カトリック、プロテスタントと並び、キリスト教の一大宗派である「正教」。1054年に東西へ教会が分裂して以来、正教(ギリシャ正教)はオーソドックスな信仰と生活を守り続けています。
その聖地であるギリシャ北部のアトスは、家畜さえ雄のみという厳格な女人禁制の土地。紀行エッセイ『雨天炎天』で村上春樹さんが訪れたことでも有名な、天国のモデルともいわれる神聖な場所です。
日本人で初めて聖山アトスで司祭としてケリ(修道小屋)で祈りを捧げることを許可された著者による『ギリシャ正教と聖山アトス』の発売を記念して、内容を一部紹介いたします。
※9月16日(木)に、刊行記念のオンラインイベントも実施します。1000年近く変わらない聖地での暮らしについて、直接聞ける貴重な機会です。ぜひご参加下さい。
* * *
キリスト教の原点であるギリシャ正教とは
ギリシャは私達日本人にはよく知られた国です。オリンピック発祥の地であり古代のポリス社会の民主制について歴史の授業などで知る機会があります。
古代都市の遺跡、神殿や円形劇場、体育施設などの建築、哲学、文学、芸術などの文化的偉業の数々、これらによって日本人の「ギリシャ」のイメージがつくりあげられています。
首都アテネを訪れれば、パルテノン神殿の偉容に目を奪われるし、盛夏に古代劇場で上演されるギリシャ悲劇に熱狂するギリシャ人達を目にすると、現代のギリシャ人は、古代ギリシャの精神性を色濃く受け継いでいるかに見えてきます。
もちろん古代ギリシャの先せん達だつとその偉業には並々ならぬ誇りをもっているのですが、ギリシャ人のこころは、むしろキリスト者としての「愛」と「自由」にあるのです。使徒パウロのギリシャへの伝道以来、東方キリスト教、すなわち正教の信仰と生活がギリシャ人のこころなのです。
キリスト教は、正教、カトリック、プロテスタントという三つの宗派に大きく分けられます。正教信徒は、正統的(オーソドクス)な信仰とそれに基づく生活を守り続けてきました。
西洋史では「シスマ(分裂)」と呼ばれ知られていますが、1054年に東西キリスト教会の分裂がありました。この時カトリック教会が独自の道を歩み始めてから、またその後宗教改革をきっかけにプロテスタント教会がカトリックと袂たもとを分かったのちも、正教は初代教会以来変わることなく正統的な信仰を守り続けてきました。
現在ギリシャ共和国民の9割以上は正教徒です。そして、聖山アトスは、正教の信仰と生活を1000年以上、忠実に守り続けてきた正教修道院が統治する自治共和国です。
ギリシャ人の精神の支柱は正教の教え
さて、日本ではギリシャ人がキリスト教徒であることはあまり知られていないようです。これは日本においては、ギリシャ文化が古典古代に偏ったかたちで紹介されてきたからでしょう。近代国家としてのギリシャの独立は1830年です。それまで様々な国家の支配を受け続けるなか、多くのギリシャ人達の絆きずなは、ギリシャ文字を用いギリシャ語を話すこと、そしてギリシャ正教徒であることだったのです。
しかし、かく言う私も哲学者プラトンが描くソクラテスの問答法に興味をもち、哲学を専攻し、古典ギリシャ語や、西洋古代哲学を学ぶことになった一人です。大学に勤めて1年間の在外研究の機会がめぐってきた時、行き先は迷うことなく哲学の源流の地ギリシャでした。
滞在中、親しくなったギリシャ人のご家庭にお世話になり、教会に通う機会が生まれ、正教徒であるギリシャ人に、次第に深く関わることになりました。
正教徒としての生活を、私に伝えてくれたのは、ホームステイをしたお宅のご家族だったのです。ある日の朝食では、硬くて平たいパンを食べなさいとすすめられました。その日はあの賑やかなカーニバル(冷蔵庫にある肉を食べ尽くす日)を終えたあとの大斎おおものいみの初日となる月曜日だったのです。
キリスト教には断食の習慣があるのです。大斎おおものいみとは正教徒が肉、魚など、決められた食物を制限して、キリストの受難を体験しつつ、喜びの復活祭を待つ大切な準備期間です。
ギリシャでは、この大斎おおものいみの初日をカサラ・デフテラ(清浄な月曜日)といって、イーストを入れずに焼いたパンを食べる習慣がありました。その時、キリスト教に断食や節食の習慣があることを初めて知ったのです。
私は正教徒の生活に興味をもつようになり、正教の習慣に体験的に関わっていきました。「明日の朝は教会に行きましょう」と、声をかけてくれるのです。
今朝は洗礼があるから、今晩は結婚式があるから(ギリシャは夏暑いので結婚式は夜)、今日は特別なお祭りのお祈りがあるからと頻繁に誘われるようになりました。
正教の生活を体験するようになって、最初に興味を寄せたのは、正教会のお祈りの「言葉」が古典ギリシャ語だったことです。そして、教会暦に基づいた様々なお祭りや生活習慣があることも知りました。
帰国してからは、正教徒になることを視野に入れてニコライ堂での伝道会に通い、聖堂でのお祈りに加わりました。
その後、ギリシャ語の祈き禱とう書を手にしました。それは学生のころから格闘してきた古典ギリシャ語です。正教会の祈禱書は世界共通で各国語に訳されています。私にとっては日本語ではあまりよく理解できなかった部分なども、ギリシャ語版を参照することによってはっきりとしたことがいくつもありました。
ギリシャ哲学ではたどり着けなかった「真の救い」
やがて日本の正教会で洗礼を受け、興味を寄せていた聖地アトスを訪れたことが、大きな転機になりました。
そのころから研究の軸足は東方キリスト教へとシフトしていきました。正教会の祈りの体験をもとにした奉神礼ほうしんれい(典礼)研究も始めました。
もうひとつ、ギリシャ哲学から東方キリスト教へと研究の軸足を移すに至った理由があります。それは、哲学を学んでも自らの悔い改めや救いには、直接は結びつかないことでした。
もちろん哲学に救いの要素が全くないとは言えません。プラトンの初期対話篇は、師ソクラテスを登場させ、私達が現代を読み解くための実践的な示唆を与えてくれました。
しかし、悔い改めによる「真の救い」は神とのかかわりにおいてのみ得られるものです。
初期対話篇に登場するソクラテスから自己を超えた存在とのかかわりを垣間見ることはできますが、ギリシャ教父達の著作に向き合うにあたっては、厳然として信仰者たる自己、そして神とのかかわりにおける露わな自己がそこにいなければならないという大きな違いがあります。
ギリシャ教父達のテクストは、自己の変容、すなわち神に相応ふさわしくあるために悔い改めをしていく自己があるという事実があって、初めて読み解いていくことができるのです。
自分の信仰の体験を重ねてこそ、ようやくそのテクストが語りかけることを感得(知的な「理解」ではなく)できるものです。私は次第に、祈りの現場に身を置いて、師父達のテクストと対たい峙じしたいと思うようになりました。
やがて、洗礼を受けてからは、人とのかかわりにおいても、今までとは大きく異なっていきました。私が正教徒であることに対して見せたギリシャ人達の反応は、未信徒で研究のために訪れた時とは、明らかに違っていました。「あなたは正教徒だったのか」と笑みを投げかけてくれました。
そのころは家族のなかで正教徒は私だけでした。ギリシャ人は、ともかく話好きで、列車のボックス席に座れば、相手が外国人でも、黙ったままで向き合ってなどいられません。「ところで、お前はいくつだ」「どこから来たのか」「仕事は何をしているのか」「なぜギリシャに来たのか」……「本当に正教徒なのか」「それは珍しいな」「日本には正教徒はどのくらいいるのか」等々です。
そして、家族のことに話が及び、私だけが正教徒だということがわかると彼らは突然真面目な顔つきになって口を揃そろえて言うのです。「このまま家族が死んでしまったら、(正教徒の)お前とは違うところに行ってしまうのだけど、それでいいのか?」と。
死は終わりではなく「通り道」である
ここにはキリスト教徒のもつ死生観が明確にあらわれています。それがこの国の人達には、しっかりと共有されていることに驚きました。
すなわち、私達の「死」はすべての終わりではなく、やがて天国で永遠の生命を得て、家族とともに住まうための「通り道」であるという、キリスト教徒にとって、ごく当たり前の死生観をギリシャ人達は共有していました。
さて、このころから、ギリシャ語の祈りの「言葉」への興味を契機として、修道院でのお祈りはどういうかたちで行われているかということがますます気になり始めました。正教会の祈禱書は世界共通です。邦訳祈禱書と同じ流れで、ギリシャでも、ロシアでも、聖堂(教会)では同じお祈りが行われています。そして、最も大切な聖体礼儀の祈りを、身近なギリシャの修道院でしてみたいという気持ちが高まりました。
本書は、約20年間、最長6ヶ月間の巡礼の体験をもとに書いています。とりわけ復活祭や降誕祭、修道院の大祭日(パニギリ)を中心として修道士達と過ごした日々、わが国ではあまり知られていないギリシャ正教の信仰生活の実際と教義についてまとめました。
女人禁制の聖地、アトス
聖山アトスは、ギリシャ国内にあって、同国の憲法によって外交以外の自治を認められている女人禁制の地域であり、963年にこの地に修道院が創建されて以来、現在も神に生涯を献ささげる人達が住まう楽園、天国のモデルです。
すべての修道士達は祈ることを「仕事」として、この地で生涯を終えます。聖山アトスは、限られた期間入山してやがて世俗に戻って聖職者となるための修行の場ではありません。
聖山アトスがどのような世界なのか。修道士達にとって、そして私にとって、なぜ正教なのか。今正教がどのような意味をもつかについて、修道士達から伝えられた多くのメッセージをこめつつ、私の体験を交えてご紹介していきたいと思います。
正教信仰の根幹となるものは神学理論の知的な理解ではありません。むしろ、建て前や理屈にとらわれることなく、神の前に偽らざる自己を置き、自らにしっかりと向き合う姿勢のもと、神に相応しい生活を送り、自らの変容、すなわち悔い改めを重ねる実践的な道行きが求められます。修道院はそういった生き方をする競走者の集まりなのです。
こうして、私はアトス巡礼を重ねているうちに、研究者、教師としての仕事の道半ばにありながら、正教会の神父という第二の人生への助走を始めていたようです。
さて、日本にこのギリシャ正教が伝わったのは、それほど遠い過去ではありません。ロシア正教会の司祭ニコライ・カサトキンが箱館を拠点に布教活動を始めたのが1861年です。ニコライはのちに日本正教会の指導者となり、神田駿河台にニコライ堂(正式名称は「東京復活大聖堂」)を建て(1891年)、明治期に基本的な祈禱書の和訳をし、それらは現在も日本正教会の祈りで用いられています。ニコライ大主教は1912年に永眠したのちに聖人に列せられ、その聖遺物である不朽体(遺骨)はニコライ堂に安置されています。
私は、聖山アトスで半年間、祈りの日々を過ごす機会を、修道院長から特別にいただくことができました。滞在を終えて帰国の途に就こうとすると、親しくしていた長老修道士が近寄ってきて「君は、ここでの生活で見聞きしたことを、日本の人々に伝えなさい。それが使徒としての君の役割だ」と励まして、別れを惜しんでくれました。この言葉がこころに残り、今本書をまとめることにつながっています。
本書のために、次男ニコラオスは、アトス政庁から撮影許可をいただき、私の度重なる巡礼に同行し、正教徒としての視点から映像を残してくれました。