一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
裁判は、スピーディに、そしてシステマティックに進んでいった。
* * *
十五時十五分、再開。
証言台に立つ柳沢一成は疲れ切っている。最近の若者が着用する洒落たジャージではない、十代の時に母親に買ってもらった物なのか、バッグス・バニーの燥いだウサギの顔がプリントされたジャージを着る被告人は、715法廷のなかで確実に孤独だった。
恋愛も経験したことがないだろう、と礼子は被告人を見ながら思う。
が、被告人柳沢一成には、もう時間がない。
そのことを柳沢自身がどれくらい理解しているのか、礼子はすこし思いを巡らす。疲れ切っている場合ではないのだ。今日の第一回公判は、十七時までを予定している。が、それはあくまで余白を取っているだけで、現実にはあと数十分で終えることとなる。
第二回公判は、もっと時間が少なくなる。約二時間の審理時間を取るが、現実は一時間弱で終える。第二回公判は検察側の論告からはじまり求刑が言い渡されると、弁護人が申し訳程度の弁論をするだけだ。今日のように休廷を挟むこともない。
それを終えてしまえば、第三回公判、いわゆる「判決」の日を迎える。被告人に無罪なのか有罪なのか、有罪であれば裁判所から懲役の年数が告げられる。柳沢一成のように「じぶんの罪は認めている」──いわば「自白事件」と呼ばれる裁判に無罪はありえないので、判決は一時間を予定するが、実は数分で終わる。
要は自白事件の被告人である柳沢一成の人生の岐路までの時間は、今日の残り数十分と、第二回公判の最後、裁判長から意見を求められたあとの数分しか残されていないのである。
あの弁護人も被告人にその説明はしたであろう。が、それは総じて早口かつ小声で相手に伝える意思のない話し方だ。公判を控える被告人にとって、どれほど頭に入るであろう。
まして柳沢一成のように人間関係がうまく築けないタイプにとっては、見知らぬ呪文を唱えられているだけだろう。それに──被告人が最後に頼るべき裁判官は、被告人が思う裁判官ではない。コンピューターよりも精密で、AIよりも心通えぬ物体が、黒い法服をまとい法壇から裁かれる者を見下ろしているだけなのだ──。
疲れている場合ではない──礼子の頭に一瞬だけ、良心のようなものがよぎった。
質問する検察官が若手からベテランに替わる。
「拘置所であなたがお母さんに書いた手紙の一文に、『ぼくが無知だったからだと思う』とありましたね。これはどういうことなのですか?」
「──調べなかった、ということです」
「なにを、どのように調べなかったんですか?」
「認知症について、ネットで調べなかったんです。だから──母の痴呆が進んでいってしまったのだと思います」
「自治体とか、いまは電話だけでも頼れるところはたくさんありますが、そういうのは知らなかった?」
「知っていました」
「なのに、なんで電話一本、しなかったのですか?」
「人に迷惑をかけて生きてはいけないと、そう両親から教わって生きてきたからです」
柳沢一成に嘘を言っている気配はない。本心で、そう思っていたのだ。
「質問を変えますね。お母さんには、真夜中と言っていたけども、毎日どこで食事させていたの?」
「布団の敷いてある、和室です」
「なんで?」
「動かそうにも、たいへんなんです。母の脇の下にこう──腕を入れて、立たせても足はうまく動かないし──最初はそれでも食卓に連れていってました。でもだんだん足が動かなくなって」
「和室にはたくさんの使用済みのオムツが転がってますね。片付けようとは思わなかった?」
「最初は片付けていました。でも──ほんとうにきりがなくて──」
「じゃあ、便の匂いがする場所で母親にご飯を食べさせていたのね。あなたはどこで食事をとっていたの?」
「じぶんの部屋です」
「なんでですか? お母さまは和室なのに」
「──さいからです」
「もう一度言ってください」
「──臭いからです。和室は、臭いから」
「臭いですよね。わたしもそう思います。あとひとつ。お母さまが亡くなっているとあなたが気づいてから一一〇番に電話するまで、六時間経過していますよね。えっと……暴行を加えてから様子を見にいったのが午前四時ごろ、通報が午前十時三分ですから、六時間ほど空いています。この間なにをしていたんですか?」
「心臓マッサージをしてみたり、仏壇の父に祈ってみたり、あとはずっと、母さんの顔を見て──謝っていました」
四十五歳という実年齢よりも老け込んでいて、なのに表情はどこか子供じみている柳沢の目から、涙がこぼれた。
「以上です」
検察官が席に座る。「弁護人、なにかありますか」と小森谷裁判長が言うと、「なにもありません」と弁護人は熱も冷もなく答えた。
市民六人の裁判員が、柳沢一成に質問した。「なぜあなたは、お酒を呑むのか」とか、「なぜお母さんの認知症について調べるのが怖かったのか」などだ。それが終わると、左陪席裁判官、右陪席裁判官、裁判長の順に質問していく。左陪席裁判官の内山が、う、うんと喉を鳴らした。礼子は美しい顔をすこし左に曲げ、内山を見る。わかっていればいいが──礼子は内山を見ながら思った。
「ええ、裁判官の内山から質問です。最初被害者のお母さんを蹴った時、右膝、左膝、どちらから蹴りましたか?」
「たぶん……右膝だと思います」
「わかりました。あとね、公訴事実にはお母さんの両膝を踏みつけたとあるんだけども、これは間違いない? あと、お母さんが死亡時に頭も怪我していたんですよね。これ、なんでかわかる?」
「わかりません。えっと──」
無意味な質問が多い。礼子は鼻から一息し、ボールペンを掴んだ。
かち、かち。
二度、ボールペンのノック部分を押す。内山は考え込む被告人の顔をじっと見ていて気がつかない。礼子は苛立ち、もう一度ボールペンのノックを二度鳴らした。かちかちとボールペンが内山に合図を鳴らすと、法廷の壁に反響した音に、ようやく内山が気づいた。内山は横目で礼子を見ると、目を伏せ詫びた。神経質さと細やかさは違うと礼子は常々思っている。神経質な内山は細部を埋めたがる癖があり、どうしても無駄な質問が多くなる。
礼子はそのため、「わたしが二度ボールペンのノックを鳴らしたら、質問を止めること」と内山に言ってある。裁判官独立の原則で、上司も部下もない関係性ではあるが、公判を正しく敏速に進めるためには間違った指導ではないと、礼子は自負していた。
質問が礼子に渡る。
「裁判官の片陵から質問です。被害者には四百万ほどの貯金がありますが、今後どうするつもりですか?」
「か、考えてないです」
「わかりました。供述によると、被害者に暴行を加えたのは今回が最初ではないとあります。これはどれくらいの回数、どのような暴力をふるったのですか?」
「二度、くらいです。足がうまく動かないのに、這って冷蔵庫まで行って、お酒を取ることがあったんです。その時に、二度くらい」
「どのような暴力?」
「今回とおなじです。足を……蹴りました」
「どうして暴力をふるってしまうのですか?」
「……かっと、なって」
「わかりました。わたくしからは以上です」
簡潔に要点だけを引き出し、礼子は小森谷へパスを渡す。
「では、裁判長の小森谷から質問です──」
小森谷は礼子の質問を受け、「自治体に相談したら、あなたが暴行を加えたことが発覚するのでは、と思ったか?」「蹴った時、被害者は悲鳴を上げていたか?」などを短く聞き、最後の質問に移る。
「被害者に暴行を加えてから、約二時間ほど、あなたはリビングにいましたよね? 二時間って、結構長いと思うんです。その間、被害者の──お母さんの様子は気にならなかった?」
優しく、小森谷が問うた。柳沢はしばし黙り、心の底にある記憶を呼び起こそうとするような表情を浮かべた。やがて、口を開いた。
「正直に言うと、腹が立っていたので、放っておこうと思ったのかもしれません」
この答えを最後に、十六時零分、予定時間を一時間余らせて第一回公判は終わった。
翌日の第二回公判で検察側は、「懲役八年に処すべき」と求刑した。
理由は一に、被告人は被害者が言うことを聞かないことに腹を立て、死亡させた。
二に、被害者を適切な環境で生活させず死に至らしめた。
三に、平成十六年に被害者に認知症の症状が見られ面倒を見ていたというが、被告人は日中ほぼ自室にいたため、被害者が被告人の手を煩わせたことは少ない。被害者を入浴させるのは半年に一回、被害者がいた和室もいつ使用したかわからぬオムツが転がり不衛生である。
四に、被害者が冷蔵庫を開けたことに腹を立てた、との供述もあるが、被害者は一日に一度しか食事を与えられておらず空腹であった。母の健康を考えてとの被告人の意見もあったが、であればアルコール類を冷蔵庫に入れなければいいだけの話であって、被害者の健康を考えて、との意見と矛盾する。また、被告人自身も被害者が空腹により衰弱していくことは認識していた。
五に、病院や介護施設に相談することもできた。その資力も充分にあった。にもかかわらず無努力のまま被告人は時を過ごした。
以上により検察側は、「酌量の余地なし」と判断した。
「懲役八年」の求刑理由は、過去三年から二十年の例を見ると、
〇凶器無し
〇被害者が親
〇となると懲役十年がもっとも多く、そこに被告人が、
〇自ら一一〇番に通報したこと
〇反省していること
〇前科がないこと
を考慮しての、懲役八年の求刑であると述べた。
一方、弁護人の弁論はこうであった。被告人には酌むべき事情があった。「父が自殺。その後も献身的に母親を支えた」「一日一食しか与えていないが、そこに悪意はなく、被害者を大切にしていたことは被告の手紙からも読み取れる」「本件は被告人がかっとなったあげくの犯行だが、計画的とは言えない。包丁や鈍器も使っておらず、頭も腹も蹴ってはいない。傷害致死のなかでも悪質性が低い犯行と評価するべき」
やや早口で書面を読み上げると、弁護人は呼吸を整え、「結論として、執行猶予付きの判決とすべき」と述べた。その間、柳沢一成はずっとうつむいていた。
「被告人は証言台に立ってください」
小森谷がしずかに口を開く。
「これで昨日の証拠調べ、今日の審理も以上となるのですが、言いたいことがあったら、おっしゃってください」
柳沢一成が、まっすぐに前をむいた。
「じぶんが死んで、いつか母と父に会えたら、罪を犯しながら、よく、ここまで頑張ったね、と言われるように頑張りたい。とにかく、母にも父にも近隣の住民のみなさまにも申し訳がない。すみませんでした! すみませんでした! すみませんでした!」
あれだけ感情を見せなかった被告人が、小森谷、礼子、内山ひとりひとりにむき、頭を下げた。市民六人の裁判員にも頭をひとりずつ下げると、柳沢一成は躰を反転させ、傍聴席に座る面々にも頭を下げた。被告人が頭を下げるたびに、薄くなって伸びた頭髪を結んだゴムが、上下に揺れた。礼子は虚しかった。
いまさら感情を表に出す被告人を。
罰を感じとり、怯える様を。
ただただ被告人を見て、虚しかった。
翌日。
午前十時、715法廷にて、第三回公判開廷。
小森谷裁判長が、厳しい顔つきで証言台に立つ被告人を見つめる。
「主文。被告人を懲役六年に処する──」
小森谷裁判長は淡々と犯罪事実、量刑の理由を述べると、十四日以内に控訴できる旨を告げ席を立つ。礼子もふくめ裁判員たちもそれに倣う。
「起立、礼」
の掛け声のもと、傍聴人は足早に法廷を出ていく。それはまるで一本の映画を観終わった観客のようでもあったし、司法を監視する役割を果たす人間にも見えた。検察官は頭を下げ扉を開ける。弁護人は軽く頭を下げるとそそくさと風呂敷に資料をしまい、検察官とは反対側にある扉から出ていく。礼子たちの姿は、とうにない。
ただ、呆然と証言台に立たされた柳沢一成だけが、ふたたび腰縄を巻かれ、へその前で手錠をかけられ、刑務官に連れていかれる。
法廷の白壁に掛けられた時計の針は、十時四分だった。
たった四分。
たった四分とこの二日間で変わったことは、柳沢一成が被告人から受刑者に変わった──ただそれだけだ。
(つづく)
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