殺人犯の息子を引き取ることになったら、その子供とどう向き合えばいいのかーー。衝撃タイトルと、そして驚愕の事件から始まるミステリ『まだ人を殺していません』。気になりすぎる本編を引き続きお楽しみくださいませ。
渡された名刺には児童福祉司、二之宮幸治と書いてある。役職は副所長だった。
児童相談所の職員と面談する予定になっていたので、二之宮の訪問に疑問は覚えなかったけれど、個人宅に副所長が出向いてくれることに驚いた。
兄が、県議会議員の義父は子どもに関わる支援活動をしている、と言っていたのを思いだした。もしかしたら、義父と関係の深い人物なのかもしれない。そう思うと緊張が走る。
玄関で簡単な挨拶を済ませてから家にあがってもらった。
ソファに腰を下ろしてからも、二之宮は忙しなくハンカチで汗を拭いている。
麦茶と和菓子をテーブルに置き、私もソファに座った。
「おかまいなく。でも喉がカラカラでしたので、とても嬉しいです」
二之宮は嬉しそうに麦茶を一口飲んで、「生き返りました」と微笑んだ。気難しい人が来るかもしれないと身構えていたので、人柄のよさそうな人物で安心した。
本来は兄も一緒に面談を受ける予定だったのに、ついさっき仕事の都合で行けないという電話が来たばかりだった。義父のこともあり、兄は良世の状況をひどく気にかけている。だから噓をついているとは思わないけれど、心細さゆえの落胆は大きかった。
二之宮は朗らかな表情で口を開いた。
「お兄様のお話によりますと、葉月さんは教員のご経験があるようですね」
「中学で美術教師をしていました」
彼は安堵したような表情を浮かべ、鞄から書類を取りだした。
「それなら安心です。教育に関する知識もお持ちだと思いますし、頼もしい限りです」
なにが頼もしいのかよくわからないまま、私は「はぁ」と相槌を打った。
二之宮は少し険しい顔つきでこちらをまっすぐ見据えた。
「良世君の父親の公判終了まではとても時間がかかるうえに、仮に裁判で有罪となれば、重い判決が言い渡されると思います」
自宅からホルマリン漬けにされたふたりの遺体が発見されたのだ。もしも誰かに頼まれて遺体を預かっていたとしても、子を育てる親として不適格であるのは明らかだ。良世が再び父親と暮らすのは難しいだろう。
二之宮は、少しきまりの悪そうな顔つきで言った。
「施設という場所は、職員の入れ替わりがあります。同じ職員がずっと担当するのが理想なのですが、そう簡単にはいかないものでして……良世君のように親に複雑な事情がある場合は精神的に支えてくれる大人の存在が必要です。ご親戚の方が養育してくださるのは誠にありがたいことで、いずれは養子縁組も考えてくださっているそうで感謝しております」
きっと、兄が養子縁組をするという方向で連絡したのだろう。
私は複雑な心境になり、思わず視線を落とした。
二之宮は迷いがあるのを見抜いたのか、理解を示すようにうなずきながら優しい声音で提案した。
「葉月さんがご不安にならないよう、我々もできるだけサポートしていきたいと考えています。良世君の母親は亡くなり、父親は拘禁により養育できないため、まずは親族による養育里親として一緒に生活してみてはどうでしょうか」
娘の命を守れなかった私は、養育者として適任なのかという精神的な面ばかりが気になり、法的な制度についてまで考えが及ばなかった。
二之宮はそれを見越していたのか、茶封筒から里親に関する一連の流れや注意事項が書かれた紙を渡してくれた。
里親になるには研修が必要だという。私は親族であり、三年以上の教員経験があるため、多くの研修が免除され、登録前研修の講義のみ受講すれば済むようだった。
養育に関する説明には受診券、住民票の転出・転入手続き、学校の転入手続き、里親姓を通称姓として使用するときの注意点などが書かれている。
二之宮は一つひとつ丁寧に説明してくれた。
「これから病気になることもあるでしょう。そのとき大切になるのが、受診券というものです。受診券は健康保険証の代わりになるもので、病院に行かれたときに提示しますと、里親の負担がなくなります」
良世は複雑なケースなので、転入手続きに関しては、児童相談所の職員が学校へ同行し、今後の対策や注意点などを伝えてくれるという。また、父親と同じ姓を名乗るのは問題があるため、学校でも里親の通称姓を使用するようにしたほうがいいと教えてくれた。
ハンカチで汗を拭いていたときとは印象ががらりと変わり、穏やかだけれど、わからないことを的確に説明してくれる姿が頼もしく映った。
二之宮は励ますような口調で言った。
「もうすぐ小学校は夏休みに入りますので、手続きに関しては少しずつ処理していきましょう」
私は「ありがとうございます」と深く頭を下げた。まだ始まったばかりなのに、もう既に泣きたい気分だった。
二之宮はタイミングを見計らったように、いちばん知りたい情報を口にした。
「新潟の児相に勤務する医師に診てもらいましたが、良世君に虐待の形跡はなく、健康状態も問題はないようなので安心してくださいね。現在は児童心理司と面談し、これまでの養育環境などの調査も行っております。同時に警察からの事情聴取にも協力してもらっているという報告を受けています」
「警察が……良世に事情聴取しているんですか」
「心配なさらないでください。未成年者を取り調べると人権問題にも発展しかねませんので、必ず職員が付き添いますし、警察も病院関係者を装い、慎重に対応しているようです。今後、もしも父親の事件について知らない場合は、もう少し大人になるまで詳細な内容は伝えないほうがいいと思います。精神的なケアも含め、担当の職員から連絡がありますので、日を改めてお伝えしますね」
二之宮は室内に視線を走らせ、棚に置いてあるノートパソコンに目を留めた。「もう事件についてインターネットでお調べになっているかもしれませんが、もしかしたらこれから良世君に関する個人情報が書き込まれる可能性があります。もしも発見したときは、すぐに我々か警察に連絡してください」
つまり、常にネット上の書き込みに目を光らせ、注意しなければならないということだ。
漠然とした不安が胸に宿り、私はすぐに質問した。
「ネットに個人情報を書き込まれたとき、どうしたらいいのでしょうか」
「サイト運営者に対して、発信者情報の開示請求ができますが、自宅の住所などを晒された場合は転校を考えてもらったほうがいいでしょう。幾度か転校を繰り返し、居場所が特定されなくなるケースもありました」
あっさりした口調は、加害者家族の対応に慣れているのを物語っているようだった。
「引っ越し……転校先はどのように見つけたらいいのでしょうか」
「我々が教育委員会に相談し、良世君の行き先を一緒に考えます。これからこちらに引っ越してきて学校も変わりますから、問題なく過ごせる場合もありますので、今はあまりご心配なさらないでください」
矢継ぎ早な質問にも彼は嫌な顔ひとつ見せず、鷹揚な態度で答えてくれた。
二之宮は帰り際、「とにかく困ったことがあれば、専門の職員がおりますので、なんでも気兼ねなくご相談ください」と微笑んでくれた。
秒針の音は、毒を含んだ水滴のようだった。
カチカチカチ、時計が時を刻むたび、部屋に負の感情が満ちていく。たくさん質問を重ね、二之宮に励まされたときは、なんとかやっていけるのではないかという強い気持ちになれた。けれど、ひとりになった途端、不安の渦に呑み込まれてしまいそうになる。
ひとりきりで、彼を守れるだろうか──。
姉は、勝矢を心から愛していた。だからこそ結婚相手として選んだのだ。そう思ったとき、ある疑問が頭をかすめた。
そもそも彼は、本当に人を殺したのだろうか?
被害者のひとりは、まだ幼い子どもだった。もしも勝矢の犯行ならば、良世は殺人犯に育てられたことになる。私は性善説も性悪説も信じていない。どちらかといえば、生後どのような人に出会うかで人格は変容していくと思っている。
それならば、殺人犯に育てられた少年は──。
ネット上に書き込まれていた『悪魔の子』という言葉が脳裏をよぎった。
これほど気にかかるのは、心のどこかで加害者の息子だと警戒している気持ちが潜んでいるからかもしれない。自分の本心を垣間見た気がして、胸がどんよりと濁り重くなる。
二之宮は、私が教員だったのを知っていた。けれど、体裁のいい経歴だけでなく、娘の事故については聞いているだろうか。自分の娘の命さえ守れなかった母親──。その事実を耳にしたら、養育者として適任ではないと判断される可能性もある。
気持ちが急速に沈んでいく。疲れているはずなのに、なぜか目は冴えていた。眠れないだろうと思いながらもベッドに横になった。
一時は感情的になってしまったけれど、冷静になれば、息子がいるから引き取れないと言った兄夫婦の気持ちが理解できる。
美咲希が生きていたら、私も良世を引き取れなかったかもしれない。奇妙な縁を感じずにはいられなかった。
お姉ちゃん、教えて。良世はいい子? どんな子なの?
どれほど時間が経っても返事はもらえず、枕に涙が染み込んでいく。
(次回につづく)
まだ人を殺していません
書き下ろし感動ミステリ『まだ人を殺していません』(小林由香著)の刊行記念特集です。