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もしも俺たちが天使なら

2021.06.20 公開 ポスト

#9「家に、変なやつが棲みついてるの。追い出してよ、捷兄さん」伊岡瞬(小説家)

今、最高にアツい小説家・伊岡瞬さん。

代償』『悪寒』『赤い砂』……そして間もなく発売になる最新刊『仮面』他、話題作が多数ある中で、あらためておススメしたいのがもしも俺たちが天使なら

他人のものを、命懸けで守る。人生、たまにはそんなことがあってもいい―ー。そんな気持ちにさせてくれる痛快&爽快な本作。

捷の前に、突然、10年もの間、連絡もとっていなかった妹が現れた!

*   *   *

茉莉は、父の再婚相手、桐恵の連れ子だ。

捷を産んだ母、雅子は、捷が三歳のときに心筋梗塞で急死した。真夏の暑い日に、ぶどう棚で無理をしたという噂を聞いたこともあるが、誰も詳しいことは教えてくれなかった。もしも、捷の中に父親に対する憎しみがあるとすれば、その背景には、母親の死に対するもやもやとした疑念があるせいかもしれない。

わずかな記憶と数十枚の写真、そして当時はまだ高価だったハンディビデオに残った数時間の映像が、捷にとって母親のすべてだった。

小学校にあがるころから、運動会や授業参観がいやでしかたがなかった。

母親がいなくて寂しいからではない。教師やよその親が、「松岡くん可哀想ね」と同情するからだ。

だから小学三年生以来、親が参加する公式行事の日は、登校したことがない。もっとも、高学年になるころには、行事がなくとも学校へ行かない日が増えた。

(写真:iStock.com/ThitareeSarmkasat)

捷が中学三年生になった春、父親の再婚話が持ち上がった。

当時、父親の憲吾は四十三歳、相手の女は三十二歳だった。これがのちの母親、桐恵だ。桐恵には、二十歳のときに産んだ、茉莉というひとり娘がいた。

桐恵は裁縫が得意で、当時、甲府市で知り合いが経営する洋服のリフォーム店に勤めていた。その前のことは、捷にはわからない。桐恵は、整った美人というのではなく、気が強そうな印象で、中学生の捷から見ても、男好きのする雰囲気を持っていた。親戚の年寄りが、なんとかという女優に似ていると、繰り返し言っていたのを覚えている。そのなんとかは、外国人の名だった。

少なくとも、写真やビデオに残っている「和風美人」ということばが似合う雅子とはまったく異なるタイプだ。

憲吾はひと目見た瞬間に、桐恵を気に入ってしまったらしい。話はとんとん拍子に進み、その夏には入籍した。派手な披露宴はしなかったが、親戚筋から贈られた祝いの品が、山のように客間に積まれていたのを覚えている。

憲吾は桐恵に農作業を禁じた。雅子のことが心の傷になっていたのかもしれない。桐恵も無理に手伝おうとはせず、家にこもりがちだった。そのことが、捷には気に入らなかった。気をつかうなら、どうして雅子にもそうしなかったのか。

とにかく、父親には不釣り合いな、若くてきれいな女の同居人ができたと受けとめただけだ。

無視していればいいと思った。桐恵のほうからなにか話しかけられても、ろくに返事もしなかったし、用意してくれた飯は食わずに、買い食いか、友人の家でご馳走になった。

都会の生活と違って、田舎の日常に刺激の種類は少ない。近所や親戚の噂話は、恰好の暇つぶしであり酒の肴だった。捷の耳にも、桐恵と茉莉の過去のことが、少しずつ入ってきた。

——あの嫁は、離婚したんではなく、はじめから結婚していない。つまり、茉莉は”ててなしご”らしい。

——玉の輿に乗ってひと安心だろ。

——憲吾さんが頑張りすぎて早死にしたら、ずいぶん色っぽい後家さんが残されるな。

——そしたらおれは、入り婿になってもいいぞ。

捷はもともと、噂話というものを気にしたことがない。桐恵に対して反発心を抱いたのはそういった風聞のせいではなく、相性の問題としか説明のしようがなかった。

最初は無理をして笑顔を作っていたらしい桐恵も、一向に懐こうとしない捷に対して、しだいに表情を硬くするようになった。

それが起きたのは、桐恵と茉莉の親子がやってきて約半年後、バレンタインデーも近い雪の日だった。捷は中学三年の三学期、卒業式が目前だった。

部屋で友達に借りたゲームをやっていたら、めずらしく父親の憲吾が入ってきた。

「立て」

いきなりそう言った。捷の顔つきは母親ゆずりだが、体格は憲吾の血を引いていた。ただ、まだ身長の伸びきっていない捷のほうが、わずかに憲吾よりも低い。長身で筋肉質のふたりが、狭く汚い部屋で向かい合った。

「おまえ、茉莉に色目を使ってるのか」

なにを言いだすのかと思った。即座に否定すればよかったのだが、一瞬ことばに詰まった。

じつは、はじめて茉莉がこの家にやってきたときに、いままで経験したことのない気持ちが胸に湧き上がったのは事実だ。それだけは、たとえ死んでも人に言えないと思っている。そんな捷の一瞬の逡巡を、憲吾は見逃さなかった。

「けだものっ」

クヌギの木にできた瘤(こぶ)のように硬い拳固(げんこ)が、いきなり飛んできた。捷は、ぎりぎりのところで、上体を反らしてかわした。

本気の殴り合いになれば、互角だという自信があった。その気持ちを憲吾も悟ったらしく、それ以上殴ろうとはしなかった。

「お母さんのことをばかにして、無視したり生意気な態度をとったりするのはやめろと、何度も注意したはずだ。それだけでは足らずに、こんどは妹にそれか。家の手伝いもまったくしない穀潰(ごくつぶ)しのくせして。きさまのような出来損ないは、さっさと出ていけ」

捷が妹を本気でどうこうしようと考えているとは、さすがに憲吾も思わなかったはずだ。ただ、これを機会に、憲吾の中にくすぶっていた捷に対する不満が、一気に噴き出したのだろう。

捷は、「あの女はお母さんではない」と喉まで出かかったが、どうにか呑み込んだ。それより、自分がこの家を出ていこうと思った。きっとそれが一番いい。

ただ、さすがに今日の今日では、なんのあてもない。雪の中を歩くのも面倒だ。

こっそり家の電話から何人かに連絡を入れてみた。すると、クラスの友人の兄が「明日の朝でよければ、東京まで車で送ってやる」と言っていると教えてくれた。

東京へ出よう。こんな田舎でぶどうばっかり眺めて暮らすなんてまっぴらだ。

(写真:iStock.com/tampatra)

翌朝、学校へは行かず、少ない荷物をまとめて待ち合わせの空き地に立った。

そこらじゅうで溶けかけている雪が陽光を乱反射して、目を細めないと開けていられない。安物のサングラスを持っていたことを思い出してかけた。ちょうどそこへ茉莉がやってきた。どうやら電話の中身を聞かれていたらしい。

優等生でとおっている彼女が、ずる休みしたようだ。

捷と茉莉は頭ひとつ以上の差がある。見下ろす形になった。

「ごめんなさい」

茉莉がいきなり、勢いよく詫びた。さらさらの髪が、ばさっと揺れた。

「なにが」

「あれ、お母さんが言いつけたかもしれないの」

すぐに意味がわかった。いや、はじめからそんなことだろうと思っていた。問題なのは、父親がそれを信じたことだ。だが、ここでそれを茉莉に言ってもはじまらない。

「これ」

茉莉が赤い包装紙に包まれたものを差し出した。

「なんだこれ」

「バレンタインにあげようと思って、買ってあったの」

迷ったが、受け取った。

「開けてみて」

包装紙の中は、簡素な箱だった。ふたを開けてみる。

なんだこれは。クジラか、それともイルカだろうか。ホワイトゴールドのペンダントヘッドだった。

「ごめんなさい。お金がなくてそれしか買えなくて。来年はチェーンを買うから持っててね」

「なんでクジラなんだ」

茉莉がぷっと噴いた。

「それ、シャチよ」

捷は、もう一度指先でつまんだ。なるほど、これはシャチなのか。

「わたしが好きだから、シャチにしたの。シャチって海の王者なんだって。いつか本物を見に行きたい。最初に捷兄さんに会ったとき、なんとなくシャチに似てるって思ったから」

なにか応えようとしたとき、ラッパの音で『ゴッドファーザーのテーマ』がぶどう畑に響き渡った。大地に触れそうなほど低くした車体で雪をかき分けながら、白いクラウンが進んでくる。ガラスが真っ黒で中は見えないが、友人の兄が迎えに来たらしい。あれで東京まで行くのかと、苦笑しながら茉莉の顔を見た。

「じゃあな」

包装紙や空き箱と一緒に、シャチをダウンのポケットに押し込み、クラウンのドアを開けた。

鼓膜がむずがゆくなりそうな音楽が流れ出す。激しいドラムスの音に共鳴したのか、ぶどう棚から雪の塊がばさりと落ちた。捷は、そのまま助手席に乗った。

「あれ、カノジョか」ガムを噛みながら、友人の兄が怒鳴った。音量が大きすぎて、叫ばなければ聞こえない。

「いいえ」大きく短く応える。

「じゃ、行くか」

「お願いします」

真っ黒なシートの貼られたウインドー越しに、小さく手を振る茉莉を二秒間だけ見た。それ以来の再会だ。

(写真:iStock.com/ivanolianto)

当時まだ中学一年生で、あどけなさの残る少女だった茉莉は、顔つきも物腰もすっかり大人の女になっていた。

「仕事はしてるのか」

「うん。去年大学を卒業して、実家近くの病院で事務の仕事に就けた」

「病院の事務職か、ちゃんとしてんだな。やっぱりおれとは違う」

住民票すら手にしたことがないので、戸籍がどんなものか見たこともない。しかし、いまでもこの茉莉が妹として記載されているのだろう。血もつながっていないし、捷が中学三年になるまで会ったこともなかったのに、不思議なことだ。

「本当は、わたしも東京に出たかったけど」少し寂しげに笑った。

「それより、なんの用だ」

アイスココアをすする。パイも食べたいところだが、茉莉の手前我慢することにした。

そのとき、窓の外を、白い自転車にまたがった制服警官が二名、さっきの店のほうへ向かっていくのが見えた。あの三人組は本当に交番に駆け込んだらしい。顔を見合わせて、どちらからともなく笑った。

「捜すの大変だったんじゃないか」

「うん。探偵社に頼んだりして、ちょっと大変だった」

探偵社、ということばにひっかかった。茉莉の年代の女性が依頼するなんてめずらしいのではないか。

「そんなことまでして、なんの用だ」

「一度、家に戻ってくれない?」

あっさりと言って、コーヒーをスプーンでぐるぐる回す。

「それは断る」

「そう言うと思った」茉莉はテーブルに視線を落とした。「——お父さんに、また癌が見つかったみたいなの」

「またってことは、前にもやったのか」

「知らなかったの? 三年前に一度手術して、一度は治ったらしいんだけど、このあいだ再発したのよ」

「癌か」

なにか、まったくべつなものを意味することばのような気もして、その名を口に出してみた。しかしそれは、悪性腫瘍と呼ばれる病気以外の意味を持っていなかった。

「相当悪いのか」

「転移してるんだって。もって一年、早くて半年って言われている。お父さん、すっかり変わったよ」

「そうか」

しばらく沈黙がふたりのあいだに漂った。ようやく、捷がぼそりと言った。

「おれは、相続なんて興味がない」

茉莉の目に、静かに燃えるような光が宿ったのを見た。

「わたしの用件は相続じゃないの。もちろんきちんと相続はしてもらいたいけど、頼みはべつなこと。助けてほしい」

「どういう意味だ」

「突然やってきて、勝手なこと言うなって思うかもしれないけど、ほかに相談できる人がいないの。頼れるような親戚はいないし、近所の人も結局あてにはできない」

「だからどうしたんだ」

茉莉は、大きな瞳で捷の目を見つめ、ゆっくり言った。

「あの家と、畑を、とられるかもしれない」

「誰に」

「家に、変なやつが棲みついてるの。追い出してよ、捷兄さん」

関連書籍

伊岡瞬『もしも俺たちが天使なら』

セレブからしか金を獲らない詐欺師・谷川涼一。“ヒモ歴”更新中だが喧嘩は負け知らずの松岡捷。 不始末で警察を追われた元刑事・染井義信。はみだし者三人の前に美しい娘が現れ、「変な男に実家が乗っ取られそう」と助けを求めてきた。 彼女は何者? 怪しい男の背後で動く組織とは? 最高にクールでタフな男たちの、友情と闘いのクライムノベル。

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もしも俺たちが天使なら

偶然出会った3人の前に、「変な男に実家が乗っ取られそう」と捷の妹が現れたのが、すべての始まりだった―。この闘いは、大金のためか、友情のためか―。“詐欺師”+“ヒモ”+“元刑事”=“正義の味方”!?野良犬みたいなイケメン小悪党トリオが、人助けのために凶悪組織に立ち向かう。
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伊岡瞬 小説家

1960年東京生まれ。2005年『いつか、虹の向こうへ』で第25回横溝正史ミステリ大賞とテレビ東京賞をW受賞しデビュー。著書に『145gの孤独』『瑠璃の雫』『教室に雨は降らない』『代償』『もしも俺たちが天使なら』『痣』『悪寒』『冷たい檻』『不審者』『祈り』『本性』『赤い砂』など。『代償』はHuluでオリジナルドラマ化、さらに啓文堂文庫大賞を受賞、50万部の大ヒットとなる。

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