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女たちのポリティクス

2021.06.11 公開 ポスト

メルケル時代の終焉 EUの「賢母」か「毒親」かブレイディみかこ(ライター・コラムニスト)

ブレイディみかこさんの待望の新刊『女たちのポリティクス』が発売になりました。アメリカ初の女性副大統領になったカマラ・ハリスや、コロナ禍で指導力を発揮するメルケル(ドイツ)、アーダーン(ニュージーランド)、蔡英文(台湾)といった各国女性首脳。そして東京都知事の小池百合子。政治という究極の「男社会」で、彼女たちはどう闘い、上り詰めていったのか。その政治手腕を激動の世界情勢と共にブレイディさんが鋭く解き明かします。今回は、EUに長らく君臨してきたドイツのメルケル首相について。彼女がどんな思いで緊縮財政を推し続けてきたのか、その根源的な理由が分かります。

震源地は漬物石

揺れる欧州の中心に坐する漬物石。

そんな印象のドイツのメルケル首相が、長年率いてきたCDU(キリスト教民主同盟)の党首選に出馬しなかった。事実上、2021年の任期満了をもって首相の座を退くことになったのだ。もちろん、その前に総選挙が行われることにでもなれば、そこでメルケルは退任となる。

「EU大統領」とまで呼ばれた欧州の大ボス、メルケルの引退声明は、当然ながら欧州各地に衝撃を与えたが、まずはドイツ国内の反応を見てみよう。

「彼女が悪い仕事をしたとは思わない。でも、いくつか良くない仕事もした。よく考えなかったというか、ちょっと軽率だったというか。2015年に彼女がしたことは正しいことだったけど、やり方が間違っていた」

「メルケルはもっと早く去るべきだった。2015年のあのカオスを自分は受け入れられなかった。彼らはパスポートなしで国境を越えてきたんだ。他のどこであんな事態が起きるっていうんだ。そしてあの、『私たちにはできる、私たちにはできる』という執拗な断言。できるのかどうか、今になってわかってきたんだよ」

「移民を受け入れるということは、彼らを統合することとは違う。そんなにシンプルではないんです」

「世界を不安定にしている要素はたくさんあります。メルケルは安定の中心にいる。彼女がいなくなったらもっと不安定になるでしょう。でも、もはや彼女は勢いを失っている。半々ですね。変化は欲しいけど、同時に不安もある」

これらは英紙ガーディアンのドイツ特派員による現地レポートに登場するドイツの人々の言葉だ。中には17歳の少年の発言もあるのだが、彼などは4歳のときからメルケルが首相なのである。旧東ドイツを中心に極右政党が支持を拡大したりして政局が混沌としている時に、長いことドイツの安定の象徴だった首相が引退声明を発表すれば不安になる人がいるのは無理もない。

個人的には、このドイツ各地からのレポートを読んでいて、自分たちの国だけではなく、「世界の」混乱や不安定化と、メルケルがいなくなることを結び付けて語る人がけっこういることに驚いた。英国在住のわたしからすれば、ドイツの人たちは、自分たちの国が世界を動かしていると、こんなにあからさまに思っているという事実が何より印象的だ。もし英国なら、自分たちの首相が辞めたところでそれで世界が不安定化するなんてスケールの大きいことを言う人はいない。ドイツの人々には、庶民レベルでも「EUの中心はうちの国」という自覚がはっきりとあるのだ(実際には本部はブリュッセルにあるのだけれども)。

それで、そのEUの枢軸国ドイツの首相を13年間も務めてきたメルケルは、文字通りヨーロッパの中心にどっしりと座る漬物石のごとき存在だった。ところが、実際にはこの漬物石こそが世界の混乱を招いてきたという見方もある。刻々と状況が変わるうつろいやすい時代にあって、この石はあまりに固く、いろんな意味で重過ぎたというのだ。

ナチ再来を防ぐには借金を返すしかない?

前述のドイツの人々の言葉にもあるように、メルケルの失脚の原因は2015年に中東から押し寄せた移民・難民受け入れにあると思っている人も多い。

しかし、ドイツ以外のEU国では、その前からメルケルの評判はすこぶる悪かった。「EU大統領」として、EU圏内の他の国々に緊縮財政政策を強制してきたからである。メルケルは野党時代にはあからさまな「小さな政府」主義者だった。とはいえ、米英のようなすべてを市場に任せるレッセフェールではなく、必要であれば国家が進んで介入する「社会的市場経済」を目指した。しかし、ここで特筆すべきことには、彼女はコテコテの財政均衡原理主義者だったのである。

財政均衡にできるだけ近づけば通貨の信頼を得られ、国債の金利を下げ、経済発展を果たすことに繋がるんです! と信じるメルケルは、ヴァイマール時代のハイパーインフレがナチを生んだと信じる古い世代の経済思想の持ち主だった(近年では、1910年代から20年代初頭にかけてのハイパーインフレではなく、1930年代の大恐慌によるデフレと失業がナチの台頭を招いたというのが定説になっている)。だから、ナチの再来を防ぐには倹約と清貧で国の借金を減らすしかないのよ、みんなで痛みを分け合いましょう、とばかりに、もはや単なる経済の話ではなく、道徳論というか宗教的といってもよいほどの緊縮信者になってしまったのだ。

で、もしもドイツが独自の通貨を持っていれば、何だって好きにやってくれていいのだが、ドイツの通貨はユーロである。メルケルの思想に他のEU加盟国まで引きずられることになり、「俺らの国は貧乏だから、緊縮で福祉やら医療やらどんどん削っちゃうと国民が死んじゃうんだけど」みたいな国々まで緊縮を強いられ、民衆の不満がたまりにたまって欧州各地で反緊縮運動なるものが生まれた。その最も有名なものが、2015年のギリシャ経済危機のときに国民投票で緊縮策にノーを突き付けたギリシャ国民たちの姿である。

あのときも、執拗にギリシャに緊縮強化による債務返済を迫るメルケルの姿は、欧州の他国の庶民には「融通のきかない高利貸しの元締め」みたいに見えてしまっていたのであり、もっと言えば、金持ちの国による貧国いじめ、みたいな嫌な後味すら残した。

「ドイツとフランスは1945年に巨額の債務を抱えていたが、どちらも完済していないということを忘れてはならない。そして今、この二国が欧州南部の国に借金を返せと言っている。これは歴史の健忘症だ!」と、『21世紀の資本』で一世を風靡したトマ・ピケティが痛烈な皮肉を叩きつけたのはこの頃である。彼女の人気の失速の原因は、移民問題ではなく、頑迷な緊縮の押し付けだったと言う人も欧州では少なくない。

メルケルとフェミニズム

CDUという政党は、メルケルが入党した頃は、保守的な南部のカトリックの弁護士のようなタイプの党員が多かったそうだ。つまり、政党としての女性に対する考え方は、Kinder, Kche, Kirche(子ども、キッチン、教会)に専念すべしという古臭いものだった。てやんでえ、ふざけんな。と、ヒラリー・クリントンあたりならガンガンまともにぶつかっていきそうなものだが、メルケルはコール元首相に目をかけられ、「コールの娘」と呼ばれるほどになる。男性のお偉いさんからかわいがられることによって出世の階段を上っていったのだ。

こういう女性はふつうの会社とかでもけっこういると思う。他の女性たちがまともに女性差別やセクハラと闘ってキャリアの壁にぶつかっているときに、男性上司に性的対象ではなく(ここ大事)「娘」的な存在として目をかけられ、教育されて重用されるようになり、するする壁を突き抜けていくタイプだ。メルケルは、まさにこのタイプだった。が、「政界の父」コールに闇献金疑惑でババがつくと、あっさり寝返り、いきなり新聞紙上で彼への絶縁状を発表。これがきっかけでCDU初の女性党首になるのだから、おきゃんなフェミニストよりよっぽど非情というか、見切りが早い。コール元首相は後に彼女を暗殺者と呼んだ。

ところで、面白い逸話がある。2017年9月16日付のニューヨーク・タイムズ紙によれば、ドイツのハンブルクで行われたG20首脳会合(イヴァンカ・トランプも出席していた)で、モデレーターが「あなたはフェミニストですか」と質問したとき、メルケルは手を挙げなかったというのだ。「世界で最も影響力を持つ女」が、なぜかフェミニストを公言することを避けたらしいのである。

米国のヒラリー・クリントンは、所謂、女性政治家のガラスの天井を打ち壊し、歴史に名を残そうと声を荒らげて闘い、猛烈なミソジニーのバックラッシュに遭った。だが、この点では、メルケルはミセス・クリントンとは好対照である。「傷つけられないように口を閉じ、ぐっと我慢して、注意深く機会を狙う」タイプ。ドイツのジャーナリストはメルケルをそう評している。

世界中で「ミー・トゥー」と女性たちが手を挙げる時代になっても、この漬物石は容易に手を挙げず、じーーっと動向を見守っている。まるで「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」の徳川家康みたいだ。メルケルの腰は軽くない。

「校庭の少年たち」

例えば、EU離脱投票の事後処理役として政権を取った英国のメイ首相のように、危機に陥ると女性が責任者に選ばれることはままある。男性たちはリスクを取りたくないので、どうせ失敗するかもしれない時期なら女性にやらせとけ、と難所を乗り切らせておいて、危機を脱したら男性が出てきて「さあ、新時代のはじまりです」とトップ交代になる、というアレである。

そういう意味では、メルケルも闇献金スキャンダルでCDUがピンチに陥ったときに党首に選ばれた。だが、彼女は急場を乗り切っただけでなく、一気に首相の座にまで上り詰めた。以後、一度トップに座ったら動かない。やはり漬物石だ。

将来的には、彼女はユーロ危機と難民危機の対応を行った首相として名を残すことになるだろうが、保育の改革、最低賃金の導入、同性婚の合法化など、保守的なCDUの首相にしては社会民主主義寄りの政治を行ったことも忘れてはならない。彼女はこうして保守派だけでなく、中道左派の票を奪うことにも成功したのだ。また、本人が「私はフェミニスト」とは言わなくても、彼女の政権下のドイツでは、各界に女性リーダーたちが多く誕生することになった。

慎重、堅実、目立たない、質素。メルケルを形容する言葉はどれも地味だが、それがメルケル流「女が成功する方法」であり、ドイツの女性たちはそれに学んだという声もある。フォルクスワーゲン社の唯一の女性取締役、ヒルトルド・ヴェルナーは、メルケルの指導者としての手腕は「インヴィジブル(目に見えない)」であることだと話している。事を起こす前には水面下の見えないところで入念にコンセンサスを築き、たとえ自分が考えた案であっても彼女の手柄だと思われないようにそれを伏せる。

女性は成功を誇ってはいけないのか、と思うとそれはそれで卑屈な気もするが、メルケルはボスザルのように権力をひけらかす男性政治家のマチズモをバカにし、「校庭の少年たち」と呼んでいるらしい。それは時折、プーチン大統領やトランプ大統領と一緒にいるときに彼女が見せるまなざしにも滲み出ている。

「私は東ドイツを知ってるんです!」

メルケル首相が米国のトランプ大統領を見るときの冷ややかな視線は報道陣に撮影された写真などでたびたび話題になってきた。この二人ほどすべてにおいて正反対の指導者もいないだろう。

あからさまにそれが表れたのは、2018年7月に行われた北大西洋条約機構(NATO)首脳会議に出席したときの二人の対立である。暴言大王トランプが、「ドイツは完全にロシアにコントロールされている」と発言したとき、その数時間後にNATO本部に着いたメルケルは猛然と反論した。

「私はドイツの一部がどのようにソビエト連邦に支配されていたか身をもって知っています。私はとても幸福です。私たちは今日、自由のもとに統一されてドイツ連邦共和国になったからです。そのおかげで、私たちは自分たちで政策を作ることができ、自分たちで決断を下すことができる。それはとても良いことです。とくに東ドイツの人々にとっては」

あなたのような、何の苦労もされたことのない米国の富裕層の方に、いったいロシアの何がおわかりになるというのでしょう。こちとら東ドイツ育ちでございますから、マジでソ連に支配されることの窮屈さ、恐ろしさは知っております。それなのにあなたが、そんなソーシャルメディアにしか落ちていないような戯言を仰るようなら、私は断固としてボコらせていただきますわよ、だらあ。という気迫が感じられる。

「ドイツはNATOのために多くのことをしています。2番目に大きな軍隊を提供していますし、私たちの軍隊の大部分をNATOにオファーしているのですから。今日まで、アフガニスタンの戦闘にも大きく貢献しています。そうすることにより、私たちは米国の国益も守っています」

言いたい放題なさっても、強国の大統領であらせられるからそれでよろしいと思っていらっしゃるのかもしれませんね。けれどもおたくの国だって他国の世話になってないとは言えないのですから、あまり尊大にされていると私だって黙ってはおりません。ところで、NATOのみなさん、貴様らもあんなネトウヨにへらへらすんなよ。ドイツは2番目に大きな軍隊の提供国だろうが。とメルケルは言っているのだ。

トランプは2017年にメルケルが渡米したとき、握手するのを拒んだこともあった。ホワイトハウスにメルケルが到着したときにはいちおう握手で彼女を迎えたが、その後、テレビの取材陣が集まった部屋で並んで椅子に腰かけると、カメラマンから握手してくださいとリクエストされた。「握手しましょうか」とメルケルはトランプに小声で囁くのだが、トランプは何ごともなかったように無視して両手を膝の間で合わせたまま取材陣のほうを向いていた。

とは言え、このようなことがおもしろおかしく報道されると外交的にまずいので、二人は仲が良いのだとアピールする必要性を感じたのか、在独米国大使がドイツの新聞に、トランプはメルケルをホワイトハウスで自分の寝室に案内した、と発言して騒ぎになったこともある。

「メルケルは、大統領の居間と寝室さえ見ました。それはとてもパーソナルでした。彼女にそんなことをした大統領は初めてです」

「パーソナル」の意味が何なのかはさておき、これがPR戦略ではなく真実だとしたら、いきなり私的スペースを見せられたメルケルも動揺したに違いない。

自分のことは自分でやりなさい

プーチン大統領は、メルケルが東ドイツにいた頃にKGB情報員として東ドイツのドレスデンにいた。ベルリンの壁が崩壊した1989年に、民主化を求める人々のデモがKGB支部に押し寄せていたのを覚えているとインタビューで話したこともある。

一方、米国のような民主主義社会に憧れる東ドイツの若い女性だったメルケルは、ベルリンの壁が崩壊した日、群衆と共に西ドイツに足を踏み入れ、ビールで祝杯をあげたそうだ。

このように歴史の一ページを全く逆の立場で経験した二人は、あまり互いのことが好きではないと言われている。

特に、2007年1月にソチ会談でプーチンがメルケルとの対談中に自分の愛犬を部屋の中に入れた一件はよく知られている。メルケルは、むかし犬に嚙まれた経験があって、犬恐怖症なのだが、プーチンはそれを知っていて大型犬を部屋に入れるという嫌がらせをしたのだ(もちろん、本人はそんなつもりではなかったと後で発言している)。プーチンはこの前年に彼女が初めてモスクワのクレムリンを訪れたときにも、子犬をプレゼントするといういじめっ子のような真似をしている。

メルケルは東ドイツ時代にロシア語を習っていたので、プーチンとは通訳を介さずに話すことができる。だから何だかんだ言っても二人は実は仲が良く、彼はジョークでこうしたことをやっているという説もある。しかし、メルケルが犬を怖がって椅子から立ち上がったり、声を震わせたりすれば、それだけでプーチンが優位に立っているかのような印象を与えられるのは事実だ。

だが、こんなことでプーチンの強いイメージづくりに加担してなるものかとメルケルは平静を装い、意地でも顔色を変えなかった。漬物石がいちいち飛び上がっていたら政治という漬物は漬からないのである。

このように強い意志の人だからこそ、メルケルは英国のメイ首相のような摑みどころのないキャラクターには冷淡だ。というか、はっきり言って意地が悪い。

ブレグジットの条件に関するEUとの交渉がうまくいかずにメイ首相が自分に助けを求めてきたときのことを、メルケルはジョークにしてドイツの人々を笑わせていたのである。そのジョークはこういうものだ。

「あなたがたは何が欲しいのか」とメルケルがメイに尋ねたら、メイが「提案してください」と言ったという。それを受けてメルケルが、「でも、離脱するのはあなたたちですよ。私たちが提案する必要はありません。何が欲しいか言ってちょうだい」と答えたら、メイは「提案してください」と再び言った。こんな調子で二人の会話は「何が欲しいの?」「提案してください」の無限ループに陥ってしまった。この話を聞いたドイツのジャーナリストたちは腹を抱えて笑っていたという。ときにプラグマティックの度が過ぎるメイのキャラを実に的確に、意地悪く捉えたジョークである。

EU離脱に四苦八苦するメイ首相は、2018年11月にEUとの交渉でようやく合意に達した。が、その離脱案に対して与野党の議員たちから激しい反発を受けたため、12月に予定されていた離脱案の議会承認投票を突然に延期。そして「EU番長、助けて」と言わんばかりにベルリンのメルケルに会いに行った。そこでまた「何が欲しいの?」「提案してください」が反復されたのかどうかは不明だが、メルケルはメイとランチを共にした後で、「せっかくまとまった離脱案を再び見直すことはあり得ない」と側近たちに語ったと伝えられている。メイは、「私たちがまとめた離脱案では英議会が承認してくれないんです」、とぶっちゃけた姿勢で助けを求めたようだが、メルケルに冷たく離脱案の見直しを却下されたのだ。

あなた首相でしょ? 国内のことは自分でなんとかしなさい。というメルケルの野太い声が聞こえてきそうである。自己に厳しいメルケルは、他者にもめっぽう厳しい。

「漬物石独裁」はほんとうに終わるのか

メルケルは、(メイと同じように)プロテスタントの牧師の娘だ。その人間観もプロテスタント的な主体性の尊重に基づいたものであり、個人の強い主体性を信じている。そして、自由とそれに付随する責任、すなわち「自己責任の倫理観」が強い。そこにはプロテスタント的な「勤勉と倹約」を重んじる精神性も含まれている。

ドイツ語で「Schuld」(有罪)という言葉が「借金」も意味することはよく知られている。メルケルが国の債務をまるで国家の罪のように見なしているということは欧州では度々指摘されていることだ。が、もしも借金が罪なら、例えば企業のバランスシート(貸借対照表)なんてのは常に半分は罪まみれということになり、ビジネスなどはすべて悪魔の所業であって、その規模を大きくした国家運営などはもはやサタンの親玉のやることである。この矛盾を、メルケルは自分の中でどう正当化しているのか。いや、うまくできていないからゴリ押しの緊縮派になるのかもしれない。家庭の家計簿なら借金はないに越したことはない。しかし、企業や国家の運営は、家庭の財布を預かることとは違うのだ。

「国の借金を返そう」主義は小さな政府をつくる恰好の言い訳になるとよく言われる。「小さな政府」は、ふつう新自由主義という経済的な思想の一部だ。しかし、メルケルの場合、これが単に経済だけでなく、彼女の宗教観や生きざまに繋がっているので軽やかに脱却することができない。財政均衡は倹約と贖罪の宗教観に繋がってしまうし、小さな政府の考え方じたいが国に頼らず自分のことは自分でやれという「個人の強い主体性」と親和性が高い。それに加え「遅れてきた近代主義者」と呼ばれるメルケルが、東ドイツ時代に憧れた西側社会は、80年代のレーガンやサッチャーの新自由主義の風が吹き荒れた時代だったのだ。

だが、もうメルケルの時代は終わった。

2018年12月にメルケルの後任としてCDU(キリスト教民主同盟)の新党首に選ばれたのは「ミニ・メルケル」と呼ばれるアンネグレート・クランプ゠カレンバウアーだった。かわいがってきた女性の側近を党首に据え、メルケルが背後から党の舵取りを行うつもりとも噂されているが、新党首はメルケルよりも移民政策には厳しい考え方を持っている。

「私は率いるということについて教わりました。そして何よりも学んだのは、指導者というものは、外側で大きな声を出すのではなく、内側で強くなければならないということです」

クランプ゠カレンバウアーはこう発言している。

かわいがってくれた親分の前でこういうことをずばりと言うのがドイツ政治のごっつさだが、格差と極右ポピュリズム台頭の時代にドイツが必要とする指導者はメルケルのような人物ではなく、ドイツ・ファーストで国内政治を行うリーダーなのです、と言っているように聞こえる。

もちろんこれにしても、メルケルが秘蔵っ子に言わせた可能性は十分にある。内政はちょっと内向きになった「ミニ・メルケル」にやらせて、自分はEUに専念し、相変わらず「外側で大きな声を出す」ことを続けるつもりかもしれないからだ。それがレームダックになった彼女の将来的な目論見だとすれば、本人は「漬物石独裁」をやめるどころか、支配するシマの規模を国際的に拡大するつもりなのかもしれない。

関連書籍

ブレイディみかこ『女たちのポリティクス 台頭する世界の女性政治家たち』

近年、世界中で多くの女性指導者が生まれている。アメリカ初の女性副大統領となったカマラ・ハリスに、コロナ禍で指導力を発揮するメルケル(ドイツ)、アーダーン(ニュージーランド)、蔡英文(台湾)ら各国首脳たち。政治という究極の「男社会」で、彼女たちはどのように闘い、上り詰めていったのか。その政治的手腕を激動の世界情勢と共に解き明かす。いっぽう、女性の政治進出を阻む「サイバー暴行」や、女性国会議員比率が世界166位と大幅に遅れる日本の問題にも言及。コロナ禍の社会で女性の生きにくさがより顕在化し、フェミニズムの機運高まる中「女たちのポリティクス」はどう在るべきか。その未来も照らす1冊。

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女たちのポリティクス

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ブレイディみかこ ライター・コラムニスト

1965年福岡市生まれ。福岡県立修猷館高校卒。1996年から英国ブライトン在住。2017年、『子どもたちの階級闘争 ブロークン・ブリテンの無料託児所から』で第16回新潮ドキュメント賞を受賞。『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』がベストセラーになる。そのほか『ヨーロッパ・コーリング 地べたからのポリティカル・レポート』『労働者階級の反乱 地べたから見た英国EU離脱』『女たちのテロル』『ワイルドサイドをほっつき歩け ハマータウンのおっさんたち』など著書多数。

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