6月26日(水)19時半より、『往復書簡 限界から始まる』の著者である上野千鶴子さんと鈴木涼美さん、そして文庫に解説をお寄せくださった伊藤比呂美さんによる、オンライントークを開催します。テーマは、「限界から始まる、人生の紆余曲折について」。4週間視聴可能なアーカイブ付きです。みなさまのご参加お待ちしています。
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上野千鶴子さんと鈴木涼美さんによる『往復書簡 限界から始まる』が文庫になりました。解説は、詩人の伊藤比呂美さんです。最後に伊藤さんの文章――「すずみちゃんお餅いくつ?」とちづこ姉さんが言った――が入ったことで、単行本時とは一味違う余韻をまとった本書。一通目の手紙をあらためてご紹介します。鈴木涼美さんの手紙から始まりました。
上野千鶴子先生
「限界から始まる」というこの書簡の表題は、長くお付き合いのある幻冬舎の女性二人と会議室で唸りながら考えたのですが、改めて書いてみるとしっくりくるな、と思えるので、簡単にこの表題の話から始めさせてください。
キーワードである「限界」は、私が最近お送りした本についての上野先生のコメントに由来します。書籍のタイトルが『可愛くってずるくっていじわるな妹になりたい』(講談社、2020年)であったことについて、「こういうタイトルが使えるのは、もう限界ですね」というコメントをいただき、ちょうどこの書簡連載のお話をいただいた時期と重なったので、限界に立った私がこの場所から物事を考えるという意味を込めて先生の言葉を拝借しました。
それより先はないという境目、これ以上やったら許されないという線引き、我慢の限界、体力の限界、限界を知る、限界を破る、と連想していくと、私がこれまで生きていた世界はこのタイトルのような言葉が境目の内側にあり、私がこれから生きるべき世界はこのタイトルを外側に出す形だということになる。ではその次の世界がどのような形になるのかを考えるのであれば、境目に立っているこの場所は、ものを見るのに悪くないような気もします。時代が成長するとともに私自身が年齢的にも気分的にも成熟していくべき時に、良い言葉をいただいたと思います。
奇しくも往復書簡を始めようとしている今、新型コロナウイルス感染症のパンデミックにより、世界や日本の抱えている問題はより顕著にその輪郭を現しているような気がします。ちょうど私がこのお手紙を書いている週に日本でも緊急事態宣言の期間延長が発表され、経済的にも精神的にも先行き不安が限界まで達したと感じている人も多いでしょうし、今までにない生活の制約にガマンの限界だという人もいるはずです。限界地点の社会にあって、上野先生とお話しできる意義はより大きく感じられます。
それから、これが私自身としては最も大きな「限界」なのですが、長く取り組んできたテーマに、最近になって疑問を感じることが多々あり、自分の思いを点検したいという気持ちもありました。第一回目のテーマにも大きく関わるので、読者の方への自己紹介も兼ねて、私が文筆に取り組んできた動機や経緯をお話ししながら、近頃ずっと感じていた不安を申し上げたいと思います。
修士論文を改稿した『「AV女優」の社会学』(青土社、2013年)を出版してから、私が執筆をするモチベーションはごくシンプルなものでした。それは言わば、被害者という言葉の檻への抵抗と悪あがき。被害者の顔をせずに「害」を断罪することができるか、というのが自分に課していた態度です。
私のこれまでの人生は「被害者として生きる」機会に、実に恵まれたものでした。日本社会で女性として生きているだけでなく、女子高生の頃からブルセラや援助交際といった性の商品化の現場に出入りし、大学受験が終わった後はAV女優としても働き、その後は女性の部長が一人もいない(私の退職後に就任されたようですが)ザ・日本企業に勤めました。運良く執筆の機会を得た時に、私は性的搾取の、悪しき企業文化の、男女不均衡社会の、男の視線を内在化した、女性活躍のスローガンに踊らされた、窮屈な服と靴を押し付けられた、ある種の価値観に骨の髄まで毒された、被害者として語るための、たくさんの材料を持っていたように思います。そういう立ち位置から語っていたらあるいは、語る機会を得ずに黙る人の不満や傷つきに何かしらの作用を齎(もたら)すことができたのかもしれません。
ただ私が間近で見てきた女性たちや、当事者として体験してきた自分という女性は、もう少し強く、面白いものだったような気がするし、男の性欲で単に傷つけられるよりはもう少し賢く進化しているような気もしたし、闘う武器も獲得したはずだし、そんな時、踏みにじられた者というレッテルは私たちを退屈で単純なものにしてしまう気がして、邪魔ですらありました。被害者なんていう名前に中指立てながらも、不当で暴力的なものと闘うことは、矛盾するようにも見えるけれども可能な気がしていました。
なぜ「AV女優」が外から見ると過剰に「主体的」に見えるのかを書いた『「AV女優」の社会学』は今読むととても稚拙で粗いのは反省しますが、修論を書いていた時したかったことはまさに、被害報告ではない形で搾取の構造と男女の共犯関係を、どこかに仮想敵を作らずに描きだせないか、という挑戦でした。「強制」か「自由意志」かという枠組みでしか語られないことに強く違和感があり、またどちらもしっくりこないと思っていました。
自由意志に見える彼女たちが過度に「主体的」にふるまうのも、被害者に見える彼女たちが過度に「強制」を強調するのも、現場を見るとごく自然に思えることがあったからです。被害者にならないためには、根本的には未来に向けて被害を取り除いていく地道な努力が必要なのはわかります。そのために過去の被害者の証言が貴重なのかと思いますが、私たちの経験は被害の証言のためにあるわけではないとか、生きているだけで被害者である言い訳がどんどん浮かんでくるような着ぐるみを脱ぎ捨てたいとか、そういう子供っぽい反抗心もあったのかもしれません。そして何より、「害」を齎(もたら)すものが外的な要因だったなんてとても言えない、要は男も女も実に愚かだという圧倒的な実感がありました。
上野先生の本で以前私が共同通信で書評を書かせていただいた『戦争と性暴力の比較史へ向けて』(岩波書店、2018年)のような試みに、私がとてもワクワクするのは、まさに単純な被害者という枠組みを解体しながら、むしろ解体するからこそ浮き彫りにできる罪の所在を照らすような鮮やかさがあるからです。少なくとも上野千鶴子の本に学ぶ機会のあった私の世代のオンナたちは、そういう強さがあるはずだと今でも思っています。
その作業は、善意で私の痛みに寄り添おうとしてくれた人たちを後ろから刺すようなところがあることも、連帯に水を差すかもしれないことも、必死で声を上げる人に冷淡に思われることも、経過の中で実感しましたが、それでも、被害者になるために学んだわけではない、と信じていたし、私としては似たようなことを伝えていたつもりの人にものすごく嫌悪感を抱かれたり、鼻をつままれたりするのは、私の表現方法が稚拙なせいだと思っていました。もっとわかりやすくもっと面白く「加害者」とされるものの弱さや「被害者」とされるものの強(したたか)さを描けば、かわいそうと思われずに両者の愚かさを指摘できるはず、と鼻息荒く過ごしてきたのが、長く私のスタンスだったわけです。「エロティック・キャピタル」を提唱したハキムのような議論を比較的好んできたのも、そういった被害者化を逃れて複雑で強い存在になっていく際の補助線になり得ると思ったからです。
ただ、私は大きく間違っていたのかもしれません。Twitterなどでより広く見ることが可能となった、私よりもっと若く賢い女性たちの発信を見ていると、彼女たちが強く希求しているのはきちんと被害者の名を与えられることのようにも思うのです。イノセントな被害者の姿は私自身が抵抗し続けて、それを逃れるためなら自分らのどんな愚かさを露呈してもいいと思っていたものですから、私にとって今、伝統的な男女差別への抗議が元気を取り戻すのは大きな衝撃でした。だとしたら、被害者の皮を剝ごうとしてきた私は彼女たちの運動を妨げるものであって、嫌悪されるのは当然のようにも思います。
先日、たまたま同じ時期に同じ担当編集で本を出した縁で、作家の橘玲さんとお話しする機会がありました。橘さんの方からぜひ私と話すテーマに、と提案されたのがまさにハキムの「エロティック・キャピタル」についてです。その前月には『現代思想』の仕切りで、比較的世代の近い関西学院大の貴戸理恵さんと、自分らの世代にとってのフェミニズムについてお話しする機会がありました。
それらの中で私は、ある意味強制的に与えられ、その後剝ぎ取られる感のある女性の商品的価値について、意志と関係なく持っているそれとどう付き合い、剝ぎ取られた後をどう生きるかという話をして、特に貴戸さんとは、その先を生きるためにこそ私たちのフェミニズムは使えるのではないか、というところで大いに盛り上がったのです。商品的価値を強制的に押し付けられる社会への根本的なところに触れる議論を大きく展開したというよりは、その現状がどういった形をしているのかを現場の視点でお話しして、そういう身体を抱えた私が今どうサバイブするかという話ではあったのですが。
その、以前から私が著作のテーマの一つとして挙げてきた身体の商品的価値について、ハキムの「エロス資本」を参考に話した橘さんとの対談に対しての読者の方々の反応や批判を見ていると、その現状に怒っているというよりも「そんなものはなかった」「AV女優やキャバクラ嬢など一部の女性が与えられているにすぎない」という立場の方が想像以上に多く、エロス「資本」ではなく「負債」だというコメントも拝見しました。そういう意見は面白いのですが、「被害」の捉え直しとして私自身は若い頃に割と歓迎して読んだような概念が、今は多くの女性の自尊心を大きく傷つけるという事実には大変驚きました。当然、橘さんにしろ貴戸さんにしろ私にしろ、エロスは資本だ行使しようなんていう立場にはないのですが、そうした商品的価値を与えられてしまうという現状の捉え方自体が、許容されないのだということはわかりました。
学生時代、ゴフマンや上野先生の著作を読んでいた頃、自分らがあまりに自然に自明のものと感じている仕草やごく素直に受け入れていた広告が、いかにジェンダーの衣を着まくっているかという発見は、80年代生まれの私にとって単純に面白く、こういった先人たちの作業によって、私たちは「それによって巻き起こされていた被害が解体され」、「押し付けられてやっている状態からワカッテやっている状態に進化し」、だからこそ単純な歴史の被害者ではなく、複雑に被害と加害を繰り返しながら逞しく生きているのだという実感がありました。そういった喜びにかまけて、もしかしたら私は、根強く変化しないもっと根本的な「害」についての批判がどこか甘くなりすぎていたのかもしれません。
少なくとも昨年盛り上がった#KuToo運動や、つい先日大いに批判されたお笑い芸人の岡村隆史発言への抗議を私自身の反省も込めて見ていると、今の学生たちが表現したいのは、私たちも愚かだとか、私たちも強いとか、私たちも得していたという視点ではなく、被害者であることを恐れない態度の方のような気がしました。
被害者の名を引き受けることこそが尊いのか、被害者の名に甘んじないのが尊いのか、どちらがより自分の妹たちに生きるに値する世界を手渡せるのか、正直、今はよくわかりません。私にとっては退屈なように思えた被害者というレッテルから、取り急ぎ脱出口を探すような遊びは、女性たちの運動に水を差し、被害の再生産をしてしまうものかもしれないという不安が常にあります。でも、実際に会社やAV撮影や家庭や恋愛の現場で、降りかかるものと逞しく楽しみながら闘う女性たちを見てきて、それをかわいそうなふりをして報告する行為は、私がサインアップしたフェミニズムの姿ではないという思いもあります。
日本女性の碩学である上野先生が社会学の場で切り開いてきた議論は、私にとっては、順番として受け継ぐ私たちがイノセントな被害者ではなく、何を押し付けられてもそれを解体したり逆手にとって武器にしたりできる賢者になるための布石だと信じてきました。無自覚なふりができない分、そして何より学ぶ場所が切り開かれた分、それは茨の道ではありますが、少なくとも私の見てきた女性たちは被害者の顔をしていないように感じていました。
以前、どちらかというと私の母の世代にいる中村うさぎさんと女性の美についてお話しした時、エロオヤジの実害撲滅に忙しかったうさぎさんの世代と、エロオヤジこそをかわいそうな被害者にしてしまえる私の世代とでは、時代が進化しているような気がしたのですが、気のせいだったのでしょうか。その皮肉っぽい態度が彼らを延命させているのでしょうか。被害報告と被害者からの脱却の間で悩む日々なのですが、私たちそんなにやられっぱなしじゃなかったじゃん、とか、私たちも相当バカやってるじゃん、とか、旨味にかまけてきたじゃん、とかいう態度は女性を傷つけるのでしょうか。(嫌だけど)被害者であることを受け入れなければわかりあえないのでしょうか。そもそも私は何に抵抗してきて、単純に女性差別の被害がありましたという態度をとることにどうしてこんなに抵抗があるのでしょうか。
2020年5月10日 鈴木涼美
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