一雫ライオンの長編小説『二人の嘘』が先日刊行された。
「十年に一人の逸材」と言われる女性判事と、彼女がかつて懲役刑に処した元服役囚。
そんな二人の濃密な関わりを描いたこの小説が、話題となっている。
刊行を記念して、プロローグと第一章を公開する。
裁判所の前に立つ男なんて無視すればいい。だが、「間違いを犯すこと」を嫌う片陵礼子は、その男のことが気になって仕方なかった。
* * *
三日、四日は我慢した。が、礼子はどうしても気になった。長野判事の言うことが正しければ、その門前に立つ男は礼子が裁判官に任官した直後の、二〇〇八年から二〇一一年の三月までに礼子が裁いた人間になる。いまから最大で十年前。礼子が司法修習生を終え判事補の時代だ。
──若いじぶんが間違いを犯した?
早朝の、内山も小森谷も来ていない裁判官室で礼子は爪を噛んだ。右手の親指の爪。幼いころから、なにかあると親指の爪だけ噛んでしまう癖がある。育ての伯母にも、ずいぶんと注意された。
書いても書いても積まれていくまっさらな判決文の紙を自席で見つめながら、礼子は爪を噛んだ。くだらないこととも思う。判決に不満がある被告人は山のようにいるだろうし、そのうちのひとりが門前の人になったから、どうだというのだ?
が、納得がいかない。
納得がいかないというより、なにか、礼子の脳内の片隅に、その上のあたりから、ぽつぽつと不穏な雨垂れが落ちてきている気分だった。鬱陶しかった。礼子は担当する単独審の判決文の作成を中断し、刑事第十二部の広すぎる裁判官室を出た。
長野判事は「毎朝八時くらいに男は立っている」と言っていたので、礼子は十分前に裁判所の玄関にむかった。
意味はわからないが、心臓の鼓動が速まった。普段はどんなことにも冷静で、被告人が悪態をつこうが、叫ぼうが、検察官が有利な判断を欲しがる目線を送ってこようが、弁護士がため息を投げつけてこようが、夫に抱かれようが、どんな時も変わらぬ礼子の心拍数に変化が起きていた。
裁判所一階を敷きつめる床をヒールで蹴りながら、礼子は進む。
表が見えてきた。横殴りの雨が降っている。
「雨か」
突然の晩夏の雨に困惑し立ち止まると、裁判所の警備員が慌てて駆け寄ってきた。
「外行かれますか? 使ってください」
黒いビニール傘を礼子に差し出す。礼子は受け取った。
「いつから降りはじめました?」
「だいぶ前からですよ。片陵判事が出勤された、すぐあとですかね」
人の好さそうな初老の警備員の答えを聞いて、礼子は鼻から息を吐いた。判決文を書いているとなにも感じなくなる。裁判官室の窓を叩きつける雨音さえ、礼子の細胞には入り込まない。遮断されている。躰の周りを、透明でぶ厚いシールドが囲っている感覚を、礼子は時々覚える。
「ありがとう。借ります」
裁判所を出る。とたんにごうごうと音を立て雨が叫ぶ。横殴りの雨は、いくら傘で守っても礼子の着ている紺色のサテン生地のシャツと、フレアがかった同生地のスカートを濡らす。
歩を進め玄関前に辿り着き、目を細める。と、面々が見えた。土砂降りの雨のなか、立ち尽くす五十代の男がいた。レインコートを着た男の横には、抗議の文字をつづった段ボールのパネルが何枚も立てられている。見ると、『悪徳裁判官 山根和久を許すな! 常に大企業に媚を売る判決を連発! その姿勢を糾弾せよ!』と書かれている。
すこし離れた場所には、もうひとり。六十代だろうか、おなじくレインコートを頭から被り、うつむき、年季の入ったラジカセから裁判所への文句を垂れ流している。内容は礼子もよく知っているベテラン判事を糾弾していて、どうやら二十年前、彼から受けた判決に不服があるらしい。
長年通い詰めたからか、彼の司法への理解力はなかなかのものだ。この知識と熱量を、なにかに役立てる生き方はできないものなのかと礼子は男を見て思う。他は、ふたり組の男がまた離れた場所で準備をしている。彼らが持つビラを確認すると、左翼的な思想の持ち主だった。最高裁判所への抗議をする、よくいるタイプ。
長野判事の言う男は見当たらない気がした。ここにいる誰もが、型通りの門前の人だ。表情こそ違うが、一様に裁判所への不満をあらわにしている。が──長野判事の言う門前の男は。
「じっと、地裁を見つめてるんだ。背筋を伸ばしてね、じっと、じっと見つめてる」
礼子の右脳に長野の声が響く。
礼子はそんな門前の人をいまだかつて見たことがなかった。抗議するわけでもなく、ビラを配るわけでもなく、ただ黙って巨大な建物を見つめている人間など。もし本当なら狂気すら感じる。ふと長野判事がじぶんを揶揄っているのでは、と礼子は思った。が、そんな人間ではない。夏の終わりの雨は強まる一方で空を鼠色に染める。礼子は諦め、裁判所のなかへと戻った。
翌日、礼子はふたたび門前へむかった。
馬鹿みたいなことを、しているな。
と感じながら、朝の七時五十分、裁判官室を出た。一階にいる警備員は昨日とおなじ初老の男性で、二日つづけて礼子が下りてきたことにやや驚いた様子で頭を下げた。
「今日は晴れてるわね」
礼子は表を見つめながら声をかける。
「夏の雨は突然来ますから、嫌になりますね」
「天気予報もあてにならないし。昨日も洗濯物がたいへんでした」
礼子が家庭的な発言をしたからか、初老の警備員は安心したように微笑む。
軽く会釈し、礼子は外へ出る。「あくまでも天気を確認しに行くだけ」といった芝居じみたことをしているじぶんに、礼子は内心笑いそうになった。が、これでいい。礼子は一夜明け、やはり長野判事の見間違いなのではないか、という仮説に至った。裁判所への抗議のビラもまかず、糾弾するテープも流さず、じっと裁判所を見つめる男。
果たして、そんな門前の人がいるのだろうか?
失礼だが、いくら優秀な判事といえども長野も五十歳を過ぎている。年齢的な記憶力の低下も否めないだろう。
──いるかいないか、確認するだけでいい。
──いたとしたら、この目で意図を確認する。
──いなければ、長野判事の思い違い。
日常に紛れこんできた些細な案件に判決を下すため、礼子は門にむかう。蝉がわんわんと鳴くなか、昨日とおなじ男が立ち、ラジカセから抗議の声明を流していた。裁判所を背にして立つ男は、じっと足元のコンクリートでできた地面を見つめる。流れる不協和音的な念仏のエネルギーとは真逆の、未来への希望も感じさせぬ、とうに生きる気力を失った顔だった。
あとは、昨日とは違うが左翼的思想の男が数人立っていた。こちらはひとりが拡声器を持ち演説し、あとのふたりは通行人や裁判所へ入る人間に、談笑しながら適当にビラを配っている。笑顔を見せながら談笑しビラを差し出すその姿からは、彼らの思想的強さはそこまで感じられず、半ばなにもない日常の一ページに花を添えているだけの行為にも見えた。
礼子は、ほっと息をついた。
長野判事が言っていたような男は、どこにもいない。
腕時計で確認すると、午前八時二分を超えていた。警備員に妙な勘繰りをされるのも嫌なので、礼子は裁判所に踵をかえした。──その時だった。
礼子は立ち止まり、一点を見つめる。
──裁判所正門からすぐのところにある、霞ケ関駅A1出口の階段から、ひとりの男性が上がってきた。
──男性は足元を見つめ、光を感じたのか、ゆっくりと顔を上げる。
──身長は百八十センチほどか。男性は慣れた足取りでこちらにむかってくる。
──そして、止まった。
礼子はその男を凝視した。男は門前の人から距離を取るように、桜田通りに背をむけ、裁判所を見つめた。立ち位置は植え込みの近く。決して通行人の邪魔にならぬよう、配慮しているようにも見えた。
手にはおおきめのバッグ。大柄な躰には贅肉はついていない。が、筋肉で覆われているわけでもない。年齢は、夫くらいであろうと礼子は瞬時に感じた。四十歳、もしくはその手前。身形はベージュのチノパンツに、長袖の白いシャツをズボンには入れず着用している。カジュアルだが、そこに主張はない。程よく男をまとう筋肉もスポーツジムで練り上げたような自己愛は感じられない。ただ生きている過程で、この身形になっているだけ──そんな印象だった。
礼子は思わず、男から視線をそらした。このままでは流石におかしく思われるだろうと、裁判所へ戻るのを止め、もう一度通りへと歩を進めた。男の横を通りすぎ、裁判所の裏口にむかうふりをする。
また、立ち止まり男を見つめた。
男は、じっと、裁判所を見つめている。
そこには怒りも、憎しみもないように思えた。
ただまっすぐと、やや顎を上げ裁判所を見上げるように、男は裁判所を見入る。
男の横顔を見る。
すこし無精ひげがあるのだろうか、端正な顔立ちの手入れを拒否したような、あるがままの姿にも見えた。
なにより──。
その目は、寂しそうだった。
(つづきは書籍『二人の嘘』で楽しみください。)
二人の嘘
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