一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
女性判事・片陵礼子(かたおか・れいこ)は、雑誌の取材を受けていた。「早く帰ってもらいたい」と思いながら。
* * *
第一章 ある判事の日常
「もうすこし右、お顔をすこしだけ右にむけてください。はい、そこです」
平成三十年、九月。
東京地方裁判所、刑事第十二部の裁判官室で、三十三歳の片陵礼子はカメラのシャッター音に包まれていた。一眼レフカメラを構えるのは、新進気鋭の写真家、久野忠雄。久野は真剣なまなざしで窓際に立つ礼子を写真に収めていく。礼子の背後にある窓からは、法務省と皇居のお濠が見える。お濠の木々たちの緑とドイツ・ネオバロック様式で建てられた赤レンガ棟を従えるように、礼子は窓際に立たされていた。
「レフ板、外していいや」
久野がファインダー越しに礼子を見つめたまま、アシスタントに指示を送る。早朝の自然光が気に入ったようだ。久野は「撮影時間、十分」の約束を五分も余らせて、短く息をつきカメラを下ろした。
「充分撮れました」
雑誌編集者に久野が笑みを見せた。礼子は表情ひとつ変えずに、まとわされていた黒の法服を脱ぐ。シルク素材に似せた漆黒の法服が、するすると音を立て礼子の躰から離れる。その音が早朝のしずかな裁判官室に響き、神聖さを際立たせた。
「朝早くから、申し訳ありませんでした」
雑誌「AURA」の女性編集者が礼子と裁判所の面々に頭を下げる。礼子は「いえ」と短く返事をし、
「わたしのほうこそ、朝早くからすみません」
と、喜も怒も表さずに、平坦な声色で女性編集者に言葉を投げた。
礼子は黙々と法服を畳む。
「いやあ、緊張しましたよ」
久野は片付けをアシスタントに任せ、女性編集者と最高裁広報課付の岸和田美沙に話しかけた。岸和田美沙は礼子のひとつ年下なので、三十二歳になったはずだ。岸和田は口元に微笑を浮かべながら、久野と話す。あと二時間半後にはふたたびまとう法服をロッカーにしまい、礼子は机にむかう。視界に入った岸和田のリップを見て、「普段よりピンクだな」と礼子は思った。机上に置かれた大量の資料に手を伸ばし、今日分の法廷スケジュールを確認する。今日は新件が入っている。
【十時~十七時 第715法廷 刑事第十二部 新件 傷害致死 被告人柳沢一成 平成三十年合(わ)第152号】
起訴状に目を通す。被告人がじぶんの母親を殺した事件だった。今年のはじめ、夫の貴志がテレビのニュースを見て呟いていたことを思い出す。
「同居の母親、息子が蹴っ飛ばして殺したって。世も末だな。な、礼子」
礼子はニュース、ワイドショーの類は一切見ない。じぶんがその公判を担当することになるかもしれないからだ。被告人に判決をくだす立場として、余計な情報は頭の片隅にも入れたくない。情報は感情に繋がる。感情は正しい判断をもっとも狂わせる。だから礼子は、徹底的にそれを排除する。
その日も台所で夫の問いかけを聞きながら、礼子は晩ご飯の支度、とんかつに添えるキャベツの千切りに没頭した。だから本当は、夫は妻に話しかけているのだが、結果礼子は答えないので、必然、“夫が呟いた”ことになる。弁護士をしている貴志はこういう時の妻の対応には慣れていて、すぐに黙ってニュースを見つづけていたことを、礼子は頭の片隅で思い出した。
「いや、本当に綺麗だった」
久野の声が聞こえる。
「何百人も女優を撮ってきたけど、いや──あの人は綺麗だ」
雑誌の女性編集者が同調するように、「ほんとに、ほんとに」とわめいている。みなの視線がじぶんに来ていることに気がつきながら、礼子は「一刻も早く裁判官室から出ていってくれないかな」と冷ややかに起訴状を読む。
「片陵さんは」
時間指定のある撮影がぶじに終わったからか、手ごたえがあったからか、久野はリラックスした表情で礼子に声をかけた。
「はい」
煩わしさを感じながら、「この手の男はすこし話にのってあげたほうが、より早く退散するだろう」と思い、礼子は起訴状から久野へと視線を移した。
「片陵さん──あ、気軽に名前で呼んじゃいけないですね。判事は、なんで裁判官になろうと思ったんですか?」
この男にどんな才能があるかは知らないが、さぞかし女性にもてるのだろう。初対面の女に臆することなく、いつもの癖なのか、それともそれがじぶんに似合う笑い方だと思っているのか、久野は右側の口角だけをすこし上げて笑った。礼子は表情ひとつ変えず、そのまま久野を見つめた。久野が到着する前にインタビューをすませた女性編集者が、礼子の表情を見て慌てて口を開く。
「あの、片陵さん──失礼しました、片陵判事は、東京大学法学部在学中に司法試験にトップの成績で合格。ただの合格ではなくて、トップ合格ですよトップ合格! 全国から集まった、裁判官、検察官、弁護士を志す猛者のなかの頂点の成績ですよ。しかも久野さん、聞いてください。片陵判事が司法試験を受けたのは大学三年生のときなんですけど、受験者数どれくらいいたか知ってます? 四万人にせまる程だったんですって。司法試験に一発合格するだけですごいことなのに、四万人ちかくのなかでトップの成績ですよ。
その後、夢であった裁判官をご希望されて任命され、裁判官になられてからのキャリアもエリート中のエリート。もう、わたしみたいなしがない雑誌編集者の凡人には想像もつかなくて──おまけにこの美貌でしょ? おなじ女として恥ずかしいですよ。いえ、恥ずかしさも感じられないな。劣等感すら生まれない」
女性編集者は興奮した様子で一気にまくし立てた。
最高裁広報課付の岸和田美沙が冷静に補足する。
「しかも片陵判事が司法試験を受けた二〇〇五年は、現行とは違う旧司法試験のみで行われた最後の年だったんです。その年の合格率はわずか三・七一%。新司法試験の導入をはじめた翌年の合格率が四十八・三%。この数字がなにを表すかわかりますか? 遥かに難易度が高い旧司法試験で、判事は約四万人のなかで一番の成績をおさめ合格されたんです」
すげえな、と久野が呟いた。
「わたしが東大法学部で学んでいたときから、片陵判事は伝説みたいな人でした。どの教授に訊いても“あの子は別格だ”って。なかには“あいつの教科書を見てみろ。見つめすぎて穴が開いてる”なんて冗談を言う教授までいて。片陵判事に憧れて法曹界を目指した者はたくさんいると思います。わたしもそのひとりですから」
岸和田はまっすぐな視線で、礼子を見つめた。
礼子は左手に巻いた時計を見る。午前七時四十分。早く帰ってもらいたい。
「もちろん死ぬ思いで勉強しましたから。詳しくは編集者さんにお話ししてありますので」
礼子は凜とした背筋で立ち上がり、久野を見た。
「あ、すいません。お忙しいところ」
「いえ」
また右側の口角だけを上げて微笑み、久野は握手を求めた。形式上の微笑だけを浮かべ、礼子もそれを返す。
「またお会いしたいけど、女優とはわけが違うしな」
久野の言葉に女性編集者とアシスタントが笑う。
「会えるとなると、ぼくがなにかで裁判にかけられたときになりそうなので、その美しさは胸に秘めて、なるべく忘れるようにします」
「ぜひ裁判になどならぬよう、お気をつけください」
正しい道を。と礼子が言葉をつけ加えると、みなが笑った。じぶんの言葉で場が和めば、この面々は帰っていくだろうという礼子の打算だった。礼子の読み通り、一同は岸和田だけを残し裁判官室を去っていった。
礼子はふうと息をつき、左手を右肩の上に置く。肩を上げると、ぱきっと音が鳴った。
「予定より十分オーバーしてしまって」
岸和田美沙が礼子の机の前に立ち、頭を下げた。礼子は思わず、声を漏らし笑った。笑うといっても、とてもちいさな笑い声だったが。
「なんでしょう?」
「そんな、直立不動はやめて」
「え?」
「軍隊じゃないんだから」
礼子は弛緩している箇所がないほどに緊張している岸和田の躰を指さした。岸和田は慌てて、太腿の横に密着させたじぶんの両手のひらを、恥ずかしそうに前に持ってきた。
「片陵判事は、憧れなもので」
彼女は女子校育ちだったな、と礼子は思い出す。礼子は小中の公立学校、都立高校とともに男女共学だったので、この手の女性への対処が得意ではない。男が排除された世界で、特定の女子に憧れる感覚があることは知っている。が、憧れ、などという感覚を元来持ち合わせない礼子にとっては、岸和田のようなタイプはすこし苦手だった。
「あんなに、言わなくてもいいから」
「え、わたしなにか失礼なことを申しましたか」
「編集者さんがカメラマンに話したあと、難易度が高い旧司法試験でとか、教授がその、わたしのことをこう言っていた、とか」
「あれは──」
腹が立ったんです。と岸和田は言った。
「撮影が終わったら急にリラックスしたというか、距離が近くなったというか、久野ってカメラマンは判事に質問するし、編集者もべらべら喋るし、その──馴れ馴れしいなと。そんな簡単に話せる相手ではないんだぞと思ってしまって」
覚悟はしていたから大丈夫よ、と礼子は返した。今年の春、赴任先の岡山地家裁からふたたびこの東京地裁へ呼び戻されてから、この手の取材が増えた。
先月も最高裁判所事務総局が発行する広報誌、「司法の空」の取材があった。しかも礼子は表紙も飾らされた。普段は裁判所の外観、法廷、霞が関に咲く花、木々などの写真が表紙を飾るなか、人物が表紙というのは異例だった。いや、異例中の異例。女性判事が表紙を飾るなど長い法曹界の歴史のなかで初めてのことだった。が、裁判官となってから二〇一八年で満十年を迎え、特例判事補からはれて判事となったばかりの礼子が表紙を飾ることに、異を唱える法曹関係者はいない。
礼子は東大法学部の全課程を「九十八・六」の成績で終えた。平均点が九十八・六というのは、「ほぼミスがない」を意味する。当然全科目で「優」を取得し表彰され、首席で卒業した。礼子が残した成績は、いまもなお東大法学部で破られていない記録だった。
「十年にひとりの逸材」
礼子はこう呼ばれた。
霞が関の誰もが行政官への道を進むのだろうと思っていたが、礼子はそのまま司法の道を選んだ。「当然来てくれる」と踏んでいた各省庁の役人たちは、当時落胆の色を隠さなかったという。特に財務官僚や経産官僚たちの落ち込みはおおきく、「大袈裟でなく、日本の再生が数年遅れる」と発言していた者までいたという。
こうして司法の道を選んだ礼子は、卒業後に一年を要する司法修習生もなんなく務め、二回試験と呼ばれる司法修習生考試も同期のなかでトップの成績で合格し、裁判官となった。
「憧れなんです」
岸和田はまたぽつりと、呟いた。
「判事がご経験された広報課付になれたことも身が引き締まる思いで。片陵判事がいつか女性最年少で最高裁判所判事になられたあとは、わたしも──生意気ですが、その後を追うのが夢です」
夢、憧れ。
なんど彼女はこの言葉を使うのだろうと礼子は思う。
「そろそろ、内山くんと小森谷さんが来る時間だから」
礼子が言うと、ふたたび全身を緊張させ礼をし、岸和田は出ていった。ようやく礼子は広い裁判官室でひとりになる。
(つづく)
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