今、最高にアツい小説家・伊岡瞬さん。
『代償』『悪寒』『赤い砂』……他、話題作が多数ある中で、あらためておススメしたいのが『もしも俺たちが天使なら』。
他人のものを、命懸けで守る。人生、たまにはそんなことがあってもいい―ー。そんな気持ちにさせてくれる痛快&爽快な本作。
豪邸の美女は、松岡捷の何なのか?この豪邸に尋ねてきたのは、いったい誰なのか?いったい、この先どうなる⁉
* * *
「――あらやだあ、やっぱりわかっちゃうかしら」
楽しそうな絵美の声が近づいてくる。
「そりゃあ奥さんのような美貌には、めったにお目にかかれませんから」
調子のよさそうな、聞き覚えのある男の声が応える。一緒にこちらへ来るらしい。家にあげたということは、絵美の知り合いだったのだろうか。人間を、見た目と懐具合だけで判断するだけあって、絵美には妙に猜疑心の強いところがある。この夜更けに、見知らぬ男を家に入れるとは考えにくい。
「まったく、お上手なんだから」
「いえいえ。これだけ魅力的な女性に対して、生半可なお世辞はかえって失礼にあたるというものです」
「面白いかた。さ、どうぞ。散らかってますけど」
捷には、絵美の愛想のふりまきかたが、なんとなくいつもと違うように感じられた。
絵美に促されて入ってきた男の、紳士然とした顔を見た。
「おまえ、さっきの――」
変な刑事、と言いかけて、ことばを呑んだ。
「あら、知り合いなの?」
絵美の目がわずかに細くなった。
なんとなく本当のことは口にしないほうがいいような気がして、適当にごまかそうと思ったとき男が先に応えた。
「さっき、公園ですれ違っただけです」
男のほうでも正体を隠したいらしい。捷は話を合わせておくことにした。
「まあ、そんな感じだ」
「あら、そうなの」絵美が微笑んだが、まだ何か疑っているようだ。
「はい、これ。公園で落としたでしょ」
捷は、男の目を睨みつけたまま、差し出されたスマートフォンを受け取った。
「わざわざたずねてくださったの。交番に届け出たら、受け取りが面倒だろうって」
「どうも」
とりあえず礼は言った。男に向けていた視線を、絵美に移動させた。
「なんでこんなやつ家に入れたんだよ。スマホだけ受け取って、追い返せばよかっただろ」
「まあ、捷ちゃん、そんな失礼なこと言って」
絵美が腕を組んで軽く睨みつけた。
「いえいえ、しょうがありませんよ。こんな夜分ですものね。わたしも、つい、おことばに甘えてあがりこんでしまって」
男は、怒るようすもなく、にこにこ笑いながら手を振っている。ますます油断がならない。
人前で侮辱されても笑っているような人間は、よっぽどのばかか、腹になにかあるやつだと、死んだ祖父さんがよく言っていた。現に、口先では詫びているくせに帰ろうとしない。
それに、これまでに何度となく警察のお世話になっているが、刑事には独特の匂いというものがある。このにやけた男にはそれがない。だいたい、笑顔が爽やかすぎる。こんな、歯ブラシのCMに出て口もとをキラリとさせていそうな刑事は見たことがない。これ以上かかわらないほうがいいと本能が告げている。もちろん、半殺しにして叩き出していいというのなら、話はべつだが。
捷は、男を威嚇するようにもうひと睨みしてから、ふたりに背を向けてテレビを見ることにした。
「申し遅れました、わたくし、谷川と申します」
「あら、ご丁寧に」
名刺でも渡したらしい。
「あらら、奥さん。いや、これはすごいお料理じゃないですか」
谷川と名乗った男は、ダイニングテーブルに出しっぱなしの料理を褒めはじめた。たしかにご馳走だが、捷にとってはすっかり見飽きた料理だ。最近では見ただけでげっぷが出る。
「お料理も上手なんですね」
「やだわ、谷川さんたら。わたし、こんな料理作れないわよ」
絵美がしなを作っているようすが、巨大なテレビ画面のはしに映っている。
「そうですよね。そのお手入れされたネイルが傷みますものね」
「そうなのよ。これ、意外に不便なの」
「ぐだぐだうっせえな。テレビ見てんだよ」
捷は、テレビに顔を向けたまま大声で悪態をついた。
「ごめんなさいね」絵美がほんの少しだけ、声をひそめた。「さっき、どっかで喧嘩してきたみたいで、ご機嫌斜めなの。ワンちゃんと一緒」
「ああ、そうなんですか。喧嘩ですか。それはそれは」
男は、まるでいまはじめて聞いたかのような顔をして、しきりにうなずいている。
捷は、大好きな麻亜沙の出番が終わってしまったこともあって、テレビを見るふりをしながら、意識はほとんど背後のふたりに注いでいた。飽きもせずに「ほんとに素晴らしい料理で」だとか「いいえ、それほどでも」などと、ぐずぐずやっている。
言いたいことも聞きたいこともどっさりあるが、あえてひとつをあげるなら、さっきから何度も湧き上がってくる疑問だ。こいつはいったい、何者なのだ?
いくら面食いで男にだらしないとはいえ、初対面の絵美をこれだけ手なずける手腕は、只者ではない。少なくとも、刑事というのは嘘だろう。
「ねえ、捷ちゃん、このかたすごいのよ」
「へえ、そりゃすごい」
「またあんなこと言って。――あのね、レックスとマックスが、ぜんぜん吠えないのよ。さっき、わたしが門のところへ行く前に、谷川さんたら中へ入っちゃってたんだけど、あの子たちがおとなしく頭を撫でられてるのよ。びっくりしちゃった。だから、悪いかたじゃないってすぐわかったの」
「犬にそんなことわかるかよ」
「あら、わかるわよ。捷ちゃんなんて、最初のころ吠えられまくって、わたしが見てない隙にパパのゴルフクラブで、あの子たちのこと殴り殺そうとしたじゃない」
「しつけだよ、しつけ。おれなんてな、子どもんとき親父にげんこつで殴られたぞ」
「あらら、それはいけない」
谷川が、大げさな口調に身振りを交えて言う。
「動物も子どもも可愛がらないと。わたしは、子どもはいませんが、いつも動物には愛情を注いでいます。だから犬に吠えられたことがないんです」
「まあ、ほんと? やっぱり動物にも、紳士かどうかわかるのね」
絵美が、冷蔵庫からシャンパンを持ってきた。谷川はせっかくですからと応えて、グラスに注いでもらっている。
捷は、すっかり白けてしまってベッドルームにでも行きたかったのだが、その前に、絵美の隙を見てこの谷川という男を一発殴らないと、気が済まないところまで来ていた。成金趣味のこの気色悪い家から、何百万円盗もうと知ったことではないが、自分がコケにされるのは許せない。できそこないのジャムパンみたいな顔にしてやる。
しばらく、ソファで寝たふりをすることにした。
ふたりは、最近は銀座の質も落ちて、どこそこの店員のしつけもなっていない、などと盛り上がっている。
「ちょっとごめんなさい」
絵美がトイレに立った。捷はソファに寝そべったまま手を伸ばし、テーブルに載ったおしぼりを、谷川の顔めがけてすばやく投げつけた。
谷川が、計ったようなタイミングでテーブルの料理をのぞきこんだため、命中したと思ったおしぼりは頭の上をかすめていった。
谷川は嬉しそうにフォークの先に刺したローストビーフをひらひら振ってから口に運ぶ。
「うん。これはいい肉を使ってる。最近はパーティーで出る肉もひどくなってね。まあ、呼ばれもしないのに顔出してるんだから、文句は言えないんだけどね」
あははは、と笑ってもうひと切れ口に入れた。もぐもぐ噛みしめる顔が、いかにも嬉しそうだ。
捷はソファから起き上がって、正面から谷川を睨みつけた。
「おまえ、誰だよ」
谷川は、ゆっくり左右を確認したあとで、驚いた表情になって「自分のことか」と胸のあたりを指差した。
「そうだ、おまえだ」
「谷川涼一というんだ。投資コンサルタント”なんか”をしてる」
「”なんか”? 刑事ってのは嘘か」
谷川は、カルパッチョの切れはしにキャビアを山盛りに載せて口に放り込んだ。
「嘘だなんてひどいな。方便って言ってよ。きみらを見かねて助け船を出したのさ。あ、これはモノはよさそうだけど鮮度がちょっとな」
キャビアの瓶を裏返して賞味期限をたしかめている。捷は、こめかみあたりの血管が破裂するのではないかと思った。
「なんでおれのこと知ってる」自制心を総動員して、どうにか声を抑えて聞いた。「どうして、この家のことも知ってる」
「知らないよ」
静かに応えて、口のまわりをナプキンでぬぐった。
「嘘つくな。知ってただろうが。どうして携帯を拾っただけでここの家がわかるんだよ。おれのスマホには、住所なんて載ってなかったはずだ」
「じゃあ勘かな」
「てめえ」
間合いを詰めた捷の鼻先に、谷川が手にしたフォークの先端があった。
予想外のすばやい反応に一瞬たじろいだが、偶然に決まっている。気をとりなおし、目の前のフォークを払いのけ、谷川の胸ぐらをつかんだ。
谷川は顔色も変えず、口の中のサーモンをゆっくり飲みくだした。
「なめてると、本気でぶっ殺すぞ」
「きみには、まだ人は殺せないな」
谷川は平然と応え、胸ぐらをつかまれたままもう一枚サーモンを口に入れた。捷の視線を正面から受け止めても{怯∥ひる}むようすがない。
「うん。うまい。これは養殖じゃないね」
捷は、なんだか急にばからしくなって、突き飛ばすように谷川を解放した。谷川は、スーツの胸元に寄った{皺∥しわ}を手のひらで払い、小さく咳払いしてから話しだした。
「きみの名前は知らなかったよ。それは本当だ。ただ、この家のことはいろいろと知っていた。美容整形やエステを手広くやってる『シキシマHD(ホールデイングス)』の会長、敷島祐三郎氏の自宅だということとか、祐三郎氏はふだん赤坂のマンションに住んでいて月に一度くらいしか帰ってこないこととか、再婚相手の絵美さんは氏より二十五歳も年下で三十二歳の美味しい盛りだってこととか、ふたりとも打算で結婚した関係だってこととか、中学一年になる先妻の娘をカソリック系の全寮制の女子学校に入れてることとか、それをいいことに若い情夫がここ三カ月ばかり居候状態になっている、なんてこともね」
「なんだ、やっぱり詐欺師か」
そんなことを詳しく調べ上げているのは、税務署の職員か詐欺師ぐらいなものだろう。警戒心が消え、代わって軽蔑の気持ちが湧き上がる。
「この家から金をだまし取るのはいいけどな、おれになめた口をきくな。ジョーフとか呼ぶのもやめろ」
「がってん承知。あ、ちょっと古いか」
あははは、と白い歯を見せて笑う。
絵美が戻ってきた。
「谷川さん、お宅はどちらなの?」
「じつは関西のほうでして。知人をたずねた帰りなんです」真面目な表情に戻っている。
「あらあ、それは大変ね」
「ええ、これから都内でビジネスホテルでも探そうかと思っていたんです。食事もまだでしたし」
「だったら、うちに泊まっていったら」
「え、よろしいんですか」
「そうよ、そうして。どうせもうひとり、いばってばっかりの居候がいるし」絵美が顎の先を捷に向けた。
「あ、ご家族かと思いました。ハンサムだから、てっきりご姉弟かと」
「やだあ」絵美が谷川の肩をなれなれしく叩く。「ただの居候よ。捷ちゃんていうの。ちょっと野性味のあるところがいいのよね。――あら、でも谷川さんみたいな、知的なイケメンも悪くないわ」
「光栄の至りです」
たったいま捷に詐欺師だと指摘されたばかりなのに、よくもこれだけ平気な顔をしていられるものだと、殴るのも忘れて感心していた。
「ほら捷ちゃん。いつも『けっ』とかばっかり言ってないで、少しは谷川さんから紳士の振るまいを見習いなさいよ。さ、そうと決まったら、飲もう、飲もう」
もしも俺たちが天使なら
偶然出会った3人の前に、「変な男に実家が乗っ取られそう」と捷の妹が現れたのが、すべての始まりだった―。この闘いは、大金のためか、友情のためか―。“詐欺師”+“ヒモ”+“元刑事”=“正義の味方”!?野良犬みたいなイケメン小悪党トリオが、人助けのために凶悪組織に立ち向かう。
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