かつて違法薬物の売人であった著者が薬物売買の内幕と、逮捕から更生まで綴った『薬物売人』が5月26日に発売されました。もう二度とあの場所に戻らないための告白の書。人はいかにして薬物に溺れていくのでしょうか? 当人にしか描けない圧倒的ディティールの本書の冒頭をお届けします。
刑事の存在に気づいたのは2週間前
2010年10月10日、俺は逮捕された。
大阪の阪急豊中(とよなか)駅近くのビルに入ろうとしたところを六、七名の刑事に囲まれ、身柄を確保された。ビルには、俺が始めようとしていたダンススタジオが入っていて、まずその中をガサ入れするための令状を目の前にかざされ、何で我々がここに来たか分かるか? と質問された。
だいたい予想はついていた。なぜなら田代(たしろ)が一ヶ月ほど前にパクられたからだ。
そう、俺はあの田代まさしにシャブ(覚醒剤の隠語)、コカイン、大麻を売り捌(さば)いた売人だ。
逮捕状を目の前に突きつけられて、腰縄・手錠で連行され、ワゴン車の後部座席に頭から押し込められた。車は新大阪駅に向かって走りだす。ガサ入れ中、一人の刑事がしきりに電話をしていた内容で、新大阪駅から新幹線で新横浜駅まで行くことが分かっていたが、新幹線で護送されるのかと少し驚いた。車内は静かで誰も話しかけてこなかった。地元の道や景色が普段とはまるで違って見え、どこか知らない街を走っているような感じがした。それがなんだか気持ち悪かったので、首をかがめて正面のフロントガラスに時々見える空だけをじっと眺めていた。
異変に気づいたのは二週間ほど前だった。ビルの前の有料駐車場に、作業着を着た二人組の男たちが乗った車がずっと止まっている。食べ物の買い出しや銀行の用事にいつも付いて来る、ラフなカーキ色のカーゴパンツにTシャツ、その上に釣り人が着るようなベストを着た男。ビル周辺のゴミを漁る汚れた男。夜に細く開けた窓から外を窺うと、豊中駅と向かいのビルとの連絡橋からこちらをじっと見ている眼つきの悪いスーツ姿の男。俺が敏感に周りを気にしていたせいか、すぐに刑事だと推測できた。田代がパクられて半月ほどが経過している。彼がランナウェイを声高らかに歌いまくれば、そろそろお迎えが来る頃だろう。
翌日、試しにビルから外に出て、駅前にある銀行に行き、金を引き出した。それから銀行の外に出て、ビルに戻らず裏路地に入ってみた。さりげなく後ろを振り返ると、案の定、例のカーゴパンツにベストの男が付いて来ている。間抜けなことに、そいつは俺が振り返るとスッと立ち止まり、上の方を何を探すでもなく眺めている。バレバレやないかいっ!
スーパーに入った。まだ確定ではない。俺の勘ぐりかもしれないという思いもあったので、食べ物を探しながら周りを確認する。するとその間抜けは、子供のおやつコーナーの前に立って、こっちをチラッと見てサッとしゃがみこみ、おやつを選んでいるではないか。怪しすぎるし、おかしいやろ! 確定やな。刑事確定。俺は弁当とビール、お茶を買ってビルに戻った。
さてと、どないしょ? すぐに踏み込んできて、いきなりパクるってことはないやろっ、という自信があった。俺の行動を確認して怪しい場所に出入りしていないか、怪しい物を持って怪しい奴に会って取引していないか、いわゆる泳がせている時間があるはずだと。俺の身体の中には、昨夜キメたシャブがまだ駆けずり回っている。田代がパクられたにもかかわらず、自分の血管を的にダーツゲームを楽しんだのだ。
だが、もう遊びは終わりや。早急に身体からシャブを抜かないといけない。今パクられるとアウトだ。身の回りには使用済みの注射器数本、ハッパ(大麻の隠語。マリファナとも呼ぶ)が10グラムぐらいあった。注射器とハッパを処分しても、身体のシャブは処分できない。一週間から十日ほどかけ、身体から抜けるのを待つしかない。
ただ、これはシャブの効き目で、一般人が刑事に見えているだけではないのか? 田代の一件で敏感になりすぎて、そう見えているだけではないのか? 田代が本当に俺のことを歌っているのか? 歌ったとしてもこんなに早く来るのか? そんな思いも浮かぶが、いやいや、あれは間違いなく刑事や!
ビルの三階のスタジオの窓は、換気のため細く開けてある。覗くように外を窺うと、張り込みがバレたと刑事たちに悟られると思い、思い切って窓を全開にし、ベランダに出てタバコに火をつけ、ゆっくりビールを飲みながら周りを確かめてみた。できるだけ自然に、時間をかけて確認の動作をする。シャブの効き目丸出しの、キョロキョロと挙動不審な行動をとると、刑事たちからあいつ何しとんねんと思われるだろうし、張り込みに気づいたと思われてしまう。俺は逃げるつもりでいた。刑事たちに張り込みがバレたから即確保という選択をしてほしくはなかった。
いち、にー、さん、しー、ごー、街は時間と共に流れている。人々も流れているが、そこに流されず停滞し、明らかに澱んでいる者が、ろーく、しーち、疑いの目をチラチラと、こちらに向けている。これは、まちがいないっ! 被害妄想でも勘ぐりでもない! 絶対刑事や!
ベランダのパイプ椅子に座り十分ほどかけてビールをチビチビと飲み、二本のタバコを灰にした後、窓を少し開けた状態にしてスタジオの中に入った。正面は全面鏡張りで俺の全身はもちろん、窓の開いた隙間から外も見える。その隙間がやたらと気になりだし、全部の窓を閉め切った。でかい鏡に映る俺は、いつもより頼りなく、そして薄く映っているように見えた。
(「プロローグ 予感」より)
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