一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
罪を犯した男を見ながら、片陵礼子は冷ややかなまでに冷静だった。
* * *
小森谷は被告人が証言台に立ったことを確認すると、また一瞬柔らかな表情を見せる。これは小森谷の儀礼に近い。「被告人はこれから公判を受ける身であって、この法廷では公平である」という信念なのだろうと礼子は理解している。小森谷が被告人に語りかける。
「お名前はなんといいますか?」
「──柳沢一成」
「生年月日は」
「昭和四十八年九月二十一日です」
「起訴状はもらっていますか?」
「は、はい」
「本籍は大塚で間違いない?」
「はい」
「起訴状には無職と書いてありますが、これも間違いない」
「はい。無職です」
「ではいまからあなたの傷害致死罪の審理をはじめます」
この時には、いつのまにか小森谷の微笑は消えている。
消えると同時に、若いほうの検察官が立ち上がり起訴状を読み上げる。
「被告人柳沢一成は平成三十年二月九日、自宅である東京都文京区大塚三の二の──で同居する母親柳沢ミエ八十五歳の下肢を複数回蹴り上げ、死に至らしめております。罪状は傷害致死です」
思い出したのか、改めて聞くじぶんの行動を後悔しているのか、柳沢一成は証言台に立ったままうつむき目を閉じた。
礼子は小森谷の呼吸を左肩で感じながら、ノートを広げる。手控え、と呼ばれるものだ。
裁判官は公判の際、証拠となる紙類にメモを書き込むことができない。よって、各々のノートを必ず持参する。このノートに被告人の印象から検察官、弁護士のポイントとなる発言、疑問点などを書き込んでいく。
綺麗な文字で書く者もいれば、速記に近く本人にしか読めぬ文字で書き込む者もいる。礼子は間違いなく後者のタイプだ。
──無職。うつむく。毛玉だらけのジャージ。年季。グレー
礼子は柳沢一成を見つめたまま右手を動かし、手控えに記す。
──痩身。薄毛長髪。髪後ろ結ぶ。手入れ無し
礼子が手控えに書き込むのを真似るように、傍聴席でも何人かがノートにペンを走らせる。記者らしき人間は二名で、その他にペンを走らせる者は、法学部在学中であろう男女の学生が数名、そして中年の男ふたり、初老の男ひとり、若い女が席を離れて二名──。傍聴席に点在する彼らは裁判ウォッチャーと呼ばれる人種だ。日々なにが目的なのか楽しいのか知らぬが、裁判所に足しげく通う。そして傍聴席に座り、公判を見守る。
この手の人種を毛嫌いする裁判官も多いが、礼子にとっては物と一緒だった。無機質な空間のなかに置かれたオブジェ。花を挿していない花瓶のような存在だ。唯一癇に障るのが、礼子を追いかける裁判ウォッチャーたちがいることだ。今日も三名来ている。彼らはほぼ毎回、礼子が合議審の際も単独審の際も傍聴席に座る。メモを取るふりをしながら、ねっとりと礼子を視姦する。
一度廊下で、「片陵判事の法服、脱がせてみたいよな」「気が強そうだし」と彼らが立ち話をして笑っているのを礼子は聞いた。その時はさすがに、一センチの嫌悪感を覚えた。
小森谷裁判長が柳沢一成を見つめる。
「いまから審理をはじめますが、被告人には黙秘権があります。答えたくない質問には答えなくても大丈夫。しかし有利不利とも証拠となるので、注意して発言してください。で、起訴状に間違いはありますか?」
──ないです。と柳沢一成は力なく答えた。
「弁護人の意見はどうですか?」
弁護人も「被告人と同様です」と簡潔に返事をする。
あまりの速さに驚いたのか、礼子の隣に座る六十代の女性裁判員が、困惑した様子で紙をめくっている。礼子は紙面をボールペンで指し「ここです」と告げた。つづいて検察側の冒頭陳述に移る。
「──被告人は同居する母親とふたり暮らしでありました。被害者の実母柳沢ミエさんは平成十六年に不眠症の症状を被告人に訴え、被告人同伴のもと同一月十七日に都立第二大塚病院の心療内科を受診しています。
その際に担当した医師から軽い認知症の症状が見られると診断されたにもかかわらず、死に至らしめた平成三十年二月九日までに同病院もふくめ他の医療機関にも実母を連れていった形跡は見られません。被告人は実母が軽い認知症の症状があると診断されたのとほぼ同時期、平成十六年五月に勤めていた食パン製造工場を退社し、被害者を死に至らしめた現在まで無職のまま実家に暮らしております。
平成三十年二月九日午前二時三十分ごろ、居間にいた被告人は冷蔵庫のなかを被害者が物色した形跡に気がつき隣接する和室へむかうと、実母が布団の上で大便を漏らしていたことに腹を立て、怒鳴り、母親の腰部分、右太腿をじぶんの右足で数回にわたり蹴り上げ放置、同午前四時ごろ様子を見にいくと母親が息をしていないことに気づき、午前十時三分、自ら一一〇番に『母親が亡くなっています』と通報。現場に到着した大塚警察署の警察官に逮捕されております。
提出した証拠番号六番に記載してありますが、直接的死因は骨盤骨折によるショック死となっております」
本人のプロフィールと事件当日の様子を検察官が語る途中で、柳沢一成はうつむいていた顔を上げ、黙って聞いていた。その顔は青ざめていった。
──精神。異常有り無し。母認知症H30。通院履歴
──AM4→10
礼子は冷ややかなまでに冷静に、柳沢の顔を見つめたまま手控えに記す。
検察側からはその他の証拠として、夫が死亡してからの遺族年金を、被害者である柳沢ミエは年間百四十万円受給しており、死亡時の預金残高も四百万円強あったなどと陳述した。
やがて弁護側の冒頭陳述に移る。
三十代の若手ともいえる弁護人が起立し、被告人の生い立ちを端的に述べる。柳沢一成は定時制高校を卒業後、都内にある食パン製造工場に就職したが、人間関係がうまくいかずに退職。その後はじぶんのメンタルへの不安もあり再就職はできなかった。
実父は五年前に他界し、ひとり息子である被告人は、死に至らしめたとはいえ、平成十六年から十四年間、母親に食事を作りつづけ献身的に年老いた母親の面倒を見ながら同居していた──。ありふれてはいけないが、現代において実にありふれた事件だった。弁護人もとくに熱を見せるわけでもなく、淡々と時は流れていく。冒頭陳述に飽きはじめてきた傍聴人の目をふたたび覚ますように、弁護人は次の言葉を述べる。
「被告人が拘置所のなかで書いた、殺してしまった亡き母への手紙を読ませていただきます」
おお、と裁判ウォッチャーのひとりが呟く。と、一斉にその手の人種が顔を上げた。彼らのなかには、被害者への手紙の朗読を聞くために傍聴に通う者もいる。礼子もふくめ裁判官は努めて冷静だが、市民六人の裁判員にとっては、“裁く”うえで重要な視点ともなりえる。礼子の隣に座る裁判員三名が、尻をずらし座りなおす音が聞こえた。
「母さん。大切な母さん。ぼくは、なんてことをしてしまったのでしょう。いまも冷たくてちいさな拘置所のなかで、毎日毎日そのことばかり考えています。母さん、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい。あの日に戻れるのであれば、ぼくはぼくの躰を羽交い締めにします。そんなことを、してはいけないと。大切な母さんを傷つけてはいけないと。
でも、あの日のぼくは、ぼくにもわからぬほど怒っていました。長い時間母さんと暮らし、母さんの頭と躰が衰えていくことが、受け止められなかった、悲しくてしかたがなかった、怖くてしかたがなかった。どうしてあんなことをしたのか、たぶんぼくが、無知だったからだと思います。
母さん、ほんとうにごめんなさい。痛かったですよね? 怖かったですよね? じぶんが産んだ愛する子供にあんなことをされて、悲しかったですよね? 毎日、母さんの顔を思い出しながら、後悔しています。ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい、母さん」
手紙の朗読は終わった。弁護人は芝居心などひとつも見せず、その手紙を感情なく読み上げる。市民六人の裁判員は、それぞれの想いで朗読を聞いていたようだ。が、右陪席裁判官である礼子、左陪席裁判官の内山、小森谷裁判長の受け止め方は違う。
弁護人のこの法廷での闘い方を理解するのだ。
方向性、と言ってもいい。
これは現代における裁判官にはとても重要なことだ。“無駄な時間”が省ける。柳沢一成の弁護人は罪自体は認めたうえで争わず、情状酌量の余地ありと訴え、被告人に「執行猶予」がつくことを望んでいる。これは検察側としても重要で、闘い方の指針となる。
「執行猶予をつけてくれ」
と希望する弁護側と、
「執行猶予は絶対につけない」
という検察側の闘いだ。裁判官は感情に流されず、「証拠」を判断し、量刑を決めるだけだ。
午前十一時四十分、開廷してから一時間半を超えたところで、
「十三時十五分まで休廷とします」
と、ふたたび柔らかな表情を見せ、小森谷裁判長は告げた。
(つづく)
二人の嘘
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