一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
物語冒頭、主人公の一人・片陵礼子(かたおか・れいこ)の過去と今が、狂おしく行き来する−−。
* * *
プロローグ
ひらひらと鳥は舞い落ちていった。
いや、ひらひらと感じたのは一瞬だったのかもしれない。ほんの、数秒。コンマ何秒の世界だったのかもしれない。不格好な片方の翼をばたばたと上下させ、それは落下していった。
最初はおおきくふたつの翼を広げた。が、飛べぬと気づくと手負いの片方の翼を必死に広げた。片方の翼だけに力を入れたからか、本来なら平行に進むべき道を、躰を右斜め上に傾け、必死に、折れた右の翼をばたつかせた。十二歳だった礼子は小学校の教室のベランダから、落下していく鳥の背中を見つめた。
「だから言ったのに」
礼子は隣に立つ同級生の夏目三津子の目を見て言った。夏目三津子は礼子に視線をむけることもなく、いや、礼子が発した言葉など、もともとこの世になかったように、ただ落ちゆく鳥を呆と見つめていた。
想像以上に、落ちるスピードは速かった。
二か月前に校庭の片隅に倒れていた鳩を、クラスの男子が見つけた。片方の翼が折れていた。右の翼。
「カラスにやられたのかもしれない」
「いや、仲間の鳩と喧嘩をしたのかも」
「仲間で喧嘩なんてしないよ」
「いや、鳩だって餌を取りあったりして、喧嘩することもあるよ」
普段は空を飛び、地にいるときは個性的な首の動きで歩く鳩。が、十二歳の礼子たちは、明らかに右の翼が折れ、醜く変形し砂利の上に寝そべる鳩を見て興奮していた。非日常だった。死を感じたのかもしれない。そのうち誰からともなく「助けよう」という声が上がり、鳩は六年三組の教室で保護されることになった。担任の先生はすこし困った顔を見せながら、鳥かごを持ってきてくれた。ほとんどのクラスメイト、三十人ほどの女子と男子は手負いの鳥を看病しつづけた。
そして二か月がたち、給食後、もうすこしで午後の授業の開始を告げるベルが鳴るころ、夏目三津子は礼子に言った。
「もう、逃がしてあげようよ」と。
クラスのなかでも静かというか、あまり前にも出ない夏目三津子が突然話しかけてきたので、まだ子供だった礼子は一瞬驚いた。「まだ、治ってないんじゃない?」と言った記憶が礼子にはある。
「だいじょうぶ。治ってるよ」
校庭でドッジボールやキックベースをしないわずかな男子、いっぱしの大人の女性顔負けに、ああでもない、こうでもない、誰が誰をこんなふうに言っていた、と楽しげに話しあう女子たちと、夏目三津子と礼子はその瞬間、確実に別の世界にいた。教室の後ろに置かれた物入れの上にある、鳥かご。細い柵の間から、鳩が見えた。その前に立つ夏目三津子と礼子の会話など、教室にいるどの生徒も聞いていなかった。
唾を飲みこんだことを、片陵礼子は覚えている。
背中がぶるっと震えたことも。
夏目三津子は礼子の反対も聞かず、鳥かごに手を伸ばし、両手で包むようにそれを掴んだ──。
「片陵さん」
机を挟んでむかいに座る男の声で、礼子はようやく窓の外にむけていた視線を前に戻した。幼きころの、鳩の記憶もゆっくりと消えていった。が、瞳には窓から見える光景がこびりつく。一月の能登半島。日本海。空からは牡丹のような雪が舞い落ち、港を白く覆っていた。人っ子一人存在しないその港津に、真冬の日本海は暴れるように波を寄せては戻していく。
鼠色をしたスチール製の机の上に置かれた湯飲みに礼子は視線を移した。先ほどまで氷点下の世界にいた礼子をいたわるように、すこし軽蔑するように、湯飲みからは湯気が立ち上っていた。
「金沢へ行きたいと言ったのは、わたしなんです」
礼子は九谷焼でも珠洲焼でもなんでもない、百円ショップで売っていそうな茶碗を見つめながら言った。
「はい」
目の前にいる刑事は答えた。珠洲警察署、会議室。机上に置かれた卓上カレンダーが目に入る。平成三十一年、一月。平成最後の一月が終わろうとしている。新たな年号は、なにになるのであろうか。
「……まさか、こんなことになるなんて」
礼子の呟きは窓の外で鳴いた海鳥の声に交じり、消えていった。
蛭間隆也を思い出した。
いつも後ろを歩いていたあの人を。
──平成も終わりますね。
──どんな年に、なるでしょうね。
(つづく)
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