殺人犯の息子を引き取ることになったら、その子供とどう向き合えばいいのかーー。衝撃タイトルと、そして驚愕の事件から始まるミステリ『まだ人を殺していません』。気になりすぎる本編を引き続きお楽しみくださいませ。
翌週、登録前研修に空きがあったため、養育援助技術や発達心理の講義を受講した。そのあと兄から連絡があり、良世は三日後に私の自宅に来ることになった。
警察や児童心理司との面談の結果、良世は父親の犯行については知らないという結論に至ったようだ。遺体が置いてあった部屋は鍵がかかっていて、中には入れないようになっていたという。
きっとトラウマになるような場面は目撃していなかったのだろう。けれど、なにか不穏なものを感じ取っていた可能性がある。遺体を自宅に遺棄していたのは事実なのだ。子どもは大人が思っている以上に鋭い観察力を持っている。
専門家の判断に安堵を覚える一方で、素直に受け止められない気持ちもあった。
疑念を抱いてしまうのは、他にも問題が生じていたからだ。
良世は声をだせるはずなのに、慣れていない人とはあまり会話ができないという。どうやら場面緘黙の症状に苦しんでいるようだった。口頭で会話を交わすのが難しいため、職員から質問を受けるたび、彼はノートに答えを書いて気持ちを伝えているそうだ。
小学校のクラス担任の話によれば、事件後に発症したのではなく、以前から抱えているもので、発語に関する器官に問題はないため、いずれ話せるようになるという。二之宮から聞かされた現状は、不安要素が多かった。
私は里親研修を終えたあと、二之宮と一緒にこれから良世が通う小学校を訪問した。
「良世は、父親と会えないことを寂しがっていませんか」
小学校への道中、気がかりだったことを尋ねると、二之宮は校門の前で足を止め、少し困惑した表情で答えた。
「一時保護所の職員の話によれば、一度も父親について質問してくることはなかったようです」
「親のことが気にならないのでしょうか」
「いえ……そうではなく、我々の説明を信じているからだと思います」
職員たちは、『お父さんは具合が悪くなり、しばらく病院に入院するため、今までのように一緒に暮らすことが難しくなった』と良世に伝えているようだ。
二之宮は補足するように説明した。
「実際、これまでもお父さんは具合が悪くなることがあったようで、今の段階では、病院に入院しているという話を信じてくれているようです」
「南雲勝矢は、どこか体調が悪いんですか」
「身体に問題はないのですが、少し心を病んでいたようです」
「心を?」
「まだ捜査段階なので……」
これ以上詳しい話はできないのか、二之宮は言いづらそうに語尾を濁した。
私たちは再び歩きだすと、黙したまま校門を抜け、校内にある受付まで向かった。
受付の女性に来意を告げると、男性教諭が応接室に案内してくれた。
案内してくれた男性は、良世のクラス担任になる教諭、木下先生だった。二十代半ばで華奢な体型。控えめな目鼻立ちのせいか、気の弱そうな印象を受けた。
学校は夏休みに入っていたため、子どもたちの歓声はなく、廊下は寂しいほど静まり返っていた。
ソファとテーブルがある応接室に入ると、恰幅のいい校長がソファを勧めてくれたので、簡単な挨拶を済ませてから二之宮と並んで腰を下ろした。
校長は励ますような声で、「あのような痛ましい事件があって、いちばん辛いのはお子さんでしょう。我々もしっかりバックアップし、みんなで良世君が過ごしやすい環境を整えていきたいと考えています」という力強い言葉をくれた。
木下先生も深く同意するようにうなずいている。
微かに胸が痛んだ。自分が教師だったとき、重い問題を抱えている生徒に、こんなにもあたたかい言葉をかけられただろうか。自らが窮地に陥ったとき、大事なことに気づかされる。
学校側の真摯な対応に励まされ、私は「どうぞよろしくお願いします」と深く頭を下げた。
新しい小学校には、夏休み明けの二学期から転入することになった。
これからは実姓の南雲ではなく、私の苗字の『葉月』で呼ぶこと、児童の保護者には「父親が体調を崩して入院したため、一緒に暮らしている」と伝えることを取り決めた。親の中には、なぜ転校してきたのか執拗に質問する人もいるという。話が食い違うと悪い噂が立つので、慎重に対応したほうがよさそうだった。
良世が家に来る日、私は落ち着かない時間を過ごしていた。
到着する時間は、午後二時──。
事件が発覚してから十三日が過ぎていた。
約束の時間まで、ひたすら部屋の掃除をし、紅茶のシフォンケーキを焼き、ネットで小学生の男の子が好きな食べ物や漫画などを検索して過ごした。
自宅の二階には部屋がふたつある。ひとつは美咲希が使用していた部屋。その隣を良世の部屋にしようと考えていた。
まだ九歳の少年だ。初めての家が怖いときは、本を読んで寝かしつけてあげよう。なにも心配はいらないとたくさん声をかけてあげたい。
不思議だけれど、あれほど心配だったのに、いざ良世が家に来ると思うと胸に高揚感が湧いてくる。
棚から真新しいノートを一冊取りだし、ペンを走らせた。
7月27日 晴れ
お姉ちゃん、今日は初めて良世に会います。
不安や希望が混在していて、落ち着かない時間を過ごしています。
これからときどき日記を書きますね。
気が向いたら返事をください。
私は自分を戒めるためにも日記を書くことにした。
もう二度と同じ過ちを繰り返したくない。これからは自分の気持ちを日記に書き込み、良世の成長を見守ろうと心に決めた。
死者から返事が来る日記帳があればいいのに──そんなあり得ない妄想に耽っていると家のチャイムが鳴り響いた。
壁時計に視線を移すと、もう午後二時を過ぎている。
新鮮な興奮を覚えながら廊下を駆け抜け、玄関のドアを開けた。
蟬の喧しい鳴き声が耳に飛び込んでくる。
目の前には、笑顔の兄と二之宮の姿があった。
二之宮は相変わらず、噴き出る汗を苺柄のハンカチで拭っていた。兄はボストンバッグとラベンダー色のランドセルを抱えている。
彼らに隠れるようにして、うつむいている少年の姿が見えた。
少年はライトグレーのシャツにオフホワイトのチノパン姿。細くてさらさらした髪は、少し長く、腕は驚くほど真っ白だった。事件後、外には出ていないのかもしれない。同い年の詩音君に比べると身長は低く、身体つきもずいぶん華奢だった。
「暑い中、本当にありがとうございます」
私が二之宮に礼を述べると、良世はゆっくり顔を上げた。
目の前の光景に放心した。
蟬の音がすっと遠のき、身体が凍りついたように固まってしまう。
少年の顔から目が離せなくなる。
良世は、幼い頃の姉にそっくりだった。目は大きいけれど、鼻や口は小さく、お人形のような顔をしている。無言のまま、こちらを警戒するように上目遣いで見ていた。
とても可愛い子だった。
私が挨拶しようとして近づくと、良世は怯えたように一歩退いた。けれど、顔は無表情で、まったく感情が読み取れない。
「葉月翔子です。良世のお母さんの妹です」
そう挨拶しても、少年は上目遣いでこちらを窺うように眺めているだけだった。
私は気を改めてみんなに声をかけた。
「どうぞおあがりください」
「良世君、一緒に家にあがらせてもらおう」
二之宮がそう促すと、良世は嫌がる素振りも見せず、三和土に足を踏み入れた。使い古されたスニーカーを脱いで、緩慢な動きで上がり框にそっと足を置いた。
とても小さな足を眺めていると、近寄ってきた兄が耳元で囁いた。
「車の中でも一言も口をきかなかった。まぁ、慣れてくれば大丈夫だろう」
事前に場面緘黙症の話は聞いていたので、私は黙ってうなずいた。
なにか視線を感じて目を向けると、異様な光景に心が乱れた。
良世が大きな目を細めている。彼の顔に敵意の色が滲んだように見えたのだ。もしかしたら緊張のあまり、顔が引きつってしまっただけかもしれない。
兄と二之宮は見ていなかったのか、気にする様子もなく、「今日も暑いですねぇ」と世間話をしている。
目の端で様子を窺うと、良世は無表情に戻っていた。
彼の周りだけ寒々しい空気が漂っているような気がする。
リビングで雑談をしているときも、ソファに座っている良世は身動きひとつしない。二之宮から話しかけられても、微かにうなずいてみせるだけだった。姿勢はいいのに生気のない人形のようで対応に戸惑ってしまう。子どもらしさというものが欠けているのだ。中学生よりも、はるかに大人びている。
考えすぎだろうか……どこか感情が欠落しているような気がしてならなかった。
オレンジジュースとシフォンケーキをテーブルに置いても、良世はどちらにも手を付けようとしない。勧めてみると、わずかに首を振る仕草をする。きっと「いらない」という意思表示だろう。
「翔子、これから良世が使う部屋を案内してやれよ。俺は車から残りの荷物を持ってくる」
兄にそう言われ、はっとした。
洗面所で手を洗わせていないことに気づいたのだ。娘には手洗いやうがいを身につけさせるために口うるさく言っていたのに、まだ親として対応するのが難しかった。
私はボストンバッグとランドセルを手に持つと声をかけた。
「家を案内するから一緒に来てくれる?」
良世は鈍い動きで立ち上がると、素直にあとをついてくる。
少し前を歩き、「ここがトイレで、こっちのドアの向こうが洗面台」と説明していく。
ドアを開けると、良世は私の横をすっと通り抜けて洗面台の前に立った。なにも言っていないのに、ポンプ式の石鹼を手にのせて泡だて、丁寧に洗い始めた。まるでアライグマのように素早く小さな掌をすり合わせている。
もしかしたら、手を洗っていないから食べなかったのかもしれない。勝矢は、躾や教育に熱心な父親だった可能性もある。
「ちゃんと洗えるなんて偉いね」
私が声をかけても、黙々と洗い続けている。その姿は切迫感に満ちていた。
良世は泡を流し、掛けてあるタオルで手を拭いてから、確認するような瞳でこちらを見上げてきた。もう一度「偉いね」と言いながら頭を撫でようとすると、彼は避けるように廊下に飛びだした。
故意に避けたのかどうか判然としないけれど、にわかに胸がざわつく。
気を取り直して、二階に続く階段をのぼり、廊下の突き当りの部屋に案内した。
「ここが良世のお部屋」
ベッドは娘が使用していたものを移動し、ベッドカバーは青い生地に星が刺繡してあるものにした。他の家具はネットで注文して運び入れてもらった。勉強机も娘のものを使ってもらえばいいのだけれど、思い出の品がたくさん並んでいたため、あまり動かしたくなかったのだ。
良世は廊下に立ちすくみ、いつまで経っても部屋の中に入ろうとしない。澄んだ双眸で、警戒するように部屋をぐるりと見回している。両拳をぎゅっと握りしめていた。
なにか気に入らないものがあるのだろうか──。
よく観察していると匂いを嗅いでいるような仕草をしている。まるで野生動物が、敵がいないかどうか様子を窺っているようだ。
「リビングに戻ろうか?」
無理やり部屋に入らせるのは憚られたので声をかけてみた。
良世は大きな瞳でじっと私を見据える。
「どうしたの?」
彼はなんでもないというふうにかぶりを振り、階段のほうに向かって歩き始めた。
ランドセルとボストンバッグを部屋に残し、慌てて廊下に出た。すると、良世は娘の部屋の前で佇んでいた。
「この部屋は……大事な荷物が置いてあるから入らないでね」
そう言うと、彼の顔に緊張が走った。
私は慌てて部屋のドアを開けた。
「心配しないで。ここは娘が使っていた部屋よ。でも……車の事故で亡くなってしまって……今はいないの」
震える声で懸命に説明した。これから一緒に生活するのに、噓はつきたくない。
家に入ってはいけない部屋があるのは、子どもにとって不安要素になるかもしれない。この家にあなたが怖がるものはない、そう伝えたかったのだ。
良世の肩が少しだけ丸くなった気がする。
しばらく娘の部屋を眺めたあと、小さな足で階段を下りていく。あまり急勾配な階段ではないけれど、足を滑らせないか心配になってしまう。
私は喉元まで出かかった「気をつけてね」という言葉を呑み込んだ。突然声をかけたら、驚かせてしまうかもしれないと思ったのだ。
娘を失ってから、極端に臆病になっていることに気づかされた。
兄と二之宮が帰り、ふたりだけの部屋は静寂に包まれていた。
気詰まりな時間が流れていく。
人ではなく、少年のマネキンがソファに座っているようで一時も心が休まらない。相変わらず良世はジュースにもシフォンケーキにも手を伸ばしてくれなかった。様々な質問を投げてみるも、彼は感情の読めない顔で黙りこくっている。
小学校は夏休みのため、しばらくは日中もずっと一緒にいなければならない。会話ができないことを考えると先が思いやられた。
場面緘黙症ならば、慣れてくれば声を発してくれるかもしれない。私は諦めず、期待を込めて尋ねた。
「良世のいちばん好きな食べ物を教えて」
どれだけ待っても返答はなく、辺りには秒針の音だけが虚しく響いていた。
質問の意味はわかっているはずなのに、彼はこちらを観察するように眺めているだけで口を動かそうとしない。まるで言葉の通じない異国の子に尋ねているような気分になる。
私は立ち上がると、棚の引き出しから筆記用具と紙を取りだした。声で伝えられないのなら、文字で会話をしようと考えたのだ。
「いちばん好きな食べ物を書いてみて」
ジュースとシフォンケーキを端によけてから、テーブルに紙と鉛筆を置いた。
良世は身動きひとつせず、真っ白な紙に視線を落とした。長い睫毛が微かに震えている。
彼はごくりと唾を飲み込むと、おもむろに鉛筆をつかんだ。
鉛筆を掃くようにサッと動かし、なにか書き始めたけれど、すぐに手を止めた。どこか思案顔にも見える。こちらが凝視していると書きづらい気がして、私は兄たちのグラスを片付け始めた。
カウンターキッチンから良世を見やると、夢中で鉛筆を動かしている。少しだけ心が軽くなった。声がだせなくても気持ちを伝える方法はあるのだ。
洗い物を終わらせてからソファに腰を下ろし、テーブルの上に目を向けた。
その直後、驚きのあまり、私は紙を手に取って凝視した。
紙の中央には、写実的な絵が描いてある。有名なメーカーのカップアイス。味はストロベリー。誰もがすぐにわかるほど秀逸な絵だった。しかも原寸大で、まるで念写したような出来栄えだ。胸が高鳴ってくる。
もしかしたら絵が得意なのかもしれない。いや、得意というレベルを超えている。美大生ならともかく、彼はまだ小学四年だ。
先天的に高度な能力を持つ、ギフテッド?
それとも、誰かに絵を習っていたのだろうか。大人でも習得するのに時間がかかるのに遠近法を利用し、短時間で立体的に表現している。描く姿を見ていなかったのをひどく後悔した。
「絵がとても上手だからびっくりした。どこかで絵の勉強をしたの?」
平静を装いながら尋ねると、彼はさっと視線をそらし、顔を伏せてしまった。腿の上で拳を握りしめ、肩を強張らせている。
どれだけ待っても返答はなく、再び静かな時間が流れていく。
良世も絵画教室に参加させよう。そうすれば生徒を教えている間、ひとりぼっちにしないで済む。湧き立つような感動を覚え、私は興奮していた。
そういえば、姉のいちばん好きな食べ物はアイスだった。しかも決まって手に取るのはストロベリー味。ささやかな相似点なのに、姉との血の繫がりを感じられて嬉しくなる。
視線を感じて良世に目を向けると、彼はじっとこちらを見つめてくる。
私はできるだけ優しい声音で訊いた。
「ストロベリーアイスが好きなの?」
良世は無言のまま、勘違いかと思うほど微かな動きでうなずいてみせた。その反応が嬉しくて、続けて質問した。
「飲み物はなにが好き? また紙に描いてみて」
良世の唇が乾燥していたので、なにか飲んでほしかったのだ。絵を描く姿を見たいという気持ちも隠れていた。
ゆっくり鉛筆を持つと、しばらく考え込んだあと、期待に反して「水です」と文字で書いた。優れた絵とは違い、文字はバランスが悪くて拙かった。
少しがっかりしたけれど、水を絵で表現するのは難しいと思い至った。
とにかく答えてくれたのが嬉しくて、すぐに冷蔵庫に向かうとミネラルウォーターを取りだし、グラスに注いでからテーブルに置いた。
良世は喉が渇いていたのか、勢いよく飲み始めた。水が口からこぼれ落ちるのもかまわず、ごくごくと喉を鳴らして飲み干している。先ほどまでの大人びた姿とは違い、野性的な雰囲気に戸惑いを覚えた。
口からこぼれた水が顎を伝ってシャツを濡らす。水を含んだシャツは、濃い灰色に変色していた。
慌ててティッシュを数枚つかむ。手を伸ばして拭こうとすると、良世は私からティッシュを奪い取り、自分で撫でるように拭き始めた。
思わず言葉を失った。
拒絶されたような気がして、切ない思いが胸に込み上げてくる。
私は動揺を気取られないように自然な口調で尋ねた。
「着替えはある?」
良世は少し間を置いてから無表情でうなずいた。
私は立ち上がると「着替えを持ってくるね」と言い残して廊下に出た。
ずっと胸がざわついている。まだ慣れていないだけだ。そう自分に言い聞かせながら、階段を上がり、良世の部屋に駆け込んだ。
机の横に置いてあるボストンバッグを開ける。中から服を取りだしているとき、強い違和感を覚えた。
服、下着、靴下の色は、白か灰色。しかも柄やキャラクターの絵はいっさいなく、すべて無地だった。娘はピンクやオレンジなどの暖色系が好きだったけれど、もしかしたら良世はシンプルなデザインが好みなのかもしれない。
どれも特徴がなく、色も似ているから同じ服に思えてしまう。
ボストンバッグのいちばん上にあったシンプルなシャツを手に取り、部屋を出ようとしたとき短い悲鳴が口からもれた。
部屋の前に良世が立っていたのだ。
足音はまったく聞こえなかった。彼は人形のように微動だにしない。
「びっくりした。二階に上がってきたんだね」
私は動揺を悟られないように手招きし、「自分で着替えられる?」と訊いた。
海が空の色を真似るように、子どもは大人の感情を敏感に感じ取り、強い影響を受けてしまう。できるだけ穏やかな対応を心がけるのに必死だった。
良世は部屋に足を踏み入れると、そっとシャツを受け取り、手伝ってあげなくてもボタンを器用に外して着替え始めた。
胸がチクリと痛んだ。生前、娘の着替えを手伝うことがあった。生きていれば良世と同じ九歳になり、着替えもひとりでできるようになっていただろう。亡くなった年齢で時間が止まってしまったせいか、つい五歳児と同じ扱いをしてしまいそうになる。
着替え終えてから、再びリビングに戻ると、私は提案した。
「これから一緒にアイスを買いに行かない?」
良世は力強く首を縦に振った。
感情の起伏が少ない子なので、反応してくれるだけで嬉しくなる。
夕方になってもまだ日射しは強かった。
夫が使っていたキャップがあったので、サイズ調節をして被ってもらった。いちばん小さいサイズにしても少し大きいけれど、あまり不自然ではなかった。子どもの頭のサイズは大人とそれほど変わらないのか、それとも良世の頭が大きいのか判然としない。まだ服や靴のサイズも知らないことに気づき、近いうちに一緒に買い物に行こうと胸の内で計画を立てた。
今日は疲れているかもしれないので、近くのスーパーで良世の好きなものを買って帰ろう。一緒に買い物に行けば、喋れなくても籠にほしいものを入れてくれるかもしれない。久しぶりに気持ちが高揚していた。誰かと買い物に行くのが、こんなにも楽しいのかと自分に呆れる思いだった。
ふたりで並んで幅の広い歩道をのんびり進んでいく。できるだけ街路樹の日陰を選んで歩いた。けたたましい蟬の鳴き声が降ってくる。
良世の歩幅に合わせてゆっくり進む。この歩道を歩いていると、美咲希の笑顔を思いだしてしまう。娘は機嫌のいいときは、繫いだ手を前後にゆらゆら揺らして、アニメソングを口ずさみながら歩いていた。
歩道の横は交通量の多い車道だったので、良世の手を握ろうとすると、彼はさっと手を引いた。
ふいに、洗面台の前で頭を撫でようとしたときの光景がよみがえり、胸に暗い翳がじわじわと広がっていく。あのときも避けるような動きを見せた。水を拭こうとしたときもそうだ。
人に触れられるのが嫌なのかもしれない──。
まっすぐ前だけを見据えている良世が、ちらりと視線を移した。視線をたどると、仲のよさそうな父子の姿があった。彼らは手を繫いで楽しそうに歩道を歩いている。少年の父親は、夢中になって喋りまくる息子の姿を優しい眼差しで見つめていた。
良世は、父親と手を繫いで歩いたことはあっただろうか。あんなふうに無邪気に笑い、語り合うときはあったのか──。
知りたいことが次々あふれてくるのに、そのどれもが簡単には訊けない内容だった。
時間ならたくさんある。会話を増やし、ゆっくり良世について理解を深めていこう。
家から七分ほど歩くと、大型スーパーが見えてくる。
スーパーはガラス張りだったので、外から店内の様子が窺えた。客はいつもより少ないようだ。安堵が胸を満たしていく。知り合いに声をかけられたら、まだ慣れてない良世は戸惑ってしまう気がしたのだ。
自動ドアを抜けて店内に入ると、ひんやりとした空気が全身を包み込んだ。周囲にはスーパーのオリジナルソングが流れている。娘のお気に入りの歌だった。
ゆっくり買い物をしたかったので、ショッピングカートに手を伸ばしたとき、近くに良世がいないことに気づいた。
引いたはずの汗が一気に噴きだしてくる。
私は慌てて周囲に目を走らせた。
子どもの泣き声が聞こえ、そちらに目を向けると、まだ幼い女の子が入り口付近に倒れている。女の子が着ているのはオレンジ色のワンピース。見覚えのある服だ。けれど、どこで目にしたのか思いだせなかった。
母親らしき人物が駆け寄ってくると女の子を抱き上げ、「転んじゃったの? 痛かったね」とあやしている。その隣に良世が佇んでいた。彼は凍りついたように固まり、目だけを動かして周りの様子を窺っている。なにかに怯えているようだった。
初めての場所が苦手で動揺してしまったのだろうか。
「大丈夫?」
入り口に戻って声をかけると、良世は我に返ったかのように私を見上げた。キャップの鍔で影ができているせいか、表情は暗く、心なしか顔色が悪いように思えた。
「具合が悪かったら、家に戻るから教えてね」
良世は「大丈夫」と言わんばかりに、自ら率先して店内に入っていく。
さっきまで顔色が悪かったのに、カートを押しながら買い物を始めた途端、良世の瞳に光が射したように感じられた。
「好きなものがあったら、籠に入れていいからね」
辛い経験をたくさんしてきたのだ。今日くらいは、ほしいものをたくさん買ってあげたい。
予想通りお菓子売り場で立ち止まったのが嬉しかった。やはり、まだ子どもだ。彼はいくつかチョコレートを手に取り、それらを慎重に見比べている。
「チョコが好きなの?」
そう尋ねると、良世は首を横に振った。
「それならどうしてチョコを見ているの?」
彼の行動のなにもかもがわからなくて、口から出てくるのは質問ばかりになってしまう。どれだけ待っても返答はなく、その場を動こうとしないので、もう一度声をかけてみた。
「ラム酒、ブランデー、どれもお酒が入っているチョコだね」
良世が「正解」と言わんばかりに顔を上げる。
つい声をだして笑ってしまう。まだ子どもなのに、洋酒入りのチョコレートをほしがるのがおかしかったのだ。クールなデザインのパッケージには、小学生が惹かれる要素は見当たらなかった。もしかしたら、前に食べたことがあるのかもしれない。
パッケージには、洋酒使用アルコール分3%と書かれている。
ふいに、ある疑問が芽生えた。
同い年くらいの子を持つ親は、洋酒入りのチョコレートを買ってあげているのだろうか。
娘を失って以来、苦い記憶が呼び覚まされるたび、私は逃げるようにアルコールを頼った。そんな人間が洋酒入りのチョコレートを買おうかどうか迷っているのが滑稽に思えてくる。
スマホを取りだして検索してみた。お酒入りのチョコレートは酒類ではないので違法ではないようだ。けれど、子育て相談サイトには、児童の中には顔が赤くなり、頭がぼんやりしてしまう子もいるため注意が必要だと書いてある。あまり勧めたくないけれど、こんなにもほしがっている姿を見てしまうと買ってあげたくなる。
「今までお酒入りのチョコを食べたことがある?」
私の問いかけに、良世は深くうなずいてみせた。
「そのとき具合が悪くならなかった?」
また黙したまま、首を縦に振った。問題ないと言わんばかりに、瞳を輝かせて胸を張っている。
前に食べて問題がなければ、今回も大丈夫だろう。
「ほしいものを籠に入れて」
そう言うと、良世は手に持っているチョコレートをすべて籠に入れた。
特売の野菜を買い、最後に冷凍コーナーに寄り、先ほどリビングで描いていたアイスを探した。私がストロベリーアイスに手を伸ばそうとすると、良世は同じメーカーのチョコレートアイスをつかんで籠に入れる。
どうしてだろう──。
絵に描いたのはストロベリー味だった。急にチョコレート味がほしくなったのだろうか。
良世の視線をたどると、アイスケースの中に並んでいるストロベリーアイスをじっと見つめている。
「ふたつ買っていいよ」
いつもは緩慢な動きなのに、素早くストロベリーアイスをつかんで籠に入れる姿が可愛らしかった。私は抹茶アイスと娘が好きだったマカダミアナッツアイスを買うことにした。
良世を可愛いと思うたび、娘の顔がちらついてしまい、胸がひどく苦しくなる。
──ママは私のことは守ってくれなかったのに、新しい子どもを大切にするの?
そう言われている気がして陰鬱な気分になる。娘を失った哀しみを紛らわすために、姉の子を引き取ったわけではない。けれど、どこかで責められている気がしてしまうのだ。すべては妄想だとわかっているのに、罪悪感が重くのしかかってくる。
愚かな妄想を振り払い、レジに向かった。
混み合う時間帯だったのに、運よくどこも空いている。レジでドライアイス用のコインをもらった。会計後、専用の機械にアイスの入っているビニール袋をセットし、コインを投入してドライアイスを詰め込んだ。
良世が家に来てから、まだ数時間しか経っていない。けれど、買い物を終えて店を出る頃には緊張感が少し解けていた。気のせいか、来たときよりも足取りは軽く、見慣れた景色も鮮やかに映る。
歩道の街路樹の葉がざわめいていた。髪を撫でる風が心地いい。
空を振り仰ぐと、分厚い雲が太陽を隠し、少しだけ涼しくなった。
街路樹の枝が大きく揺れ、風がふわりと良世のキャップをさらっていく。
次の瞬間、心臓が縮み上がった。
良世が帽子を追いかけて車道に飛びだしたのだ。私は即座に細い腕をつかみ、その勢いで彼をアスファルトに倒してしまった。
「急に飛びだしたら危ないでしょ!」
自分でも驚くほど大きな声を張り上げ、強く叱りつけていた。
倒れた良世はゆっくり上半身を起き上がらせ、こちらに顔を向けた。
思わず息を呑んだ。
良世の瞳に怯えの色が宿っている。娘が「ママ嫌い」と言ったときの瞳と重なって見えた。彼の青ざめた頰には、擦り傷ができて血が滲んでいる。倒れたときに頰を擦ったのかもしれない。
サイズの合わないキャップを被らせたのは私だ。帽子が飛ばされたら、子どもならつい追いかけてしまうだろう。膝から力が抜けていく。
激しい罪悪感と嫌悪感に襲われ、私が「ごめん」とつぶやきながら手を伸ばすと、良世は避けるように身を引いた。
街路樹から禍々しい蟬の鳴き声が降ってくる。
鼓動が激しくなり、視界が狭まり、景色が歪んでいく。強い息苦しさを感じた途端、気が遠くなった。苦しくて顔を伏せたまま、浅い呼吸を繰り返す。
アスファルトに血溜まりが広がっていく映像がフラッシュバックする。
車の急ブレーキ音、片方だけ脱げた小さな靴──。
誰かに「大丈夫ですか」と尋ねられ、ゆっくり顔を上げると、白い煙が目に飛び込んできた。昇華するドライアイスの向こうに、マカダミアナッツのアイスが転がっている。
蟬の声が耳に戻ってきて、我に返った。慌てて周囲を確認すると、歩道の隅に良世がいるのに気づいた。
背筋がすっと寒くなる。
良世の隣には、見知らぬ女性が立っていた。この街に引っ越してきたばかりで、知り合いなんていないはずだ。
胸に去来するのは深い絶望だった。膝が震えて、うまく立ち上がれない。
彼は女性の手を握りしめて、こちらをじっと見つめている。芯の強そうな瞳。冷たそうな薄い唇に笑みが広がる。
声をだそうにも、舌がもつれて言葉が出てこない。
良世は大きな双眸を少し細め、心配する様子もなく、頰に笑みを貼りつけている。まるで動物園の檻の前で、母親と一緒に見慣れぬ動物を眺めているようだった。
(続きは書籍『まだ人を殺していません』でお楽しみくださいませ)
「悪魔の子」と噂される少年、良世。彼はどんな子供なのか。心に何を抱えているのか。
事件に関係しているのか。良世の身に起きたこと、じけんの真実、そして日記に綴られる「本当の想い」がわかった時、
物語の全てが逆転する。衝撃と感動のミステリをお楽しみください。
まだ人を殺していません
書き下ろし感動ミステリ『まだ人を殺していません』(小林由香著)の刊行記念特集です。