7月7日に発売になった『読んでほしい』は、放送作家おぎすシグレ氏のデビュー小説。
せっかく書いた小説を誰にも読んでもらなえい中年男が、悪戦苦闘を始める――という物語だ。
え?それだけ?と思われるかもしれないが、読んでみたら、意外なほどの満足度に「マジか!」「やられたー!」と叫びたくなるはず。
前回は、序章を公開した。今回は、前回のラストから。はたして、この男に会った主人公の緒方はどうなるのか!?
* * *
芸術家に読んでもらおう! 編
電話をする。田川と話すのは三年ぶりだ。
彼が芸術家になると言い出してから十年は経つ。最初のうちは熱心に粘土細工を作っていた。しかし、一ヶ月ほどで何もしなくなった。彼の母親はとてもいい人で、田川を寛大な目で見守っていた。優しい母親に甘えて実家で過ごす田川を見るたびに、私は彼を叱咤(しった)していた。
だが今では私自身、仕事に追われ、自分のことで精いっぱい。田川のことを考える余裕はなかったのだ。
電話をかける。呼び出し音が鳴り、三コール目でつながった。
「緒方さん! 久しぶり」昔と変わらぬ陽気な声だ。
「久しぶり、元気にしてる?」
「元気ですよ。緒方さんは?」
「ああ、こっちも元気だ。仕事は?」
「相変わらず芸術に勤しんでおります」
「そうか。それはよかった。作品は?」
「ゼロ。ゼーロ」
……軽い。相変わらず軽い男だ。ちなみに二度同じ言葉を繰り返すのは彼の癖である。
久しぶりの電話だったので、まずはお互いの近況報告をする。田川はここ三年ほどはニートのような生活をしていた。芸術どころか食事すら作らない生活。誰が見てもわかるダメ人間の生活。
普段なら腹も立つが、今日は違う。
私の書き上げた小説を、彼なら読んでくれる。まさに、うってつけの人物だ。彼には時間がある。なぜなら彼は暇なのだから。
私は勇気を振り絞り、今回のお願いごとを言おうとした。しかし、言葉が出ない。自分の心に聞いてみる。なぜ言えないのか? 私は頭の中で思いを分析した。
答えは『恐怖』だった。
一生懸命書いた作品ではあるが、初めて書いたもの。書き終えた瞬間は自信があった。
しかし、今はない。もしこの男にボロクソに批判されてしまったら、私の心は崩壊してしまうかもしれない。
しかし、さらに考える。
だったら、このまま電話を切るのか? せっかく書いたものが誰にも読まれず、ただ自分ひとりで原稿の束を抱えてニンマリしているだけなんて、あまりに虚しくないか?
私は、やはり彼にお願いすることにした。
「今から、コーヒーでも飲みに行かない?」
「いや、今日は無理です」
なぜ? 君は暇ではないのか?
「どうして?」
「部屋の掃除があるんで」
嘘だろ? 三年ぶりだぞ。まだ小説の話はおろか、近況報告だって、うっすらとしか話していない。話すことは山ほどある。懐かしい話だってある。それなのになぜ? 何故に断る。
「掃除は今日じゃないと、いけないの?」
「そうですね」
そうなの?
「今日と決めていたので」
芸術家らしい答えだ。違う……横暴な答えだ。
「仕方ないね。じゃあ、また電話するね」
「了解です。また連絡してください」
「ありがとう」
私は電話を切った。数秒、時が止まった気がした。計算外だ。小説を書いたということを一言も伝えられぬ間に、会話が終わってしまった。
私の計算では、コーヒーを飲む約束をとりつけ、二人の大好きな喫茶店《ムギタ珈琲店》で待ち合わせをする。そして彼の前に分厚い原稿を置く。「何ですかコレ?」と驚く田川。そして私が「小説を書いたんだ。ぜひ読んでほしい」と彼に伝える。そして彼は「緒方さんの情熱は消えてないんですね」と私に握手を求める。固い握手。「読み終えたら感想を聞かせてくれ」と私が言う。そして間髪容れずに「はい、必ず」と田川が返す。
と、こういった流れで進む予定だった。
ありえない。彼は久しぶりの再会よりも掃除を選んだ。どうしよう。まだ誰にも読んでもらえていない。私は、ほかに読んでもらえそうな人を考えた。
先輩ディレクター、お笑い事務所のマネージャー、長年ともに仕事をしてくれている芸人さん、今も一緒に働いている後輩の放送作家。どの候補者達も私以上に忙しい。仕事の合間に読んでくれと軽く渡せるようなボリュームではない。相手にとってプレッシャーになってしまう。
やはり、あいつしかいない。なぜなら、あいつは仕事もなく暇なのだから。
私はやはり田川に照準を定めた。彼のLINEは知らないので、メッセージを送る。
『掃除は何時に終わりそう?』
メッセージを送ると、直ぐに返信があった。
彼からの返信メッセージを確認。
『一時間あれば終わると思います。その後、会います?』と書かれていた。
「なんだ、会えるんか」
私は即座にスマホにツッコミを入れた。
まあいい。当初の段取りとは違うが、彼に会うことは叶いそうだ。私は余裕を見て、二時間後に、家の近所にあるムギタ珈琲店で待ち合わせをしようと打診した。
この誘いを、田川は快く承諾。二時間後、ムギタ珈琲店で会うことになった。
約束をとりつけた私は、台所に行きコーヒーを淹れた。二時間後に喫茶店に行くのだが、関係ない。なぜならコーヒーを飲むために行くわけではないからだ。私はこれから、私の書いた小説を渡しに行くのだ。
気を落ち着かせるため、ベランダでコーヒーを飲みながら煙草に火をつけ、一服する。決戦は近い。
私は待ち合わせの時間よりも少し早めに店に入った。いつもと同じ光景。奥には常連の老夫婦がいて、トーストを食べている。客入りは悪くない。
いつものように窓側の喫煙席を選択する。日の光が気持ちいい。
近年、世の中は禁煙ブームなので、喫煙席は比較的空いている。煙草を愛する私にとって、禁煙の波はつらいが、いい席に座れるというラッキーもある。
私はいつもの席に座り、アイスコーヒーを注文した。赤色のソファー。木目調のテーブル。穏やかな日常。思い返せば、この席に幾度となく座った。小説のプロットを書き出したのも、そういえばこの席だった。自宅で文章を書き起こしている時も、行き詰まると、この喫茶店に来た。コーヒーを飲みながら煙草をふかし、アイディアを絞った。あの長かった戦いも終わった。あとは、書き終えた作品を読んでもらうだけだ。
時間が過ぎる。アイスコーヒーは半分以上減っていた。氷の溶けたコーヒーは味が薄い。
私は腕時計を見た。席に座ってから一時間が過ぎていた。よくあることだが、田川は今日も遅刻だ。しかし腹を立ててはいけない。遅刻したことを責めて原稿を渡せば、バイアスがかかってしまう。彼には、気持ちよくフラットな状態で原稿を読んでほしい。そうでなければ意味がない。今の私の一番の望みは読んでもらうことだが、同時に、第三者の率直な感想を聞きたいというのもある。私は、残ったアイスコーヒーを飲み干すと、もう一杯アイスコーヒーを頼んだ。こんなことになるなら、最初から百円高い『よくばりアイスコーヒー』を頼めばよかった。
カランカランと扉が開く音がした。田川陽介だ。彼は店内を見渡している。三年前と変わったのは髪型だ。ドレッドだった髪は綺麗に刈り込まれ、坊主頭に近い短髪になっていた。
田川は私を見つけると大きく手を振り、私の座るテーブルに駆け込んできた。
「遅くなってすみません!」
懐かしい。田川の遅刻癖は相変わらずだ。一緒に仕事をしていた時もそうだった。
「掃除に時間がかかってしまいまして、本当にすみません」
「いいよ。いつものことでしょ」私は優しく微笑み、彼の遅刻を許した。大丈夫。怒らないという精神は既にできあがっている。
「結構かかったね」
「ええ、実は一年ぶりに掃除をしたので。今は無茶苦茶、綺麗ですよ」
田川は掃除をした部屋の写真を見せてきた。白を基調とした美しい部屋だった。
「お洒落でしょ」
「確かにお洒落だ」
私は感心した。シンプルな部屋の中に観葉植物が主張しすぎない感じで置かれている。
芸術家というだけあって、センスのある部屋だった。
「緒方さんは変わらないですねぇ。あっアイスコーヒーください」
田川はいつも通り、自分のペースで語る。この勢いにはいつも尊敬させられる。自分の空気、自分の流れ。私とは違う。私はいつも人の顔色ばかり窺ってしまうところがあるの
で、彼のような、ある意味、他者の思惑を気にしないマイペースな人には憧れすらあった。
「あのさぁ」私は彼に声をかけた。
「緒方さん。そう言えば」
私の声は、彼の声に、かき消された。
「僕、見てもらいたいものがあるんすよねぇ」
見てもらいたい? 私が言うはずだった台詞を、彼は、いともたやすく私に投げてきた。
緊張して気付かなかったが、よく見ると彼は大きなカバンを持っていた。黒色のボストンバッグ。昭和時代のドラマなんかで銀行強盗が抱えているような大きなカバンだ。そのカンをテーブルの上にドシリと置いた。
「どうしようかな? 見せちゃおうかなぁ」
田川は嬉しそうな目で、私を見つめては逸らし、見つめては逸らし、ニタニタと笑っている。気持ちが悪い。でも、どこか憎めない可愛らしい表情でもあった。ついにカバンのファスナーに手をかける。一体何を出すのだろう。宝くじにでも当たり、札束でも見せてくれるのだろうか。ちょっとだけドラマチックな展開を期待している私がいた。
ジリジリとファスナーの音が響く。田川はカバンの中に手を入れ、中に入っていたものを取り出した。
白色の大きな物体が私の目の前に現れた。
「“愛ちゃん”です」
(「芸術家に読んでもらおう! 編」つづく)
読んでほしい
放送作家の緒方は、長年の夢、SF長編小説をついに書き上げた。
渾身の出来だが、彼が小説を書いていることは、誰も知らない。
誰かに、読んでほしい。
誰でもいいから、読んでほしい。
読んでほしい。読んでほしい。読んでほしいだけなのに!!
――眠る妻の枕元に、原稿を置いた。気づいてもらえない。
――放送作家から芸術家に転向した後輩の男を呼び出した。逆に彼の作品の感想を求められ、タイミングを逃す。
――番組のディレクターに、的を絞った。テレビの話に的を絞られて、悩みを相談される。
次のターゲット、さらに次のターゲット……と、狙いを決めるが、どうしても自分の話を切り出せない。小説を読んでほしいだけなのに、気づくと、相手の話を聞いてばかり……。
はたして、この小説は、誰かに読んでもらえる日が来るのだろうか!?
笑いと切なさがクセになる、そして最後にジーンとくる。“ちょっとだけ成長”の物語。
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