一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
一流大学の法学部を卒業しみごと司法試験に合格した男と、人間関係が苦手で定時制高校しか出ていない被告人が法廷で対峙する。
* * *
十三時十五分、公判再開。
柳沢一成が頼りなげに証言台に立ち、弁護人の被告人質問から行われた。相変わらず熱量を感じさせぬ淡々とした口調で弁護人の質問はつづき、柳沢一成は答えた。やがて、唯一の武器なのか、若き弁護人は面倒くさそうに、鼻から息をひとつ吐いて、柳沢を見つめた。
「五年前の平成二十五年に、お父さんが亡くなられていますね」
「はい」
「どのような亡くなり方でしたか?」
柳沢一成は口をなんどか開けては閉じた。裁判員も傍聴席に座る人間も彼に注目する。
「──自死です」
「自死というのは、自殺ですか?」
「はい」
「どのように?」
「──自宅の物置部屋で、首を吊っていました」
「あなたが発見した?」
「はい」
「なぜお父さんは自殺したんですか?」
「わかりません」
「なんでわからないの? ずっと一緒に住んでいたんですよね」
「あまり、話す人ではなかったので。たぶん、仕事の悩みだと思います」
もう弁護人に手数はないな、と礼子は思う。これが最初で最後の、被告人の情状酌量に値するわずかな武器だったのだろう。「自死」と聞いて、市民六人の裁判員はそれなりの反応を見せた。が、当の弁護人もこれが武器になるとは思ってもおらず、その顔は「一刻も早く敗戦を言い渡してもらっていいですよ」と言わんばかりの、やる気のない表情だった。
検察側も当然弁護人がこの件を言うことは想定済みで、なんの感情も見せなかった。ただ、ひとり証言台に立つ柳沢一成だけが、暗い表情で茶色い証言台のテーブルを見つめていた。
十三時五十分から十五分間、休憩を入れる。
再開。
小森谷裁判長が、また微笑を浮かべ検察側に視線を送る。
「それでは、検察官からの被告人質問をどうぞ」
ふたりのうち、若手の検察官が椅子から腰を上げる。
一流大学の法学部を卒業しみごと司法試験に合格した男と、人間関係が苦手で定時制高校しか出ていない男が法廷で対峙する。
「ええ、平成十六年にお母さまは軽度の認知症であると診断されたんですよね」
「──は、はい」
「供述によるとその後一回も受診されなかったとあるんだけども、病院からは通院を勧められなかったですか?」
「えっと、あの、」
「あ、質問には短く答えてください」
「──す、勧められました」
「そうですよね。なのになぜあなたは、その後病院に通わせなかったんですか」
「こ、怖くて」
「怖い」
「母が認知症って認めるのが、怖くて」
「そうですか。質問を変えます。調べによると、お母さまが認知症と診断されてから、あなたが食事を用意していたとありますが、これは間違いないですか?」
「は、はい」
「ずっとですか?」
「ず、ずっと?」
「お父さまは五年前に他界されているんですよね? ではお父さまが生きている時は、誰がお母さまの食事を作っていたんですか?」
柳沢一成は瞼を痙攣させるようにぱちぱちとする。弁護人は助けることも視線を合わすこともしない。ただ前だけを見ている。
「誰が作っていたんですか?」
「ち……父です」
「どのような物を?」
「野菜炒めとか……魚とか」
「一日何回食事していたんでしょう」
「たぶん……何回か」
「たぶん? なんでわからないんですか? 一緒に住んでいるのに」
「あまり、部屋から出ないので」
「質問を変えます。ではお父さまが亡くなってからあなたが食事を世話するようになったんですね」
「はい」
「一日何食、お母さまに食事を与えていましたか?」
柳沢が黙る。しん、とした空気が法廷に漂う。
「何回?」
「──一回」
「一日に一回? もういちど言ってもらえます? 聞き取りづらかったので」
「い、一回です。一日に……一回」
検察官が法壇に視線を移す。
「提出した証拠番号九番をご覧ください」
礼子もふくめ法壇に座る一同が紙をめくる音がする。
横に座る六十代の主婦が、顔をしかめたのが礼子にはわかった。検察官はふたたび被告人に視線を戻す。
「警察の取り調べで、あなたは亡くなられたときのお母さまの体重を聞いていますね? 答えてください」
柳沢は黙った。
「答えてください。亡くなったときのお母さまの体重は何キロ?」
「二十七キロ──です」
傍聴席のあちこちから短いため息が聞こえる。検察官はあえて小森谷裁判長と礼子、内山だけを見る。市民六人の裁判員への訴えは、証拠番号九番の写真で充分であろうと悟ったように。証拠番号九番は死亡時の被害者の写真だった。コンビニのレジ袋や使用済みのオムツが散乱する部屋の布団の上で、被害者は死んでいる。その姿はまるで即身仏のようであった。痩せ細った下半身はオムツしか身に着けておらず、股の間からは大便が漏れ、乾涸びた状態で太腿に付着している。もはや男性か女性か区別がつかぬほど、筋しか見えぬ躰となっていた。
──Age80~90 W44~46
礼子が過去に見聞した女性の年齢別平均体重を脳内から取り出し、手控えに記す。と、その気配を見逃さず、検察官の視線は礼子だけにむけられた。
「被害者の年齢、身長から考察すると平均体重は四十四キロから四十六キロと考えられます。死亡時の柳沢ミエの体重は二十七㎏と、平均より二十キロほど下回っております。ちなみに被害者が認知症の疑いありと診断された際の測定では、体重は五十八キロです。証拠番号十一番に記載されておりますので、後ほどご確認ください。被告人に質問です」
柳沢は力なく頷く。
「なぜ一日に一回しか食事を与えなかったのですか」
「仕事を辞めてから、ぼくがあまりお腹が減らなくなったので、母にも合わせてもらいました」
「何時に食べるんですか」
柳沢は答えられない。
「何時にご飯を与えるんですか」
「夜中です……だいたい、二時半とか、三時とか」
「冷蔵庫に、『あけるな』と書かれた紙が貼ってありましたね。あれはあなたが?」
「はい」
「なぜあんなことを書いて貼ったのですか?」
「あれは! 母が冷蔵庫を勝手に開けては発泡酒を取って呑むことが頻繁にあったんです! 足が弱っているのに、そういう時だけはものすごい力で立ち上がって酒を取るんです! 痴呆になる前も、お酒を呑むと父と喧嘩することがあったから! 母がお酒を呑むことは、健康にもよくないと思って!」
初めてだろう。柳沢一成は検察官の目を見ておおきな声で反論した。が、無駄だ。
「それは真夜中、一日に一回しか食事を与えないからお腹が減って冷蔵庫を開けるのではないですか? 現に発泡酒以外にも残った総菜などを食べて、あなたが怒ったこともあったんですよね?」
「──はい。でも」
「暴力を振るったこともありますね」
「いや──」
「はい、か、いいえで答えてください」
「はい」
「発泡酒はあなたが呑むための物ですか?」
「はい」
「平均して一日にどれくらい呑まれるんですか?」
「二本──くらい」
「他にはどんなお酒を呑みますか?」
「缶チューハイを──何本か」
「だいたい何本ですか?」
「二、三本です」
「どうして呑むんですか?」
「眠れないので」
「誰のお金でお酒を買っているんですか? 約十五年間無職なんですよね」
「家の──」
「すみません。もうすこしおおきな声で言ってください」
「家の──お金です。父が生きている時は母からもらっていました。父が亡くなってからは、母のカードをわたしが持っていました」
「質問を変えます。お風呂に入れたことがありますか?」
「はい?」
「お父さまがお亡くなりになってから、お母さんをお風呂に入れたことがありましたか? シャワーもふくみます。いかがですか?」
「入るように、なんどもなんども頼みました。でも、『嫌だ、嫌だ』と言って」
「入れたことがあるのかないのかだけ答えてください。ありますか?」
「──半年に、いちどくらい」
「五年間、半年にいちどずつしか入浴させていないのですね。わかりました」
小森谷裁判長が十五分間の休廷を告げる。
(つづく)
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