(写真:齋藤陽道)
この度幻冬舎から、『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』というエッセイを上梓した。この本は幻冬舎plusで連載している「本屋の時間」がもとになっているが、こうして本のかたちとなりようやく、もともとこの連載が目指していたものに近づくことができたという気がしている。
最初、編集者の相馬裕子さんから連載の依頼をいただいたのは、二〇一六年秋のこと。その時は、店が開店してからもうすぐ一年になろうという時期で、開店に至る経緯を書いた『本屋、はじめました』が出版されようとしていた。彼女からの依頼は、それまでにもいくつか話のあった「店をはじめることについて」ではなく、もっと店の日常に関すること、つまり書店に来店するお客さんとのやり取りや、日々店で起こることに関し、エッセイにして書いてくれというものだった。
そんなこと言われても、そうそういい話なんてないですよ。日々起こることなんてまいにち同じなのだから「日常」なわけだしね。
とまあ、そのように思ったのだが、連載は受けることにした。
そのころのわたしには、書くことや自分のまわりで起こったことに対して、どこかよそ者のような、遠慮するところがあったのだろう。毎回追い立てられるようにして書いた原稿は、「日常」には全然届いていなくて、自分のやっている仕事を正当化しただけの、理屈がまさったものであった。
このまま連載を続けられるのだろうかと思いながら一年が経ち、二年が経った。特に劇的な何かが起こったというわけではないが、三年目に入るころから、書くものに次第に変化が現れるようになった。それはいま考えれば、机のまえに座り、パソコンに向かってことばを吐き出すことが、わたしのなかで自然なものになった時期と重なっている。
そうすると、店で起こっていることは変わらなくても、ここにあるものこそが面白いのだと思えるようになった。わたしがいるこの場所は、様々な人が出入りする社会の縮図であり、よろこびやたまにでくわす高貴さ、狭量、醜さ等々、人の心の全きが見える場所でもある。いしいしんじさんはそのことを本書の帯に「奇跡」と書いてくださったけど、その奇跡は本来どんな職場にも、家庭にだってあるものだと思う。
ここにすべてがあるから、わたしは書くために遠くまで行く必要はない。店はわたしに与えられた、ものを見るための場所でもあったのだ。
よく「本が出てうれしいでしょう」と聞かれるが、うれしいのは本が手元に届くまでで、本が出たあとはそれがどのように受け容れられるのか、一喜一憂してただ落ち着かない。
「小さな声……」は、連載に大きく手を加え、再構成したので、読み心地はまた違うと思う。こうして一冊の本になったのは、わたしが〈声〉を見つけるのを、相馬さんがひたすら待っていてくれたからだ。
いまのわたしのベストを尽くしました。読んでくださるとうれしいです。
小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常
幻冬舎plusの人気連載「本屋の時間」を1冊にまとめた新刊『小さな声、光る棚 新刊書店Titleの日常』(辻山良雄著)の刊行他情報。