カトリック、プロテスタントと並び、キリスト教の一大宗派である「正教」。1054年に東西へ教会が分裂して以来、正教(ギリシャ正教)はオーソドックスな信仰と生活を守り続けています。
その聖地であるギリシャ北部のアトスは、家畜さえ雄のみという厳格な女人禁制の土地。紀行エッセイ『雨天炎天』で村上春樹さんが訪れたことでも有名な、天国のモデルともいわれる神聖な場所です。
日本人で初めて聖山アトスで司祭としてケリ(修道小屋)で祈りを捧げることを許可された著者による『ギリシャ正教と聖山アトス』の発売を記念して、内容を一部紹介いたします。
※9月16日(木)に、刊行記念のオンラインイベントも実施します。1000年近く変わらない聖地での暮らしについて、直接聞ける貴重な機会です。ぜひご参加下さい。
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世界遺産のなかでも貴重な「複合遺産」である聖山アトス
ギリシャ北部に位置するアトス半島。ギリシャ人達は、「アトス」という名称を用いず、格別の思いをこめて「アギオン・オロス(聖山)」と呼びます。
ここは、地上に在りながらも世俗を超えた「聖なる山」であり、祈りの生活を貫く男性修道士だけが正式に籍を置くことができる聖地です。
修道士となるには、まず見習いとして祈りの生活にはいります。強い信仰と終生祈りの生活を続ける意志が確認できなければ、修道院長の祝福(許可)は得られません。早い人もいれば、そうでない人もいます。ギリシャ共和国憲法によれば、修道士となるにはギリシャ国籍も取得する必要があります。
聖山アトスはユネスコの世界遺産のうち、数少ない「複合遺産(「自然環境」と「人間の文化的いとなみ」)」として登録されています。アトスの修道士達の、神に向かういとなみそのものも遺産として登録されています。
そして、正教徒の巡礼者達も、この聖地に相応しい存在として、神に向かうこころを整え、修道士による自治政府から特別な許可証をいただいて、初めて入山することができます。
現在訪れる巡礼者は、年間10万人を超えていて、正教徒の成人男子と、その付添のある未成年男子であり、かつリピーター(10~20回以上の入山も稀ではない)が多いのが特徴です。
非正教徒(異教徒と他教派のキリスト教徒)の入山は1日10名しか認められていませんが、最近はそれも緩められつつあると聞いています。
巡礼者は約4000円の入山料のみを支払えば、3泊4日まで無料で滞在が認められます。滞在中は修道院の宿坊に寝泊まりし、祈りに加わり、食事(1日2食の精進料理)が提供され、修道士達と生活をともにしつつ語らうことができます。さらに希望すれば滞在延長も認められます。
聖山は963年、半島先端部にあるメギスティス・ラヴラ修道院が創建されて以来、20の修道院を擁し、現在も約1700人の修道士が祈りの生活を続けています。
1046年、ビザンティン帝国のコンスタンティノス9世は帝国の公式文書(ティピコン)をこの自治領に公布し、この修道院自治区の行政的な規則となりました。内容はビザンティン帝国の宦かん官がん(去勢されて官職に就いた者)や髭ひげのない者の入山禁止措置、修道院の財産の管理、商業活動のルールなどに及び、現在も有効です。
家畜でさえ雄のみ。徹底した女人禁制
聖山アトスは生神女(神を産んだ母)マリアを統治者としていることもあり、この時期から「女人禁制( アバトン)」が公式化しました。文書は女性の入山禁止について、直接は述べていませんが、女性が修道院に入れないことは周知の事実だったので、そのまま慣習化したとされています。
また、文書のなかに、「家畜の飼育の規制(繁殖ができない)」の事項があり、これによりアトスでは荷物運搬や農耕などのための馬や騾ら馬ばも雄しかいません。
ただし、猫だけはネズミ退治のために繁殖が許されていますが、それがどの時期からなのかわかっていません。トラペザ(食堂)担当の修道士達が、食事のあと、中庭に集まってくる猫達に餌えさをやるすがたを目にします。
アトスは半島部ですが、世俗世界との境界部を越える陸路は遮断されているので、船で半島の中央部にある港まで一島嶼とうしよのごとく渡ります。
修道院へは日没までに到着しなければ、それ以後、門は固く閉ざされて滞在はできません。巡礼事務所の注意事項によると野宿は禁止ということになっています。
アトスではユリウス・カエサルの制定した旧暦を今も用いていますので、現在のグレゴリウス暦から13日の遅れがあります。時刻も約6時間進んでいるビザンティン時刻を使用しています。
天国という名の港町から聖山アトスへ
大型のバックパックに、祭服や黒衣と書籍等を詰め込んで、聖山アトスへの入口となるウラノポリ(「天国」という意味)という港町にはいったのは、小雪のちらつく2月初旬でした。夏はリゾート地として多くの観光客が訪れる町なのですが、冬はほとんどのホテルや食堂などは閉じていて、海辺のテラスは枯れ葉が舞い閑散としていました。
ウラノポリという地名は、まさしく天国への入口の町という意味だという理解があります。アトスへはいった巡礼者達が、修道院の厳しい日課や食生活の体験に辟へき易えきして、やれやれと戻った世俗の世界をむしろ天国と感じた結果だと言う人もあります。この町のいわれについて、いずれの解釈も、巡礼者達それぞれの実感がこもっています。
復活祭前の約40日間、復活祭、五旬祭など大きな行事が連なる約半年間、正教の祈りの最も濃密になる期間に、アトス最古のメギスティス・ラヴラ修道院への滞在が実現しました。アトス半島の先端近くに位置していて、聖人アタナシオスによって開かれ、所属する修道士が最も多い修道院です。
この修道院に至るには、ギリシャ北部の大都市テッサロニキからバスで約3時間かけて港町ウラノポリへ。そこから船で約2時間かけてダフニという港へはいります。さらにバスで30分登ったところが首都カリエスで、そこから30キロは徒歩か、ミニバスで未舗装路を揺られて2時間半かかります。事前に自治政府であるアトス政庁が発行する入山許可証(いわゆるビザ)を取得した男性でなければ船に乗れません。
翌朝、巡礼者事務所で許可証を受領して、アトス半島中部のダフニ行きの乗船券を求めるために、港のチケットショップにおもむきました。通常はパスポートを見せて買うのですが、この日は求められませんでした。渡されたチケットを見ると、乗船者名簿に「MONAKOS A.(修道士A)」とありました。修道士=monkを意味するギリシャ語「モナコス」は「一人」という意味です。修道士は財産や家族など世俗にかかわるものすべてを棄てて、ただ一人、神と向き合い生涯祈りの生活を送る立場になります。
私は修道士と同じ黒衣にスクフィアと称する帽子をかぶり、修道士用の防寒コートを着ていました。チケットショップの男性は、私がカウンターに近づいても、ちらっと視線を向けて黒衣姿を確認しただけで「エナ(一人なの)?」と聞いて、名前も確かめることなく発券(それも修道士割引)のキーボードを叩いていたように思えました。
修道士は修道の誓願を立てて、それを確認する剪せん髪ぱつ式という儀式を行う時に、この世の名前を棄ててモナコスになります。古い衣服を脱ぎ棄てて、生まれかわって新たな名前をいただき(いわゆる苗字もない)、天国への階梯を上っていきます。アトスで生涯を終わると、遺体は黒衣の上に黒布で包み、仮の墓地に地中浅く埋葬され、約3年後に掘り返して遺骨のみを取り出し、来るべき復活の日を待って、キミティリオンと呼ばれる「眠りの場所(いわば「寄せ墓」)」へ安置されます。