今、最高にアツい小説家・伊岡瞬さん。
『代償』『悪寒』『赤い砂』……他、話題作が多数ある中で、あらためておススメしたいのが『もしも俺たちが天使なら』。
他人のものを、命懸けで守る。人生、たまにはそんなことがあってもいい――。そんな気持ちにさせてくれる痛快&爽快な本作。
謎の男たちの正体が、少しずつ明らかに――。
* * *
「ねえ、捷ちゃん」
絵美にしつこく勧められて谷川がシャワーを浴びに行ったとたん、絵美が体をすり寄せてきた。
「なんだよ」
「二階に行きましょ」
太ももに置かれた手が熱を帯びている。
「あの野郎をどうするつもりなんだ。あんたが引っぱり込んだんだぞ」
「だって、いい男だったんだもん。わたし、ほら、病的に面食いでしょ。つい、気を許しちゃうのよね」
「そんなんだから、変態につけまわされるんだよ」
「関係ないじゃない」
「あいつはどうすんだ」谷川のいるバスルームを顎で指す。
「ほっときゃ、ひとりで飲んでるわよ。どうせ、現金や金目のものは、わたしでも持ち出せないようになってるし。――ね、そんなに気になるなら、あとで様子を見にくればいいじゃない。早く行こう、捷ちゃん」
それでもまだぶつぶつ言いながら腰をあげようとしない捷を見て、絵美の目からぬるさが消えた。
「あのさ、携帯拾っただけでこの家の場所がわかるわけないでしょ。どうせ怪しいなら、捷ちゃんがいるときに、なにを企んでるのかたしかめといたほうがいいじゃない。ひとりっきりにすれば正体を現すかもしれないでしょ。これ以上、変な男につきまとわれるのはこりごりなの」
まだなにか隠しているような気もしたが、とりあえず納得してみせた。
「考えてはいたのか。あいつは詐欺師だよ。おれがぶん殴って追い出してやる」
「ふうん、詐欺師ね。――でも、暴力はだめよ」
「じゃあどうしろっていうんだよ」
「料理のしかたは、あとでゆっくり考えましょ」
絵美に耳を引かれ、立ち上がった。とりあえず、少しだけ”運動”につきあうことにした。あまり気乗りはしなかったが、放っておくと、この場でしなだれかかってきそうだったからだ。
3 義信
思わぬ騒ぎに巻き込まれた。
染井義信は、さっきから同じ道をゆっくり行きつ戻りつしている。公園にいられなくなったので、問題の邸宅が視界に入るあたりをつかず離れず、といったところだ。時計を見れば午後八時三十五分、すでに警戒時間帯に入った。あのとき、もう少しで現れたかもしれないのに、とんだ邪魔が入った。
夜の公園で、カップラーメンをすすっている不審な男がいる、という情報を得たのはきのうだ。松涛界隈の住人に、そんな真似をするやつはおそらくいない。“観察対象者″に違いない。そこで、こちらも目立たないようにベンチで時間をつぶしていたのだ。あのちんぴらどもにいいがかりをつけられ、邪魔されるまで。
知人に頼まれて三日前からこの仕事に就いている。まずはストーカーを追っ払う役だ。
『稲葉AG(エージェンシー)』という探偵調査会社の社長、稲葉鉄雄から持ちかけられた話だ。稲葉の説明によれば、妻を病気で亡くした敷島とかいう大金持ちの後妻に、三十そこそこの美しい女がおさまった。この絵美という女は、もとは銀座のホステスで、当時は屈指の売れっ子だったらしい。まだ現役のころ、短期間だがかなり彼女に入れあげた藤井という男がいた。中堅の印刷会社の営業だったらしいが、取引先の社長に連れてこられ、一度で”熱病”にかかった。
絵美に会うため、よせばいいのに借金までして通い、当然のごとくあっさりふられた。絵美にしてみれば、半年足らずのあいだ通ってきた客のひとりにすぎず、十万円ほどのバッグをひとつもらっただけだ。結婚を機に店を辞めると同時に、藤井のことなど頭から消えていた。しかし、金が続かなくて通えなくなったこともあって、藤井のほうではますます情熱が燃え上がっていたらしい。
結婚相手を知られ、それがなまじ有名人だったばかりに、家もつきとめられた。
最初は、貢ぐために作った借金を返せなどと、脅迫まがいの電話をかけてきたり手紙を送りつけてきたが、絵美のほうでは無視していた。するとこんどは直接家までやってきて、塀に落書きをしたり汚物を投げ込んだりするようになった。
それなら立派な犯罪だから警察に相談すればいいはずだ。しかし、絵美によれば夫の敷島祐三郎は留守がちでまだその事実を知らないという。絵美は夫には内緒で始末をつけたいらしく、トラブルを水面下で解決する会社を探していて、知人に稲葉の会社を紹介された。
話を受けた稲葉の判断で、義信に白羽の矢が立った。多少手荒なことをしてでも、その男を脅して二度と絵美に近づかせないように、と命じられている。
気乗りのする仕事ではなかったが、食っていかねばならない。それに、稲葉には拾ってもらった恩義もある。
ひと晩でけりをつけようと周辺で聞き込みをし、ようやく藤井らしき男が出没する公園をつきとめたところだった。それが予想もしない大騒ぎになってしまった。だいたい、あの谷川とかいう詐欺師は、どうしてこんなところに現れ、刑事のふりまでして首を突っ込んできたのだ。
まったくおかしな夜だ。
藤井は、さっきの騒ぎに感づいて、警戒してしまっただろうか。
大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。ストーカーになるような男は、物事を自分に都合のいいようにしかとらえない。あの騒ぎをすぐそばで見ていたとしても、自分を叩きのめそうと待ち伏せしていた男が、中に混じっているなどとは思いもしないだろう。
足音がこちらへ近づいてくる。革靴ではない。
ゆっくりと電柱の陰に身を隠す。下腹に力を入れ、拳に力を入れては抜く。すぐに体が動くよう準備をする。
風体を確認する。男だ。黒っぽいジャンパーに黒っぽいズボン、黒っぽいショルダーバッグ、聞いていたとおりの服装だ。
二十メートル、十メートル、五メートル。まっすぐこちらへ向かってくる。
男が立ち止まり、左右を確認している。この時間に歩いている住人はいない。気配を殺している義信には気づかないようだ。
男の顔をもう一度見た。藤井に間違いない。
藤井がショルダーバッグからスプレー缶のようなものを取り出し、壁に向けて構える。
義信は静かに踏み出した。
4 涼一
谷川涼一は、シャワーを浴びながらつい顔がほころんでしまうのを止められなかった。
めずらしく、鼻歌まで出てしまう。
今日一日の出来は、かなりいい。
まずは、偽物のインド国債を、額面で五百万ほど売りつけることに成功した。しかも、それを買った主婦が自分の目利きを自慢したかったらしく、有閑マダム仲間を紹介してくれた。明日にもその友人をたずねて、成約にこぎつける手はずになっている。ぼろい稼ぎだ。
それにしても、インターネットで金銭の移動ができるようになって、詐欺師にとっては天国になった。昔は、実際に銀行へ足を運んで金を引き出させたり、振り込みの手続きをさせたりしなければならなかったので、最後の詰めの、実際に行動を起こさせるまでが大変だったのだ。
しかし今日やったように、リビングで紅茶を飲みながら手続きをしてしまえば、躊躇する暇すら与えない。あまりにあっさり手続きが完了すると、人間不思議なもので大金を動かしたという実感が湧かないらしい。どうせ夫には内緒だろう。いまこの瞬間も、五百万円をだまし取られたなどと、夢にも考えていないはずだ。
あとは頃合いを見て、手駒にしている”出し子”を使って引き出すだけだ。いまさらながら、こんなに楽に稼げていいのだろうかと思う。
ただし、涼一は最近大流行の“振り込め詐欺″には手を出さない。師匠に叩き込まれた美学に反するからだ。
《なけなしの金を奪ってはいけない。善意を逆手にとってはいけない。弱者の恐怖心を利用してはいけない》
詐欺師としては、手枷足枷の上に鉛のベストを着せられたような制約だが、師匠の教えなので忠実に守っている。
だから、息子のふりをして「痴漢をしてつかまったから示談金を振り込んでくれ」などと耳の遠い老婆をだますことは、どうしてもできない。
それに今夜は、多少の義侠心を出したおかげで、こうして敷島家にやすやすと入り込むことができた。真面目にコツコツやっていればいいこともある、という証だ。
顔つなぎができたなら、仕事の第一段階は成功だ。おまけに、宿代と飯代が浮いた。家が大阪にあるなどはもちろん真っ赤な嘘だ。本当は住処にしている目黒のマンションまで十五分もかからないのだが、今夜は帰れない事情があった。どうやって探り当てたのか、たかだか百万ばかりの金を返せ返せとうるさい女が、ここ数日、谷川のマンションの前で見張っているのだ。
今日もホテルの手配をしなければと思っていた矢先だった。よけいなことに一円でも金を使うことは主義に反するので、どうしたものかと頭を痛めていたところが、この展開になった。カモがネギをしょって、ジャグジーつきの宿まで案内してくれた。
いや――。
ふいに、鼻歌が止まる。
頭を冷やせ谷川涼一。話がうまく運びすぎはしないか。こんなときは、大きな落とし穴が口を開いて待っているものだ。
《慢心は敵だ》
師匠の口癖が耳によみがえる。
あの女、それほど間抜けには見えない。もしかすると、だまされたふりをしているのかもしれない。敷島祐三郎の後妻におさまるくらいだから、そこらの尻軽女と同じに見ては火傷する。
松岡という若造も、金銭が目的であの女とつきあっているわけではないようだ。居候のツバメ身分で満足しているようには見えない。目標が見つからず、エネルギーの消費方法に困っているというところか。敵に回すか、味方に引き入れるか、あいつの扱いは難しいところだ。
シャワーの栓を閉め、用意してもらったふかふかのバスタオルを手にとる。髪の毛をごしごしこすりながら、今後のことに思いを馳せる。
念入りに準備さえすれば――いや、天賦の才に恵まれていれば、準備などほとんどなくとも――、素人をだますことはそれほど難しくない。難しいのは、”だましとおす”ことだ。効率のいい切り上げどきを計り、多少うまい汁が残っていてもきっぱり見切りをつけられるかどうか。そこで詐欺師の腕が試される。
あの絵美とかいうフェロモンまき散らし女から、いくら巻き上げてやろうか。おそらく、こういう夫婦の常として、女は大金をあずけられてはいまい。せいぜいが、上限を設けられたカードで自由に買い物ができる程度だろう。百万やそこらとっても面白みはない。せっかく懐に潜り込めたのだ。せめて千万単位の札束を拝んでみたい。そしてさっさと消える。
定番の『M資金』でいくか、このところ好調な『CO 2排出権取引投資』か、あるいは『東京湾新埋立地の利権』もいいかもしれない――。
バスタオルを腰に巻き、大きな鏡の前でドライヤーを当てていると、さっき公園で手助けした染井のことが浮かんだ。
あれは、かれこれ五年前のことになる。
当時まだ現役の刑事だった染井に、ちょっとした世話になった。
もしも俺たちが天使なら
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