一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
出世に興味のない片陵礼子は、ただただ目の前の裁判に向き合うのが好きだった。
* * *
ふと、岸和田の残影を思う。彼女の言う「最高裁広報課付」は、現代の裁判官のなかで出世コースと呼ばれる。礼子は弱冠二十九歳のときに、広報課付に任命された。岸和田も三十二歳で任命されているのだから、最高裁事務総局人事局から評価されているのだろう。
最高裁広報課付は、その名の通り新聞、テレビをふくめたマスメディアへの対応、発信を管理する部署を意味する。多忙を極めるが新聞社などへのコネクションも構築しやすく、現代の裁判官の憧れのポジションとなっている。いや、語弊があるかもしれない。出世を望む裁判官の理想的なコースなのだ。
すべては国会で裁判員制度が成立してからおおきく変わった。
それまで裁判官の出世コースといえば、民事を担当する裁判官であった。が、裁判員制度が法廷に導入され、「市民に開いているスタンスを取らざるを得なくなった裁判所」は、否が応でも市民に触れなくてはいけなくなった。社会的に地味ともいえる民事裁判より、当然人々の関心がむきやすい刑事裁判に注目が集まり、刑事担当は新たな出世コースとなった。
裁判員制度は、故意の犯罪行為により被害者を死亡させた罪、裁判官が合議審と呼ばれる三人体制で挑む裁判に、市民が参加する制度だ。裁判長、右陪席裁判官、左陪席裁判官とともに、ランダムに選ばれた市民六名が裁判員となり、被告人を裁くのである。小泉純一郎内閣のときに成立したこの制度に裁判所は最後まで反対、抵抗した。が、導入後は変化せざるを得なくなった。
今日の「AURA」の取材もその一環である。
大手新聞社が発刊している「AURA」は、働く女性向けに、ファッション、ライフスタイルなどを提案していく週刊誌だった。今回は「女性判事から見た日本。女性が輝いて働ける時代に」という見出しのもと、礼子のインタビュー記事が載るようだった。礼子の美しさを聞きつけたのか、それとも裁判所の誰かの提案だったのか、ご丁寧に礼子の写真を添えての巻頭八ページの記事になると聞いた。
岸和田美沙を思う。
彼女は、出世したいのだろう。
礼子は、ほとほと興味がなかった。
取材の最中、礼子は二度嘘をついた。
「どうして、司法修習生考試合格後、裁判官、検察官、弁護士と希望が出せるなか、裁判官をご希望されたのですか?」との問いに、
礼子は、夢でしたから。と答えた。
「司法試験という最難関の試験に合格するためになされていた勉強法は?」
という問いには端的に、かつ具体的な勉強方法を述べた。女性が働き、また子育てもする時代に、実に参考になる意見だと編集者は歓喜した。
が、そんな勉強方法は一度もしたことがない。
はっきり言えば岸和田が言った、「あいつの教科書を見てみろ。見つめすぎて穴が開いてる」という教授の印象も、真実は違う。
ただ、時が過ぎるのを待っていただけだ。
極力、人から関わりを持たれないように。
穴が開くほど見つめなくとも、いちど読めば礼子にはすぐ理解できた。
それは幼いころ、自覚した。
他の人間がなんども読み返し、教師に質問する事柄さえ、礼子には一瞬で理解できた。頭がいいんだな、と思った。
が、それをひけらかすと、学校というちいさな社会のなかで損をすることにも気づいていた。だから礼子は、勉強しているふりをした。いまではそれを、「死ぬ思いで勉強した」という一言で、周りが安堵することも知っている。
「おはようございます」
刑事第十二部の裁判官室に、内山瑛人判事補がやってくる。礼子はおはようと短く返し、翌日分の起訴状を読みはじめる。内山もそれ以上言葉を発さず、すぐに自席につき判決文を書きはじめた。部の長である小森谷徹は、いつものように開廷時間ぎりぎりにやってくるだろう。この時間の静寂が、礼子は好きだった。
内山判事補が部屋を出ていく音がした。ということは開廷三十分前だろう。内山は開廷一時間前になると必ずのど飴をなめはじめる。ゆっくりと口中でそれをなめる。最後はいままで丁寧になめていたことを放棄するように、急にがじりと噛み砕く。それが、部屋を出る二分前の合図。それから法廷に持ち込む資料を手に立ち上がる。数十歩歩いて、裁判官室のドアを開け出ていく。
それが開廷の三十分前。決まってそうだ。このルーチンが崩れることはない。礼子が部屋の壁時計を見るときっかり、午前九時半を指していた。
部の長である小森谷は、先ほど疾風のようにやってきて疾風のように出ていった。「暑いね暑いね」などと言いながら出勤してくると小森谷はそのままの勢いで法服を羽織る。自席の前に辿り着くとなにやら独り言を呟きながら机上にある起訴状をぱらぱらとめくり、荷を取りそのまま部屋を出ていく。だいたい開廷の四十分前に来て、裁判官室に二分も滞在することなく出ていく。その間、いちども自席に座らない。
法廷に行くまで彼らがどうしているかというと、それぞれに違うようだ。神経質な内山は飴を噛み砕いたままの足取りで法廷に繋がっている小部屋へむかう。そこに待機している市民六人の裁判員に、公判の審理のポイントを再確認するためにだ。
裁判長を務める小森谷はどこにいるか知らない。喫煙所で煙草をふかしているのを見たこともあれば、廊下の壁に手を当て、入念に自らのアキレス腱を伸ばしているのを見たこともある。要はルーチンを決めないのがルーチンのようだ。
礼子は疾風のように去っていった小森谷と、がじりと飴を噛んで出ていった内山を見送ったあと、部屋にひとり残る。東京地方裁判所の刑事部は、十四ほどの部がある。そのそれぞれに三人から四人の裁判官が配置され、いわばひとつのチームのようになっている。が、一般の企業と異なる点は、裁判官には上司と部下の関係が存在しない。
憲法により、「裁判官独立の原則」が定められているからだ。
よって刑事第十二部のなかでもっとも裁判官の経験が長く、合議審の際に裁判長を務める「部の長」である小森谷も、礼子の上司ではない。また裁判官に任命されて五年未満の内山は判事補の立場であるが、満十年を迎え“判事”となった礼子の部下でもない。
それぞれが独立した裁判官。その彼らがひとつの部に存在しているだけである。
だから内山が飴玉をがじりと齧って決まった時間に出ていこうが、小森谷が壁に手を当てアキレス腱を伸ばしていようが自由だ。出勤時間も定められていない。乱暴に言えば、開廷時間に間に合えばいい。が、これは裁判官に与えられた唯一の自由とも言える。
礼子は、三人でいるには広すぎる裁判官室のなか、ひとり座る。
五秒ほど目を閉じ、瞼を開く。
美しい唇を、力感なく結ぶ。
しずかに、鼻だけで息をする。
壁時計のかち、かちという針の音も聞こえなくなると、きいんという金属音だけが礼子の耳に入りはじめる。
すると礼子は立ち上がる。裁判官独立の原則そのままの、何物にも染まらない黒い法服を羽織る。そして机上から手控えを取り部屋を出ていく。
裁判官室のドアを開けると書記官室に繋がっている。短い挨拶を交わしそのまま廊下へと出て歩く。エレベーターに乗り、715法廷のある階を目指す。降りる。と、扉がある。開けると、裏廊下と呼ばれる裁判官しか通れぬ道がある。
礼子の履くヒールの音が、こつ、こつと裏廊下の壁に反響する。小部屋に入り、待機している市民六人の裁判員と、すでに到着している内山判事補、小森谷裁判長に頭を下げる。
礼子は一言も口を利かない。やがて小部屋と壁一枚を隔てた法廷の、ドアが開く音がする。ぺた、ぺたと床を歩く音が聞こえる。とても自信のない足取りと礼子は捉えた。
ぺた、ぺたと入廷してきた足音は、一瞬止まった。一秒もないが、確実に止まる。彼を前後から挟む刑務官に促されたのか、またぺたぺたと床を捕まえては離れる便所サンダルの音が聞こえる。やがて数十歩進むと、足音は消え、代わりにかちゃかちゃと金属音が聞こえる。腰縄を巻かれ、へその前で組まされた手首から、手錠が外されたのだ。被告人が弁護側の椅子に座った音がした。とてもしずかに座ったようだ。
「あ、すみません。携帯電話の音、バイブも切ってくださいね」と、法廷のなかにいる係員の声が聞こえた。傍聴席に座る誰かの携帯電話が震えたのだろう。内山判事補がとてもちいさく舌打ちをした音が礼子には聞こえた。やがて準備が整い、小森谷裁判長が小部屋にいる面々に優しく「行きましょう」と声をかける。
部屋と法廷を繋ぐドアノブを回すと、小森谷を先頭に裁判員三名、礼子、内山、残りの裁判員三名の順に入廷した。
「起立をお願いします」
係員の号令のもと、弁護側に座る被告人、弁護士一名、刑務官二名、検察側に座る男の検察官二名、そして傍聴席に座る四十名ほどの人間が一斉に立ち上がる。礼子たちが法壇の所定の位置に立ち正面を見据えると、一同は短く頭を下げる。小森谷裁判長を中心に、傍聴席から見てその左側に礼子、右側に内山が立ち、礼子と内山それぞれの横に、市民から選ばれた裁判員が三名ずつ立っている。礼子たちも頭を下げるとすぐに座る。午前十時一分、被告人柳沢一成の第一回公判が開始される。
小森谷裁判長は柔らかな微笑みを一瞬浮かべるや否や、声を発す。
「それでははじめます。被告人は証言台に立ってください」
鼠色の便所サンダルを履いた、柳沢一成がおどおどと弁護士を見る。弁護人は目すら合わせず頷く。被告人はいちど唾を飲み込むと、ぺた、ぺたと足音を立てて中央にある証言台にむかった。
(つづく)
二人の嘘
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