一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
なぜその男は地裁の前に立っているのか? 判決に不服があるのか?
* * *
「いただきます」
その日の夜、礼子は晩ご飯にアクアパッツァを作った。前日は牛ヒレ肉のソテー、前々日もビーフストロガノフと肉がつづいたので、夫の貴志は魚が食べたいだろうと礼子は思っていた。東京地方裁判所から帰宅するまでの道すがら、通勤に利用する丸ノ内線の車内でアクアパッツァを思いついた。
礼子は決まって、東京地方裁判所を夕方五時半には退庁する。東京地裁の表玄関を出て左に曲がり、徒歩一分もしないところに東京メトロ丸ノ内線「霞ケ関駅A1」出口がある。階段を下って地下鉄に乗りこめば、帰宅時のラッシュに巻き込まれずわりと空いている電車に乗れる。
今日も礼子は混雑していない丸ノ内線荻窪行きに難なく乗りこめた。その道中、礼子の斜め前に座るOLが鞄から化粧道具を出しメイクを直しはじめた。別に滑稽だとも不作法だとも礼子は感じなかったが、ふと女性の顔を見ていると、魚が思い浮かんだ。女性の顔は目頭と目頭の距離が離れていて、いわゆる魚顔で、その魚顔をした女性が黒のアイラインを引き、茶系のシャドーを瞼に施し、頬にピンク色のチークを塗って化けていく様を見ていて、
「あ、アクアパッツァにしよう」
と思いついたのだ。淡白な魚が様々な具材、色を加えることで完成していく様を見て、晩ご飯のイメージに辿り着いた。礼子は最終駅の荻窪で下車するとその足で駅ビルのなかにあるスーパーへむかい、夕方で安くなったヒラメとムール貝を購入して帰宅し、東高円寺駅で下車していった女性の顔をみごと再現した。
「お、うまいね」
礼子の前に座る貴志が呟いた。貴志が感想の前に「お」をつける時は本当に美味しいと思った時なので、礼子はよかったなと思う。
「アクアパッツァなんて、珍しいな」
貴志が言うと、まさか「地下鉄で魚顔の女の子を見て思いついた」とは言えず、
「スーパーでヒラメが安かったから、あとはクックパッドで」
と礼子は答える。クックパッドと聞いて、貴志は微笑む。
「ありゃ便利そうだもんな」なんて言う。
でも礼子はクックパッドなど使っていない。だいたいの料理の工程など想像すればわかる。が、「できない」こともたまには演じなければ、夫が面白くないことを礼子は知っているだけだ。
「今日はあれか、親殺しの判決か」
「そう」
「何年にしたの」
「六年」
「まあ、妥当かな。凶器なし?」
「うん。腰から上部への暴行もなし」
「検察側八年、判決六年、求刑の七掛けか。面白くないな」
貴志がムール貝をすすりながら答えた。
「面白くないってどういうこと?」
「あまりにも、って気がする」
「あまりにも、なに?」
「ステレオというか」
貴志は言いながら、ポルトガル産のワインを礼子のグラスに注ぐ。
「そうかな」
「そうだよ。弁護側は国選弁護人だろうからモチベーションは知れてる。けどもうすこし闘い方はあったとは思うな」
「と言うと?」
礼子は話にのる。貴志が話したがっているのがわかったし、礼子も嫌ではない。家庭のなかに弁護士の夫と判事の妻がいれば必然そうなる。
まして礼子と貴志のあいだには子供がいない。
共通の言語があることは、わりと助かる。
礼子は司法修習生時代に片陵貴志と知り合った。おなじ教官のもと司法を学び、二回試験に合格した同期だ。貴志は礼子の七つ年上で、今年四十歳になる。修習生時代、礼子がまだ二十二歳の時、「付き合わないか」とふいに言われた。そのまま交際をはじめ、互いに二回試験合格後、籍を入れた。
霞が関の住民から「十年にひとりの逸材」と呼ばれた礼子が裁判官に任官されたと同時に結婚したことは、瞬く間に評判となった。貴志はいま親の後を継ぎ、片陵弁護士事務所の所長をしている。
「柳沢一成が罪を自白し認めている以上、弁護人としてやれることはない。君たち裁判所に執行猶予をつけてくださいとポーズを見せるくらいかな、できることは」
「ポーズね」
礼子は夫の皮肉に返事するように、美しい桜色の唇を歪める。
「でもやるとしたら──市民六人の裁判員のうち誰かひとりを徹底的に揺さぶる。その良心ってやつをね。徹底的に」
「徹底的にね」
「そう。でないと鋼のような君たち裁判所は崩せない。裁判員制度が導入されて九年、日本の刑事裁判はなにも変わらない。有罪率はあいかわらず九十九%を超えている。これは世界的に見ても異常だよ」
「でもすこしは変わった。導入前は九十九・八%だった有罪率が、九十九・六%に下がったわ」
「──検察に起訴されてしまえば、有罪」
礼子は夫を見つめる。
「これは非常に危険をはらんでいる。おれはそう思う」
これ以上会話をつづけるべきか否か、礼子は思案する。貴志は裁判官を目指していた。が、二回試験合格後その希望は叶うことなく、結局第二志望であった弁護士の道を選んだ。裁判官になることが夢でもなんでもなかった礼子は、ひとつの屋根の下で貴志と暮らす以上、この点は気をつけている。礼子は返事をしなかった。その空気を察したのか、貴志は穏やかな笑みを浮かべた。
「と言いながら裁判所がなかなか変われないことも理解している。だけど一石は投じたい。
柳沢一成の事件は、現代社会の事件とも言える。超少子高齢化を迎える我が国では、いつあなたが被告人の立場になってもおかしくないのだ──それを裁判員のひとりに訴えて揺さぶることはしたいね。結果裁判員が君たちに、『量刑相場より軽い刑にしよう』でも、『それでも親を殺すなど許されないから、重い刑にしよう』でもどちらでもいい。議論にさえなれば。最終的にその一票が君たちを揺さぶり、検察側の提示した求刑より重い判決になってもいいと思う。
若い国選弁護人なら、それくらいの気概は見せてもいいとは思うがね。どの道、同種事案の量刑傾向を参考にされて負けるとわかっている公判だから」
「要は、法壇の中央に座る裁判官はなにをしているのかと」
そこまでは言うつもりはない、貴志は白身魚を美味しそうに食べ笑う。と、貴志がダイニングテーブルの上に雑誌を置いた。
「読んだよ。いい記事だった」
雑誌は最高裁判所が発行する「司法の空」だった。表紙にはおおきく、撮影された礼子の姿が載っている。
「『平成最後の夏。未来に繋がる司法の歩みとは──東京地方裁判所判事 片陵礼子』いいタイトルだ」
「やめてよ」
礼子は空いた皿をキッチンに運ぶ。
が、嫌がる素振りが気に入ったのか、貴志は面白がるように読みはじめた。
「──司法とは未来を予測するものではない。まして、創造するものでもない。未来とは真逆な過去の事実とむきあい、その本質を見極めるだけだ。冷ややかかもしれない。が、あるべき解決策を模索し、愚直にひとつひとつの事件を解決していくことこそが、司法に携わる人間のあるべき姿だと思う。その結果が、未来に繋がるのではないだろうか──この、愚直というところがいい」
その夜、礼子は貴志に抱かれた。
貴志が「結婚する」と両親に告げるとすぐに、裁判官をしていた義父と検察官をしていた義母が建ててくれた立派な一軒家の寝室で。貴志が三十歳、礼子が二十三歳の時に建てられた家。
一階には三十畳を超すリビングや風呂場の他に、おおきな書斎がふたつある。貴志の両親が、司法に携わる息子と嫁に用意した、それぞれの書斎。
二階には、またおおきな風呂場の他に、部屋が三つ。
寝室と、いずれ必要になる子供部屋がふたつと、貴志の母親は言っていた。
子供が存在しないふたつの部屋は、無機質に、足音さえ立てず今日も存在する。
小明かりさえつけない漆黒の寝室で、貴志は礼子を抱く。
こぶりな礼子の乳房を唇にふくみながら、「おれと君は、同士だからな」と貴志が呟く。
礼子は知っている。雑誌に載ったり、礼子の評判を聞いたり、おおきな公判を礼子が受け持つと、夫が抱きたがることを。貴志は夢中で乳房を舐める。やがてその手は礼子の下腹部へと伸び、茂みのなかへと分け入る。
唇と唇が触れ合うことは、ない。
「同士がこんなことするかしら」
礼子は今日もこの言葉を飲みこみ、代わりに猫のような吐息を漏らす。
夫が果て寝入ると、礼子は一階の自室へむかった。
担当した過去の判決文の写しと手控えに埋まる書斎で、テーブルランプだけをつけ机にむかう。ひたすらに、判決文を書く。
──主文。被告人永谷公一を懲役十年に処する。
──主文。被告人岡田リサを懲役三年に処する。
──主文。被告人百瀬祐樹を懲役五年に処する。
──主文。被告人森山真紀子を懲役十二年に処する。
──主文。被告人グェン・トゥアンを懲役六年に処する。
──主文。被告人朴秀賢を懲役三年、執行猶予五年に処する。
──主文。被告人宋建平を懲役三年に処する。
──主文。被告人山下光成を懲役八年に処する。
──主文。
──主文。
──主文。
──主文、主文、主文、主文、主文主文──。
朝になり、夫にスクランブルエッグ、焼いたソーセージを二本、サラダを作りラップをかけ、礼子は家を出る。
早朝六時二十九分の丸ノ内線の座席に、礼子は座る。
疲れ果て眠るサラリーマン、スマートフォンを見つめるOL、学生、図書館で借りてきた本を読む私立の小学生、フリーター風、肉体労働者、誰かとSNSでやり取りしているのか、楽しそうに笑っている女性。
中吊り広告を読む。
人々の、顔、顔、顔。
朝の通勤電車に乗れば、世情はわかる。
午前七時、東京地裁に入る。
やり残した判決文を書き、本日分の起訴状を確認する。
午前中の単独審を終え、いつものようにエレベーターの前に立つ。と、隣に長野というベテラン判事がやってきた。
「元気かい?」
五十を過ぎただろうか、白髪になった以外はなにも変わらない、優しい笑顔を長野は礼子に浮かべた。
「ご無沙汰しております。すっかりご挨拶が遅くなってしまって──」
礼子が頭を下げ、笑顔を浮かべる。礼子が二〇〇八年に裁判官に任命された後、判事補として初めて東京地裁刑事部に任官したとき、たいへんお世話になった判事だった。
「いいんだ、いいんだ。君が忙しいのはわかってるから」
「ご挨拶にうかがおうと思っていたのですが、時を逃してしまって」
「どうだ? 三年ぶりの東京は。すこしは慣れたか?」
「ちょっと岡山が懐かしいです。やっぱりこっちは人が多くて」
長野が目尻に皺を浮かべながら微笑む。
「わかるよ。わたしもそうだったな。片陵さんとおなじで大庁勤務が多かったから。三十過ぎだったかな……山口県の裁判所に任官されてね。そのときは嬉しかったなあ。空気はうまいし、のんびりしてるし。山口にさ、いまで言うB級グルメっていうのかな?『ばりそば』っていうのがあってね。揚げた麺の上にさらさらとしたあんかけスープが載ってるんだ。長崎の皿うどんと似ているけど、ちょっと違う。これがまた安くてうまくてね。暇さえあれば行っていたよ。女房とも離れて単身赴任だし。だからこっちに呼び戻されたときは、気を失うのではと思うくらいショックだった」
長野が懐かしそうに笑う。思わず礼子も心が安らぐ。
「わかります。岡山もご飯、美味しかったな」
通常、裁判官は三年おきほどで任地を変えられる。大庁勤務と小庁勤務を繰り返しながら、転勤族となっていく。これはひとつの土地に根を生やしすぎると、地域住民と密接な関係になりやすいことを危惧しているからだ、と言う者もいる。裁く側の者として、市民と癒着になりうる行為は固く禁じられている。地域住民と密接な関係になりやすい、祭りなどの行事にも参加しない、とまで自らを律する裁判官も中には存在する。
礼子も長野判事とおなじだった。
「選ばれたエリート」である礼子は、初任地が東京地裁、四年目には東京地裁で判事補、東京地裁簡易裁判所の判事を務め、五年目には神戸地方裁判所勤務、特例判事補となると間もなくまた東京へ戻され、最高裁広報課付となり、二〇一五年にようやく小庁である岡山地家裁へと異動になった。ほぼ、大庁勤務の経験しかない。
要は、最高裁人事局が礼子を東京から離さないのだ。岡山の小庁への異動も、他の裁判官への建前上、
「片陵礼子にも小庁を経験させております」というポーズに過ぎない。
「雨野さんが、君を離さないだろうからな。彼の当面の目標は、片陵さんを四十歳の若さで最高裁事務総局人事局任用課長にすえることだろうから。そのあとのコースは、言わずもがな、だね」
礼子の気苦労を察するように、優しく長野が微笑みかける。エレベーターが到着し扉が開いたが、礼子と長野は互いに乗り込まず、話をつづけた。境遇が似ていることもあり、礼子も安心して話すことができる。「雨野」とは、現東京地方裁判所長の雨野智巳のことだ。礼子と夫貴志の、司法修習生時代の担当教官でもある。
「たいへんだろうけど、あまり無理はしないで」
長野は言うと、「ばりそばの話したら食べたくなっちゃったから、銀座で皿うどんの店でも探すよ」と言って下りのボタンを押した。
と、思い出したかのように長野が口を開けた。
「そうだ、君に言おうと思ってたことがあったんだ」
「なんですか?」
「君は変わらずに朝が早いだろうから知らないと思うけど、毎朝八時くらいかな? 必ず地裁の門のところに男が立っていてね」
「はい」
「じっと、地裁を見つめてるんだ。背筋を伸ばしてね、じっと、じっと見つめてる。毎日見かけるようになって、すこし気になってね。そうしたら思い出したんだ。その男、たぶん君が左陪席裁判官のときに公判した被告人だよ。傷害致死だったかな……明確には覚えていないけど、片陵さんが判決文を書いて、わたしが右陪席で確認した覚えがあるんだよな。違っていたら申し訳ないけど」
──左陪席裁判官のときにじぶんが判決文を書いた被告人?
とてもじゃないが、礼子は思い出せない。
「とにかく裁判所をじっと見つめていてね。まさか判決に不服があって、門前の人になったわけではないと思うけど。念のため、気をつけなさい。復讐なんて考えているわけじゃないだろうけど、近頃は妙な輩もいるし」
下りのエレベーターが到着し、長野は去っていった。
──門前の人?
門前の人とは、いわゆる訴訟狂とも呼ばれる人々で、裁判所の玄関前に陣取り、じぶんに不利な判決を下した裁判官の実名を挙げ糾弾する人種のことだ。段ボールに不満を書き殴り、時にはスピーカーを使い延々と持論を演説する。
──じぶんが裁いた人間が、門前の人に?
間違いを犯したことはない──。
礼子が心中で確認するように呟いていると、上りのエレベーターが到着した。乗り込むと人はおらず、古い官舎だからか、夏の終わりの生温い温度だけが、そこに漂っていた。
(つづく)
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