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二人の嘘

2021.06.29 公開 ポスト

#1「まさか、こんなことになるなんて」片陵礼子の呟きは奥能登の海に消えていった。一雫ライオン

一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。

物語冒頭、主人公の一人・片陵礼子(かたおか・れいこ)の過去と今が、狂おしく行き来する−−。

*   *   *

プロローグ

ひらひらと鳥は舞い落ちていった。

いや、ひらひらと感じたのは一瞬だったのかもしれない。ほんの、数秒。コンマ何秒の世界だったのかもしれない。不格好な片方の翼をばたばたと上下させ、それは落下していった。

最初はおおきくふたつの翼を広げた。が、飛べぬと気づくと手負いの片方の翼を必死に広げた。片方の翼だけに力を入れたからか、本来なら平行に進むべき道を、躰を右斜め上に傾け、必死に、折れた右の翼をばたつかせた。十二歳だった礼子は小学校の教室のベランダから、落下していく鳥の背中を見つめた。

「だから言ったのに」

礼子は隣に立つ同級生の夏目三津子の目を見て言った。夏目三津子は礼子に視線をむけることもなく、いや、礼子が発した言葉など、もともとこの世になかったように、ただ落ちゆく鳥を呆と見つめていた。

想像以上に、落ちるスピードは速かった。

二か月前に校庭の片隅に倒れていた鳩を、クラスの男子が見つけた。片方の翼が折れていた。右の翼。

「カラスにやられたのかもしれない」

「いや、仲間の鳩と喧嘩をしたのかも」

「仲間で喧嘩なんてしないよ」

「いや、鳩だって餌を取りあったりして、喧嘩することもあるよ」

普段は空を飛び、地にいるときは個性的な首の動きで歩く鳩。が、十二歳の礼子たちは、明らかに右の翼が折れ、醜く変形し砂利の上に寝そべる鳩を見て興奮していた。非日常だった。死を感じたのかもしれない。そのうち誰からともなく「助けよう」という声が上がり、鳩は六年三組の教室で保護されることになった。担任の先生はすこし困った顔を見せながら、鳥かごを持ってきてくれた。ほとんどのクラスメイト、三十人ほどの女子と男子は手負いの鳥を看病しつづけた。

そして二か月がたち、給食後、もうすこしで午後の授業の開始を告げるベルが鳴るころ、夏目三津子は礼子に言った。

「もう、逃がしてあげようよ」と。

クラスのなかでも静かというか、あまり前にも出ない夏目三津子が突然話しかけてきたので、まだ子供だった礼子は一瞬驚いた。「まだ、治ってないんじゃない?」と言った記憶が礼子にはある。

「だいじょうぶ。治ってるよ」

校庭でドッジボールやキックベースをしないわずかな男子、いっぱしの大人の女性顔負けに、ああでもない、こうでもない、誰が誰をこんなふうに言っていた、と楽しげに話しあう女子たちと、夏目三津子と礼子はその瞬間、確実に別の世界にいた。教室の後ろに置かれた物入れの上にある、鳥かご。細い柵の間から、鳩が見えた。その前に立つ夏目三津子と礼子の会話など、教室にいるどの生徒も聞いていなかった。

唾を飲みこんだことを、片陵礼子は覚えている。

背中がぶるっと震えたことも。

夏目三津子は礼子の反対も聞かず、鳥かごに手を伸ばし、両手で包むようにそれを掴んだ──。

 

「片陵さん」

机を挟んでむかいに座る男の声で、礼子はようやく窓の外にむけていた視線を前に戻した。幼きころの、鳩の記憶もゆっくりと消えていった。が、瞳には窓から見える光景がこびりつく。一月の能登半島。日本海。空からは牡丹のような雪が舞い落ち、港を白く覆っていた。人っ子一人存在しないその港津に、真冬の日本海は暴れるように波を寄せては戻していく。

鼠色をしたスチール製の机の上に置かれた湯飲みに礼子は視線を移した。先ほどまで氷点下の世界にいた礼子をいたわるように、すこし軽蔑するように、湯飲みからは湯気が立ち上っていた。

「金沢へ行きたいと言ったのは、わたしなんです」

礼子は九谷焼でも珠洲焼でもなんでもない、百円ショップで売っていそうな茶碗を見つめながら言った。

「はい」

目の前にいる刑事は答えた。珠洲警察署、会議室。机上に置かれた卓上カレンダーが目に入る。平成三十一年、一月。平成最後の一月が終わろうとしている。新たな年号は、なにになるのであろうか。

「……まさか、こんなことになるなんて」

礼子の呟きは窓の外で鳴いた海鳥の声に交じり、消えていった。

 

蛭間隆也を思い出した。

いつも後ろを歩いていたあの人を。

 

──平成も終わりますね。

──どんな年に、なるでしょうね。

 

(つづく)

関連書籍

一雫ライオン『二人の嘘』

女性判事・片陵礼子の経歴には微塵の汚点もなかった。最高裁判事への道が拓けてもいた。そんな彼女はある男が気になって仕方ない。かつて彼女が懲役刑に処した元服役囚。近頃、裁判所の前に佇んでいるのだという。違和感を覚えた礼子は調べ始める。それによって二人の人生が宿命のように交錯することになるとも知らずに......。感涙のミステリー。

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一雫ライオン

1973年生まれ。東京都出身。明治大学政治経済学部二部中退。俳優としての活動を経て、演劇ユニット「東京深夜舞台」を結成後、脚本家に。映画「ハヌル―SKY―」でSHORT SHORTS FILM FESTIVAL & ASIA 2013 ミュージックShort部門UULAアワード受賞。映画「TAP 完全なる飼育」「パラレルワールド・ラブストーリー」など多くの作品の脚本を担当。2017年に『ダー・天使』で小説家デビュー。その他の著書に、連続殺人鬼と事件に纏わる人々を描いた『スノーマン』がある。

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