6月26日(水)19時半より、『往復書簡 限界から始まる』の著者である上野千鶴子さんと鈴木涼美さん、そして文庫に解説をお寄せくださった伊藤比呂美さんによる、オンライントークを開催します。テーマは、「限界から始まる、人生の紆余曲折について」。4週間視聴可能なアーカイブ付きです。みなさまのご参加お待ちしています。
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上野千鶴子さんと鈴木涼美さんによる『往復書簡 限界から始まる』が文庫になりました。解説は、詩人の伊藤比呂美さんです。最後に伊藤さんの文章――「すずみちゃんお餅いくつ?」とちづこ姉さんが言った――が入ったことで、単行本時とは一味違う余韻をまとった本書。一通目の手紙をあらためてご紹介します。上野さんからのお返事です。
鈴木涼美さま
往復書簡の第一信、拝受。
鈴木涼美という若い女性は、デビューのときから気になる存在でした。その相手との往復書簡の提案を編集者から持ち込まれたとき、なぜわたしがあなたに関心を持っていることを、担当編集者が知っているのだろう、といぶかったほどです。わたしのほうには異論はありませんでしたが、あなたがイヤがるだろうと予測しました。たぶんわたしはあなたにとって、煙たい存在ではないか、と感じたからです。
あなたへの関心は、デビュー作『「AV女優」の社会学』の書評をしたときから始まりました。読んだとたん、ここにはかんじんなことが書かれていない、と直観しました。その直観はあたりました。本が出てすぐに、ハイエナのようなマスコミが、あなた自身がAV女優の経歴を持っているという過去を暴きました。東京大学大学院で北田暁大さん指導のもとに社会学修士論文として書かれた本作は、観察者の立場を取っていましたが、実はあなた自身が当事者だったことがわかったからです。
AV女優や風俗嬢については、多くの男性の書き手がものほしげな好奇心から、いろいろなルポを書いてきましたが、当事者女性の声は聞かれてきませんでした。あなたの『「AV女優」の社会学』は、タイトルからしてAV女優の経歴を持つ女性がついに社会学者のなかに登場したのか、とわたしに期待を持たせました。AV女優の「当事者研究」かと思われたこの本は、現場に出入りできる特権を持った女性ライターとして、しかもほんのはずみでAV女優になる境界をふみはずしてしまいそうな「エロス資本」を持った女性として、微妙なアウトサイダーの視点から書かれていました。「これはワタシではない」というエクスキューズを伴って。もしかしたら学術論文にはそんなエクスキューズが必要だと、あなたが考えたのかもしれません。
AVライターだった女性に、雨宮まみさんがいます。彼女も、わたしにとっては気になる女性でした。ご本人に頼まれて、『女子をこじらせて』(ポット出版、2011年)の文庫版(幻冬舎文庫、2015年)解説を書きました。彼女は「女だてらに」AVライターをやる自分を、「女子をこじらせて」いたからだ、と説明しています。スクールカーストの最下位にいて「エロス資本」に恵まれず、求められる外見偏差値が上がるいっぽうのAV業界で、女優になるという境界を決して越せないことがわかっていたからだ(実際にご本人にお会いして、そうは思えませんでしたが)と説明しておられましたが、その「こじらせ方」なら、まだ理解できます。彼女は著書のなかで犀利(さいり)と呼ぶほかない自己分析を果たしていますが、彼女自身にはAV女優の経験はなく、AV批評はしても、AV女優そのものについては論じませんでした。自分にとっては「あちら側のひと」という立ち位置が、彼女がAVライターであることを可能にしたのでしょう。
AV女優の当事者研究は書かれていません。キャバ嬢やさらには援交少女たちの経験も。援交がブームだったとき、ブルセラ少女や援交少女を語る男たちの語り口には、心底うんざりしました。「売れるものは売る」彼女たちの選択に、謎はありません。それより、使用済みパンツに高額のお金を払う顧客の男たちのほうがはるかに「謎」なのに、論じる男たちの視線は、同性の男へは決して向かいません。わたしは、この世代の元少女たちのなかから新しい表現が生まれるだろう、と期待しましたが、その期待はまだ満たされていません。もしかしたらわたしの知らないところで、コミックや映像にすでに表現者が登場しているのかもしれませんが。
あなたの本の内容は、期待通りと期待はずれが相半ばするものでした。内容の中心にあるのは、AV女優の「私語り」というもので、それには共感があふれていましたが、その「私語り」もAV制作のフォーマットに乗った職業的語り、つまり商品としての語り、でした。性産業が、性的客体になることをみずから主体的に選択する女性の能動性を強調するのは、陳腐な定石です。女性の主体性は、男の性欲を免責するからです。
それだけではありません。この語りのなかに、AV女優をよりハードなプレーに追い込んでいくアディクション(中毒)と言ってよい仕掛けがあることを、あなたは鋭く指摘しました。私はここまでやれる、もっと殻を打ち破れる、挑戦できる……という一種のプロフェッショナリズムです。現場のチームの期待に応える連帯感ですら、プロフェッショナリズムには有効に働きます。こういう小状況におけるプロフェッショナリズムは、AV撮影現場だけでなく、ナチの収容所の看守にも、虐殺現場の兵士にも作用することでしょう。
そういうプロフェッショナリズムを描きだしたあなたの鋭さに感嘆すると同時に、うまく逃げられたと感じました。プロフェッショナリズムは職業の如何を問いません。マッサージ師にも、キャバ嬢にも、プロフェッショナリズムはあります。そのプロフェッショナリズムに照準することで、いったいAV女優はいかなる労働をしているのか、という核心的な問いを迂回することが可能になります。それは春画研究が「通好み」になればなるほど、見立てや着衣などの周辺の記号の分析にはまっていくことと似ています。そこに描かれているのはまぎれもなくセックスなのに、それについて語らずにすむからです。
ですから、あなたには「語らなかったこと」がたくさんあるはずなのです。
その後、最初の著作の書評者であったことを義理堅く覚えていてくださったのか、あなたは新刊が出るたびに、著作を送ってくださいました。夜のおねえさんの私生活や、オジサン観察のあれこれを描いたそれらの著作を、いただくたびにすべて読んできたのは、ひとえにあなたというひとへの関心からでした。その過程で、あなたが教養のあるご両親のもとで恵まれた育ち方をしたこと、聡明なお母さんを亡くされたこと、せっかく総合職入社した大企業を退職したこと……など、個人史にあたる情報ももたらされました。若くて才気のある、そして付け加えるなら世間に対して挑戦的な女性が、この先、フリーのライターとして生きていく……しかも賞味期限が過ぎたら情け容赦もなく使い捨てるマスメディアの世界で、この女性はどうやって生き延びるのだろうか、という関心がそれに加わりました。「親代わり」の、と言ったら語弊があるでしょう。「親戚のオバサン」のような、と呼ぶほうがよいかもしれません。
ちなみにわたしは30年ほど前に、当時一世を風靡したAV女優の黒木香さんと対談したことがあります。当時、わたしは、名誉なことに、「社会学界の黒木香」と呼ばれていました! 命名者はあの学界のカリスマ、見田宗介さんです。黒木さんといっても、今の読者には通じないかもしれませんね。「ヘアヌード」で男たちがこれでもかと狂騒状態にあったころ、裏をかいて、タブー中のタブーだった腋毛を、腕を高々と上げて露出した女性です。横浜国立大の現役大学生で、高学歴AV女優としても有名でした。
そういえばAV女優の「私語り」が売れ線の商品になったのは、黒木さんが嚆矢(こうし)でしたね。彼女の雄弁な自己表現力と独特の丁寧語による言いまわしは、知性を感じさせました。もちろんそれが「商品」であることを彼女はじゅうぶんに意識していたでしょうし、わたしとの対談のなかでも、職業的な語り口を崩すことはついにありませんでしたが、わたしは、この聡明な女性がこの先、傷つかずに生き延びていってほしい、と心から願ったものです。
その後、彼女が自分のプロデューサーであり監督であった村西とおると愛人関係にあり、ロケ先で落下事故を起こして大怪我をしたと知って、胸を衝かれました。業界も監督も利用するしたたかでクールな女性だと思っていたからです、いえ、そう期待していたからです。彼女も愚かな「愛しすぎる女」のひとりだと知ったことで、いっそう痛ましく思えました。その後、メディアに登場することはありませんが、このひとの「その後」は、今でも気になります。もちろんマスコミの餌食にはしてもらいたくありませんが。
初回に「エロス資本」をテーマにしようと持ちかけたのは、わたしでした。あなたが「エロス資本」をもとに仕事をしていたと知ったからです。
正直にいうと、わたしは「エロス資本」という概念に批判的です。「エロス資本 erotic capital」は社会学者のキャサリン・ハキムの概念だそうですが、「文化資本」や「社会関係資本」にならってつくられたこの概念は、社会学的にはまちがいだとすら思います。というのは、「資本」とはほんらい利益を生むものですが、経済資本にかぎらず文化資本(学歴や資格)や社会関係資本(コネ)のような目に見えない「資本」であっても、獲得し蓄積することが可能であるのに対して、「エロス資本」は努力によって獲得することもできず(努力によって獲得できるというひともいますが、それには限界があります)、蓄積することもできないばかりか、年齢とともに目減りしていくだけのものだからです。
しかもその価値は、一方的に評価されるだけで、評価基準はもっぱら評価者の手の内にあります。つまり資本の所有者がその資本のコントロールができないという状況のもとにある財を、「資本」と呼ぶことは端的にまちがっています。資本主義は基本的に私的所有権と結びついていますが、「エロス資本」の帰属先(すなわち女性)が、その所有主体であるかどうかも疑わしい状況を、「資本」と呼ぶことに、まぎらわしいメタファー以上の効果はありません。この概念が示すのは「若くてキレイな女性はトク」という通俗的な世間知を、アカデミックに粉飾しただけのものでしょう。
資本というからには、若さと美しさはほんとうに経済価値を生むのでしょうか? たしかに「外見の価値」が社会学的探求の対象になってからは、美人は経済的に有利という調査結果も出てくるようになりました。美人コンテストの優勝者には、有利な就職の機会も結婚の機会も多いかもしれません。が、「エロス資本」には、もう少しあからさまな含意があります。なぜなら対価を伴う「性の市場」というものが、すでに成り立っているからです。
だとしたら、そこに参入する女性は「エロス資本」の「資本家」なのでしょうか。ご冗談を……と思います。性の市場にはあいかわらず巨大な経済資本が動いていて、そこでは女性はたんなる「エロス商品」にすぎません。フリーランスのセックスワーカーなら? 自営業者なら、自分自身の「エロス資本」の所有者でありかつ労働者ですから、資本を自己決定で処分できると? その際、学歴やITスキルのような文化資本と同じく、市場に対して自分を有利に提示できる、ということでしょうか。ですが、あなた自身が書いているように「強制的に与えられ、その後剥ぎ取られる」「意志と関係なく持っている」ものを、「資本」などと呼んではならないのです。
それにしても、性の市場で、セックスワーカーが平均的な女性労働者の賃金よりも破格に割のよい対価を得ることができるのはなぜでしょう? セックスワークがマッサージ師と同じようにボディタッチを伴う熟練労働であるとか、看護師やカウンセラーと同じようなケア職であるとか、同じようにプロ意識を持っており、しごとに誇りを抱いている……ということはしょっちゅう言われます。そのとおりでしょう。ですが、それならなぜ、セックスワーカーの労働の対価が、マッサージ師並みや看護師並みにならないのでしょう? プロフェッショナリズムでは解けない問題がそこにあるのに、多くの論者はそれを避けて通っているように思えます。
あなた自身が回顧的に述べていますが、短期間の「夜職」で破格のお金を稼いだけれども、そのあとに(おそらく一生)つきまとうツケを考えると、この取引はイーブンではないのかもしれない、と。「夜職」のキャリアは、思った以上に長く、女性のその後の人生に尾を引くようです。
「夜のおしごと」の対価には、スティグマ代が入っています。AV女優もキャバ嬢も、経歴を履歴書に書けません。同じ業界で転職するならともかく、そして家族がその業界で生きているならともかく、家族にも言えません。援交の少女たちがもっとも怖れたのは「親バレ」でした。あなたの過去はメディアに曝さらされてしまいましたが、ご自分から公開しようとは思わなかったでしょうし、ましてや親に言おうとはしなかったでしょう。隠れて親のイヤがることをやる……のは「蜜の味」です。わたしも若いころ、逸脱的なふるまいをするたびに、こんなにつまらないことがこんなにおいしいのは、ひたすら「親の禁止」があるからだ、とわかっていました。その「禁止」の魔法が解ければ、つまらないことは索漠とするほどつまらないことに戻ってしまいます。
おそらく男たちはやましい思いがあるから、スティグマ代込みで高い対価をセックスサービスに支払っているのでしょう。「若いころ、キャバ嬢やってずいぶん稼いだのよ」と女性がおおっぴらに言えないように、「キャバクラやヘルスにずいぶんカネを注ぎこんだもんだ」と男もおおっぴらに言えません。いえ、言えなくなってきました。遊郭や赤線があった時代には「女遊び」は財力の証だったでしょうが、今はもはや公然とは口にできません。「女はカネについてくる」と豪語したホリエモンさえ、IT長者たちの合コンにモデル嬢やCA(キャビンアテンダント)をかんたんに呼べることを自慢できても、彼女たちとのセックスを「カネで買った」(たとえそんなことがあったとしても)とは公然と口にできない時代です。
それをメディアで口にしたのが、お笑い芸人の岡村隆史というひとでした。『オールナイトニッポン』というメディアの「夜の部」、結婚できないお笑い芸人という立ち位置、裏世界での発言という場が、彼の発言を許容してしまったのでしょう。「コロナ禍で風俗へ行けないのがつらい」という男性聴取者からの声に応えて、「コロナ禍が収まれば、美人さんが短期間の稼ぎを求めて、3ヶ月間の期間限定で風俗業に参入してくる」と発言してしまったのです。これに抗議して、署名運動が起きたことは、あなたもご存じのとおりです。
お笑い芸人の直観は、しばしば核心を衝いています。風俗業についてこんなにわかりやすい理解はありません。風俗は「女性が短期間で荒稼ぎのできる仕事」であり、かつ「もし他の選択肢があれば女性がそこから退出していく」ような、女性にとって歓迎したくない職種であることを、顧客である男がよくわかっているということを、この発言は示しました。しかし、その「3ヶ月」の履歴書の空白を、「美人さん」はどう説明するのでしょう? ただ「失業中」と沈黙を守るのでしょうか。
言いたいことはかんたんです。セックスワークは女性にとっては経済行為です。対価が発生しなければ、けっして彼女たちはセックスワークをやったりしないでしょう。ここに謎はありません。他方、顧客の男たちは対価を支払う消費者です。彼らはいったい何を買っていることになるのか? それがカネを対価に得てはならないものであることを、男たちはひそかに知っているからこそ、そのやましさを、相手の女性に転嫁するのではないでしょうか。その際のもっとも強力なエクスキューズが、「自己決定」です。
「性の市場」は、経済資本のうえで圧倒的なジェンダー非対称性があることによって成り立っています。わずかな例外を除いて、「性の市場」は「男の、男による、男のための市場」です。その構造的与件のもとに、自分に対価が発生することを知ち悉しつした女性たちが参入していきます。その対価が期間限定であることを知っているJK(女子高生の隠語)たちも参入します。ですが、彼女たちにそれを教えたのは「キミ、いくら?」と無遠慮に寄ってくる浅ましい男たちで、彼女たちに「エロス資本」を一方的に付与したのも、彼らです。ですから、夜の繁華街を放浪する少女たちを救う活動をしている団体、Colaboが、「私たちは『買われた』展」を実施したのは、故なしとしません。彼女たちに自分が「商品」であることを教えたのは、男たちでしたから。
そういう「性の市場」で生き抜く女性がたくましく、したたかで、魅力的であることをわたしは否定しません。カラダを張って生きていることに誇りを持ち、自分の職業的なスキルやテクに自負を持っていることも。あなたの「夜職」のご友人たちも、そういう魅力的な女性たちでしょう。ですが、あなた自身は「夜職」から離脱する選択肢を持っています。
あなたの「夜職」のご友人たちはどうでしょうか? いずれ過去の経歴を隠して「昼職」へと軟着陸するのでしょうか、それとも足脱けできずにそのまま「夜職」の世界にとどまり、年齢とともに「エロス資本」の低下を自覚しながら、今度は経営者や管理職として若い女性の搾取者になるのでしょうか。鈴木大介さんの小説『里奈の物語』(文藝春秋、2019年)には、地方都市の風俗産業従事者の世代的な再生産(キャバ嬢の娘がキャバ嬢になる)がリアルに描かれています。そこは貧困と、暴力と、虐待が連鎖する世界です。
そういう世界に、「経済的強制」によらずに、好奇心や反発心、挑戦的な気持ちやあるいは自傷動機から参入してくる、あなたのような若い女性たちがいます。性の市場のジェンダー非対称性をよく知っているからこそ、そのしくみを逆手にとってつけこもうとする女性たちです。男たちは、そういう女性に関心を抱きます。なぜか?「女性の主体性」は彼らを免責しますし、カネと欲望のパワーゲームのなかでは、より追いかけがいのある獲物だからです。
あなたも社会学者なら、アマルティア・センの「ケイパビリティ(潜在能力)」理論をご存じでしょう。個人の潜在能力は所有している資源の多寡だけではなく、機会集合(選択肢の多さ)の大きさで決まります。これしかできないから風俗業に従事している女性と、他に選択肢があっていつでもそこから退出できる女性とでは、「潜在能力」において違いがあると言えます。そういう高い「潜在能力」を持った女性たちが、自分の職業を「自己選択」だと、そして自分の仕事に誇りを持っているというプロフェッショナリズムを言挙げするのは理解できます。ですが、彼女たちがセックスワーカーのすべてを代弁しているわけではありません。
とあるウェブ媒体でわたしが、自分を尊重しないような男とカジュアルに性的関係を持つことを、「肉体と精神をどぶに捨てるような」行為と表現したことで、セックスワーカーを名のる女性から職業差別だと抗議を受けました。自分たちはこの職業に誇りを持っている、と。そのとおりでしょう。ですが、ヘンだな、と思ったのは、この発言を虚心に読めば、「どぶ」と表現されているのは相手の男の側ですから、ほんらいなら、「オレたち、どぶかよ」と、男たちから抗議が来るべきだったでしょう(笑)。
わたしは「肉体と精神をどぶに捨てるような」セックスを、若いころ、たくさんしました。対価こそ発生しないものの、自分も相手も尊重しないようなセックスです。その後悔が、わたしに言わせたせりふでした。セックスは侵襲性の高い、やっかいでめんどうな、人間の相互行為の一種です。しかも生殖行為でもあります。セックスワークの対価には、「乗り逃げ代」が含まれているという男もいます。生殖の果実に責任をとらないですむという補償金のことです。そのやっかいさやめんどうさに見合った人間関係の手続きを、カネの力ですっとばして自分の欲望だけを満足させるのが、男にとっての性産業でしょう。そのとおり、あんたたち、「どぶ」だよ、とどんなに言いたいか。はっきり言いましょう、カネや権力や暴力で女を意のままにしようとする男は、「どぶ」と呼ばれてもしかたのない存在だ、と。
30歳を超えたあなたは、「私よりもっと若く賢い女性たち」について世代論を書いていますね。「彼女たちが強く希求しているのはきちんと被害者の名を与えられること」だと。「与えられる」のではなく、「名のる」と言ったほうが正確だと思いますが。そしてしばしば誤解があるようですが、「被害者」を名のることは、弱さの証ではなく、強さの証です。あなた自身が「被害者であることを恐れない態度」と書いているように。伊藤詩織さんが「私は性暴力の被害者だ」と名のることに、どれほどの勇気が要ったかを想像するだけで、じゅうぶんでしょう。
「被害者」と呼ばれたくない、「弱者」であることがガマンできない、という気持ちをウィークネス・フォビア(弱さ嫌悪)と呼びます。エリート女性がしばしば陥りがちなメンタリティです。ホモフォビア(同性愛嫌悪)と同じくウィークネス・フォビアもまた、自分のなかにあるからこそ、より激烈に検閲し排除しなければならない、弱さへの嫌悪を指します。「慰安婦」を嫌う右翼の女性にあるのも、同じメンタリティでしょう。女が被害者面をするのが許せない、私はあのひとたちと同じではない、私は弱くない……と。そしてこんな女性ほど、男にとってつごうのよい存在はありません。こんな心理的機微がよくわかるのも、わたし自身が過去にミソジニー(女性嫌悪)の「エリート女」だったことがあるからです。
社会学に構造か主体か、というディレンマがあることは、ご存じですね。主体が個人として「自己決定」を主張すればするほど、構造は免責されます。構造的劣位にあるものが、その劣位を逆手にとって構造から搾取することは、短期的には成り立ちますが、長期的には構造を再生産する結果になることは、小笠原祐子さんの『OLたちの〈レジスタンス〉』(中央公論社、1998年)が雄弁に語っています。主体は構造を一瞬超えることもできるでしょうが、構造の圧力のほうが、主体よりも圧倒的に強いことを否定することはできません。ですから、あなたが書評してくださった共編著『戦争と性暴力の比較史へ向けて』のなかでわたしたちが試みたのも、主体の能動性や多様性を否定しないで、かつ構造の抑圧を免責しないアプローチでした。
あなたの世代にあるのは(といってよいかどうか、わかりませんが)、ポスト均等法世代以降のネオリベラリズムの内面化と、90年代以降の性の商品化の怒濤のなかで思春期を過ごした結果のシニシズムではないでしょうか。そして政治的シニシズムがそうであったように、シニシズムは結局、何も生み出しません。フラワーデモの世代は、90年代後半からのフェミニズム・バッシングも経験しておらず、政治的シニシズムにも染まっていない、イヤなことはイヤとまっすぐに口にするようになった若い女性たちでしょう。
あなたが後発の世代をまぶしい思いで見ている気持ちが伝わってきます。どうすれば「自分の妹たちに生きるに値する世界を手渡せるのか」と30代のあなたが言うのはちと早いような気もしますが、もし今の年齢になるまでにあなたが子どもを産んでいれば、この問いはもっと切実になるでしょう。「子どもたちに生きるに値する世界を手渡せるのか」と。子どもを産まなかったわたしでも、この年齢になればつくづくと、「こんな世の中にしてごめんね」と謝らなくてもすむ世界を、次の世代に手渡したい、と思うようになりましたから。
あなたが10年近くにわたる「夜職」で学んだこととして、「男も女も実に愚かだという圧倒的な実感」と書いておられますね。人生には知ったほうがよいことと、知らないほうがよいこととがあります。人間の愚かさよりは、けなげさやいじらしさをたっぷり学ぶほうが、どれほどよかったでしょうか。
あなたの文章を読んで、これが「人間の愚かさを学んだ」ではなく、「人間の限界を学んだ」だったら、どんなによかっただろうか、と思わずにいられませんでした。人間には限界があります。ですが、その「限界」は、到達してみなければ味わえません。限界までがんばったひとたちだけが、限界を骨身に沁みて味わうことができます。あなたがのびざかりの20代の10年間を、男と女の欲望の愚かさを学ぶために使ったと聞けば、哀しみを感じるのは老婆心からでしょうか。
30代は、子ども時代の万能感を失って能力にも体力にも「限界」を感じる時期です。それと同時に、限界までなら自分に何ができるかという「自恃(じじ:みずからを恃〈たの〉む心)」もまた生まれる年齢です。できることとできないこととを腑分けし、できないことを諦め、できることを誠実にていねいに、手を抜かずにやっていく……ことから、初めて自信と信頼が生まれます。そして自信と信頼は、確実に蓄積していきます。それは他者が一方的に与えたり奪ったりするような恣意的な「エロス資本」とは、まったく違ったものです。
「エロス資本」をテーマにしたばかりに、言わずもがなのことを、たくさん書いてしまいました。
それよりもあなたとつっこんで話したいことがあります。あなたが聡明な母親との確執を描いたエッセイを読んだとき、わたしは彼女について、そして彼女とあなたとの母と娘の関係について、もっと知りたいと思いました。そしてそれがあなたが語りたくない、語れない、まだ語る準備のない領域に含まれていることも推測しました。
わたしはときどき、もし自分に娘がいたら、と考えることがあります。娘は母親のもっとも苛烈な批判者です。10代の自分自身がそうだったから、よくわかります。そしてそういう苛烈な批判者が自分の傍らにいたら、と想像するだけで身が竦みます。わたしが母になることを選ばなかった理由のひとつは、その恐怖でした。
これは憶測ですが、あなたが風俗の業界に足を踏み入れた理由のひとつに、母にとって理解できない存在になりたいという気持ちはありませんでしたか? 母に理解できない存在であるためには、まずあなた自身が自分で理解できない存在である必要があります。あなたはなぜあの業界に入ったか、たぶんうまく説明できないのでは。強いて言うなら「母が嫌ったから」とでも、言うでしょうか。
わたしは聡明な母を持った娘の不幸を感じます。聡明な母は娘を窒息させます。聡明であるということは、あなたのことはぜんぶわたしがわかっているわよ、ということ。逃げも隠れもできない透明な視界にさらされて、子どもは呼吸をする空間を失います。子どもがオトナになるということは、親が知らない影の部分を自我のなかにかかえこむということだからです。
聡明な母を持った子どもの不幸を知ったことで、わたしは自分の母が聡明でなかった幸運に感謝しました。子が親に求めるものが「愛か、理解か?」という究極の二者択一だとしたら、かつてのわたしは「お母さん、わたしは愛より理解がほしかったのよ」と答えましたが、あとになってから、理解が得られなくても愚直な愛を得られたことに感謝するようになりました。そして「理解がほしかった」のは、無いものねだりで、求める理由も必要もなかったのだ、と。そんなわたしにとって、母の磁場から離脱するのは容易でした。母はわたしを理解しなかったからです(愚直な愛の磁力から離脱するのは別な困難を伴いますが。とくに息子にとって)。
よく母親が飛び立とうとする娘や息子に言う「おまえを信じているよ」は、理解ではありません。「何かよくわからないが……」がその前段につきます。「母さんにはよくわからないが、おまえのやることだから、信じているよ」は、理解ではなく信です。そしてその信のもとにあるのが愛です。そしてそのような愚直な愛こそ、親が子どもに与えることのできる最大の贈り物なのです。
あなたのお母さんは、疑いもなく娘を愛していました。同時に、娘を理解したいと思っていました。だからこそ、というべきでしょうか、娘のあなたは母の理解できないこと、母がもっともイヤがることをあえて選んだのではないでしょうか。
あなたの母のことばを、あなたは自分の著書に書き記しています。
「あなたのことが許せないのは、あなたが私が愛して愛して愛してやまない娘の身体や心を傷つけることを平気でするから」
なんという引き裂かれた絶叫でしょう。
幸か不幸か、あなたは母親と対決も和解もしない前に、母を喪ったのでしたね。もしお母さんが長命なら……あなたのその後の人生の選択はどうなったでしょうか。あなたはこれからも成長するでしょうが、あなたの母の時間は止まったままです。その母とあなたは、死んだあとも対話を続けなければなりません。
ですが母を喪ったあと、もはや対抗すべき座標を失ったのだから、今、あなたは自由です。自由というのは目もくらむような無重力の状態をいいます。30歳を過ぎてまもなく母を喪ったあなたは、今ほんとうに「限界」に立っているのかもしれません。座標なしで踏み出す一歩を、どこへ向けるのか、と。
コロナの春の新緑のもとで 上野千鶴子
追伸
「先生」と呼ばれるのはごかんべんください。あなたの「先生」であったことは一度もありませんから。
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