら、麻亜沙ちゃんが出てんだよ。いま邪魔されたら、おれ、そいつのこと、ボコボコにしちまうよ」
「どんな理屈よ。わたしだって、もう着替えてこんな恰好だし」
「ぜんぜん、オッケーだ。世界一色っぽい」
絵美には目もくれずに、捷はテレビに一番近いソファに腰を下ろしてしまった。
「まったくもう。誰の家で、誰のビール飲んで、誰のテレビ見てんのよ」
「全部、あんたの旦那のもの」
絵美が、ぶりぶり怒りながらも、ソファに放り出してあったカーディガンを羽織るのが視界の隅に入った。
「あとで、償ってもらうからね」
捷の背中に声をかけて、絵美がリビングを出ていった。
もしも俺たちが天使なら
偶然出会った3人の前に、「変な男に実家が乗っ取られそう」と捷の妹が現れたのが、すべての始まりだった―。この闘いは、大金のためか、友情のためか―。“詐欺師”+“ヒモ”+“元刑事”=“正義の味方”!?野良犬みたいなイケメン小悪党トリオが、人助けのために凶悪組織に立ち向かう。
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