同じ片見里出身ということ以外、接点のなかった75歳の継男と22歳の海平。二人が出会うことで、足踏みしていた人たちの人生が動いていく。当たり前に正しく生きることの大切さが、優しく沁みる――。小野寺史宜さんの最新長編『片見里荒川コネクション』に、藤田香織さんから寄せられた書評をお届けします。
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たとえば。
「あなたは何のために生きているのですか?」と訊かれて、どれくらいの人が、はっきりと応えられるのだろう。「あなたの生きがいは何ですか?」と言い換えてもいい。
五十歳をいくつか過ぎた今、私はその答えを見つけられずにいる。
やりたいことも、行きたい場所も、見たいものも、知りたいことも山ほどあって、時間が足りない! と気持ちばかりが焦っていた人生の往路から、折り返して復路に入り、明らかに「ハリ」がなくなった。肌の話ではない(いや肌もだけど!)。何を見ても何をしても何を食べても、驚きや鮮度がない。大概のことは知っているような気がするし、知らないことに挑む気力も湧いてこないのだ。欲もない。夢もない。気力も体力も余計なお金もないから、世界が広がらない。本当に、自分は何のために生きているのだろう。なんてことを考えてしまう自分に呆れてクヨクヨしてしまう人は、でもきっと意外と多いような気もする。
本書の主人公である中林継男も、恐らく明確な応えを持っていない側の人間だ。
生まれ育った片見里から大学進学で上京した継男は、それから七十五歳になる今まで、ひとり東京で暮らし続けてきた。在学中に父親を亡くし中退し、学習教材の販売会社に就職するも、四十一歳のときに倒産。苦労してどうにか再就職できた「ポリ袋を作る会社」の所在地だった荒川区に引っ越し、以来、同じ1DKのアパート「風見荘」に三十四年住んでいる。定年退職後も近くのスーパーで七十歳までアルバイトとして働いたが、今は特に何もしていない。一度も結婚していない継男には、子孫はなく、伴侶もいない。とうに母も亡くなり実家は無く、十五年前に墓じまいも済ませたので、片見里との縁も切れた。誰かのためにも、自分のためにも生きる理由など特にない日常を、それでも継男は生きている。
対してもうひとりの主人公となる田渕海平も、「生きがい」など持っていない。
後期高齢者の継男とは異なり、海平は二十二歳の大学生。大手運送会社に内定し、あとは三月の卒業を待つばかりだった。しかし二月、提出日の早朝にギリギリで卒論を書き上げ、ご褒美に缶ビールを一本飲んで仮眠したところ寝過ごして提出締切時刻が過ぎ、卒業できなくなってしまう。「わたしどもが採用させていただくのは、四年生の大学を今年の三月に卒業する予定のかただけですので」と内定は取り消され、呆れられた挙句に恋人にもフラれ、どうにか留年の学費は出してもらえることになったものの、片見里の実家に暮らす父親からは仕送りは半分に減らす、と言い渡される。なんでこんなことに? こんなはずじゃなかったのに。客観的に見てもまだ人生の往路なのに、海平は自分の進むべき道を見失っていた。
そんなふたりの人生が、ある出来事から交差する。
きっかけを作ったのは、海平の祖母で、小学生の頃、同級生だった継男にラブレターを出したことがあるという初子だ。初子は、卒業できませんでした報告のため帰省した海平に、初恋の相手である継男を探して欲しいと、アルバイト代10万円を渡して頼む。海平が住んでいるのは足立区で、継男は隣の荒川区在住。初子は「東尾久」という町名まで知ってはいたが、東京は広い。名前と住んでいる町の名前だけで見つけられるわけがないと海平は思うが、思いつつもちゃんと東尾久へ出向き、結果的に継男との対面を果たす。
一月から十二月まで、継男と海平の視点で交互に描かれていく各章では、七十五歳の独居高齢者の日常と、大学五年生となってしまった二十二歳の日常が淡々と描かれていく。
振り込み詐欺の片棒を担ぎかけ、幼馴染の行く末を案じ、ファミレスの宅配バイトに精を出し、東京のど真ん中千代田区一番町の一軒家に住む大学時代の友人宅へ遊びに行く。
結果的に詐欺・強盗事件に関与することも、バイト仲間が出演する小劇場の舞台を観に行くことも、ことさら大ごとであるようにも、些末なことのようにも書き分けず、「日常」のなかの出来事として描かれているのが実にこの作者の小説らしく、いいな、と思う。
小野寺作品の常で、本書も、継男と海平を繋ぐ焼き鳥屋の店主や、行きつけの喫茶店のマスターなど物語にとっては「脇役」の人物もきちんとフルネームで語られ、嬉しい作品リンクで登場する善徳寺の現住職・村岡徳弥や、東京の探偵会社に勤める谷田一時も、前作から過ぎた時間の分だけ、年齢を重ねている。継男と幼馴染の次郎の関係性。またどこかで会える予感しかしない、刑事の秋口と、詐欺の主犯と目されるカンこと「菅」。小野寺さんの小説のなかでは、いつも「人」が生きていて、そのことに心強くなる。
初子ばあちゃんが、海平に継男捜しを頼むとき、「そんなに好きだったってこと?」と聞かれ、「昔はね。今はそういうんじゃないけど」と答える場面がある。そこから続く何気ない台詞が、読み終えた後も胸に残っている。
キラキラしていなくても、ワクワクすることがなくても、人は生きていける。
なんのために生きているのか。きっとそんな「うまく説明できない気持ち」も抱えたまま、私は、私たちは、生きていくのだろう。
藤田香織(書評家)