ヒリヒリとした言葉が突き刺さる、上野千鶴子さんと鈴木涼美さんによる『往復書簡 限界から始まる』が話題です。男女の非対称性がはびこる日本社会で女性が生きることに真正面から向き合う本書は、共感か、反発か、自分のなかで蓋をしていた感情が刺激されることは間違いありません。作家の花房観音さんもそんなおひとりだったようです。書評をご寄稿いただきました。
二人のやりとりを他人事だと思える女はいるのか
鈴木涼美という文筆家の存在を知ったときは、性の世界を傍観者として描き、女性から共感を呼び、男性に欲情交じりの興味を持たれる若い女の物書きがまたまた出てきたなとしか思わなかった。
まだ彼女が顔出しをしていない頃、友人男性が直接彼女に会って、「美人だ」とはしゃいでいるのを醒めた目で眺め、きっと「知的で美人の書き手」が大好きな人たちが持てはやすだろうなと思いながらも、手にとる気にはなれなかった。
そのあと彼女が元AV女優だと報道され、傍観者ではなく性の現場の当事者だったのかと少し興味を抱きはしたけれど、私が彼女の本を読むようになったきっかけは、母の死について書いた彼女のブログだった。
そこには、好き嫌いに収まらない、複雑な母娘の愛が綴られており、静かな悲しみに満ちていた。素晴らしい文章だった。
「元AV女優」でありながら高学歴、新聞社勤務という肩書で鈴木涼美は世に出て、次第に愛や性というカテゴリーを超えたジャンルで旺盛に執筆をはじめた。
そんな彼女のペンネームの由来が、鈴木いづみだと知ったときは、うっすらとした不安も覚えた。ヌードモデルやピンク女優を経て作家になり、のちに薬物の過剰摂取で死んだ夫との間で足の小指切断事件などを起こし世に騒がれ、三十六歳で首を吊って亡くなった、ある時代の象徴のような存在。そのエキセントリックで過剰な脆い美しさに鈴木涼美が焦がれてその名に近づけたのならば、繊細で破滅的な人生を選ぶのではないかと勝手に心配もした。
人前に出ることは、傷つけてくれと言っているようなものだし、ましてや肌を晒すのは、砲弾の前に立つようなものだと思うことが、ときどきある。性的な記号を纏うと、浅い優越感のために侮辱しようとする者や、味方のふりをして支配したがる輩が湧いてくる。
だが彼女は、負の視線を跳ね返すように胸の谷間も堂々と晒し、しなやかにあっけらかんと、活動の場を広げているように見えた。鈴木涼美は同情を纏わない当事者であるがゆえに、ときどき発言が批判もされるが、私は彼女のその「強さ」が好きだった。
鈴木涼美と、日本で一番有名なフェミニストである上野千鶴子の往復書簡の連載がはじまると聞いたときに、まず最初に「よくもまあ、鈴木さんはめんどくさいことを引き受けたな」と思いながらも、この組み合わせを思いついた編集者を称賛したくなった。
「めんどくさいこと」と、まず考えてしまったのは、私自身の中に、フェミニズムを含む女の諸問題について語ること厄介だとという意識があるからだ。SNSを眺めていると、しょっちゅうそれらの議論、ときにはただの罵り合いがなされているが、双方が納得して解決しているのなど見たことがない。理解し合うどころか、断絶が深まるのを目の当たりにすると、気持ちが暗くなる。
私自身が、「AVが好きで文筆家になり、官能小説でデビューをした」、つまりは男性向けポルノにどっぷりつかり、現在も携わっている立場だからこそ、男と女のことを考えれば考えるほど矛盾が生じ、引き裂かれる。男の欲望に添うことは、女を侮蔑し、母性を押し付け、都合の良い存在に仕立て上げがちで、それがまた、「創作物だから現実とは関係がない」と言い切れないし、分断しか見えない。だから目をそらしたかった。
最初にこの本を読み終えた際には、「しんどい」のひとことしかで出なかった。私が意識的に見て見ぬふりをしていた女の諸問題が、突きつけられる。ふたりの筆から語られるものを、他人事であると距離を置ける女が、どれだけいるだろうか。
私にとっては「強い女」であるはずの鈴木涼美は、冒頭から、上野千鶴子に、言葉で解体され傷を暴かれる。その過程は私にとっても、逃げ場を無くされ言葉を奪われたような感覚があった。
それでも上野千鶴子の手のひらの上の戦場で、鈴木涼美は、自分が持てる言葉を繰り出し、果敢に向き合い続ける。だから読み手も、逃げることは許されない。母との関係、仕事、結婚、連帯、フェミニズムと、章を読み進めるごとに喉元をぎゅぅっと締め付けられる感覚がある。一度読み終えて、二度目にページをめくるまでに時間がかかったのは、エネルギーを消耗してしまったからだ。書評の依頼がなければ、ここでもう終わりにして、厄介な本だと本棚の奥にしまい込んで終わりにしていただろう。
二回目は、ふたりの言葉を拾いながら読んだ。付箋を貼り、メモに書きだした。そうすると、最初に読んだときには気づかない、救いの言葉が散りばめられているのがわかる。そしてその言葉の多くは、私を追い詰めた側の人間であった上野千鶴子により書かれたものであったのだ。上野千鶴子は鈴木涼美を解体し、母や男の手から離れたひとりの人間として生きさせようとしている。それは同時に私を含む、多くの女にさしのべられた手でもあった。
この本は、女を救う。けれど、だからこそ、男はどこまで女の傷や痛みや、自分たちが無自覚にふりまわす刃の恐ろしさをわかってくれるのだろうかとも考えると、やはり理解などしあえないまま、ただ傷つけあうだけの戦いしかできないのかと絶望的な気分にも陥る。
あとがきで「本書は男の読者に届くとはあまり期待できない」と、上野千鶴子が述べているのを読んで、上野さん、あなたも本当は男に絶望しているのではないですか、とも問いかけたくなった。
私はかつて、「男に性的な対象にされない」ことで強い劣等感を抱き、セックスで金銭の対価を得て商品になることにより、救われた。それは愚かな救済かもしれないけれど、そのときの自分にはどんなきれいごとよりの生きる力になった。人間扱いなどされぬ、ただの穴として必要とされただけかもしれないけれど、それでもよかった。そうして自らを貶め男に添うことで、自分と社会との間に折り合いをつけ生きてはきたけれど、戦いを放棄することによって深くなった傷もあるのを、この本を読んで思い出してしまった。
そう、私もまた絶望しているのだ、男に。
さんざん男の目を気にし、恐れ、軽蔑して、それでも求めずにはいられない男に、絶望しながら生きている。
この本を読み、繰り出されるふたりの言葉が響けば響くほど、絶望を思い知るが、もしかしたらその絶望こそが「限界」なのかもしれない。
限界からはじまる、はじめることは、果たして可能なのだろうか。
その答えは、これから鈴木涼美という書き手が示してくれるであろう。その未来が見えたのは、確かだ。
往復書簡 限界から始まる
7月7日発売『往復書簡 限界から始まる』について
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