小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。
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源内の一番の功績は西洋画を広めたこと
平賀源内というと、「エレキテル」を発明したというイメージが強い。でも現在の日本史教科書で、源内の功績として最も重要視しているのは西洋画を広めたことなのである。たとえば「西洋画の分野で最初に平賀源内が油絵を描き、司馬江漢は源内に学んで銅版画を始めた」というように書かれている。杉田玄白らが西洋の解剖書を最初に翻訳した『解体新書』には、精巧な人体解剖図が掲載されている。これを原典から見事に写しとった小田野直武は、源内の弟子なのだ。彼は秋田藩士で、源内は秋田に蘭画(西洋画)を広めている。
とはいえ、やはり平賀源内は発明家としての印象が強烈であろう。そんな源内は、享保13年(1728)、高松藩の足軽の家に生まれた。非常に頭のいい子で、12歳のとき、掛け軸の天神様に御神酒を供えると顔が赤くなる「おみき天神」と称するカラクリを発明して『天狗小僧』という異名をとった。父の死後に平賀家を継いでいたが、学問で身を立てようと考え、26歳のとき妹・里与の婿に従弟の権太夫を迎えて平賀家を継がせ、28歳で江戸へのぼり医師・本草学者の田村藍水(元雄)に師事した。
本草学というのは、貝原益軒の項目でも軽く触れたが、動植物・鉱物の名前や薬効を研究する学問で、現在でいえば「薬学」や「博物学」に近いもの。さらにスゴいのは、師の藍水を主催者として、日本で初めて「薬品会」と称する、いまでいう「物産展示即売会」、「小さな博覧会」を開いたことである。
これは大評判となり、その後は源内自らが主催者となって何度も開催された。これによりにわかに人脈が広がるとともに、源内の名も知られるようになった。すると源内を高く評価した高松藩は、正式な藩士として三人扶持を与えて再び召し抱えたのである。31歳のときのことである。
ただ、ここから源内の波乱万丈がはじまる。高松藩に召し抱えられた源内は、藩にこき使われるようになった。その束縛が煩わしくなって「藩を離れたい」と申し入れたが、なかなか応じてくれない。ようやく宝暦11年(1761)に離れる許可を得たが、ただし、「仕官御構い」がその条件とされた。この措置は、旧主家による再就職の禁止ということ。つまり、幕府や大藩に仕官する道が絶たれてしまうのだ。
ヒットした「金唐革紙」
それでも学者として楽に生きていけると確信していた源内だったが、安定収入のないまま世を渡っていくのは、並大抵のことではなかった。
源内は燃えない布である「火浣布」、水平を調べる「平線儀」、「寒暖計」、「焼き物」などの新しい製品を続けざまに製作して世に出したが、こうした発明の数々は生活費を稼ぐためでもあったのである。ほかにも「羊毛生産計画」をたて、羊を手に入れ飼育しようとするが失敗したり、銀山・銅山の開発や探索などもしたが、これもうまくいかなかった。
ヒットしたのは晩年の安永4年(1775)ぐらいからはじめた「金唐革紙」細工である。金唐革とは、なめし革に金箔や銀箔などを張り付け、さまざまな模様をプレスして色彩をほどこしたもの。主にヨーロッパから輸入され、煙草入れなどの素材として珍重されていた。源内は、この金唐革を和紙で代用してつくろうと思い立ち、金唐革紙を作製。これが飛ぶように売れ、職人を数人雇って大量に生産した。源内が自ら作製して知人に送った金唐革紙の文庫も現存する。ただ、本人が露命をつなぐための「賤しき内職」(『放屁論後編追加』)と述べているように、彼の本意ではなかった。いずれにせよ、多様なジャンルに手を染め、奇をてらってさまざまな発明品をつくったのは、悲しいかな、生活費を稼ぐのが最大の目的だったのである。
なお、本来の仕事は学者。ゆえに本草学の書籍を刊行したが、文才もあったようで、それとは別に江戸時代の俗文学「戯作」に手を染めている。独立間もない35歳のときには『根南志具佐』『風流志道軒伝』の2作を発表してヒットしている。それからの源内は、戯作や浄瑠璃の脚本、果ては『長枕褥合戦』といった官能小説のようなエッチな文章にまで手を染めていく。
見世物にしたエレキテル
さて、エレキテルが登場するのは、源内の晩年のことである。エレキテルとは、オランダから輸入された「摩擦起電機」だ。四角い箱から突き出た金属の2本のヒゲの間に発生する静電気を利用して、人の病気を治療する医療器具。壊れたものを譲り受けた源内は、職人の弥七に細工をさせて7年もの歳月を費やして、安永5年に復原に成功したのである。よく源内は「エレキテルを発明した」というが、それは正確ではなく、「復原に成功した」というのが正しい。
その復原したエレキテルを元にいくつか複製品をつくって、源内はこれを「見世物」にしてお金を稼いだ。人びとは、エレキテルから電気や火花が出るのに仰天し、すぐに評判となり、ついに大名家までもが源内にエレキテル実験を所望するようになった。
こうして懐が豊かになったのもつかの間、他にエレキテルを模造して見世物にする者が現れたのである。これでは商売あがったりだが、この模造品づくりに手を貸していたのは、あろうことか、職人の弥七だったのである。さらに弥七は、エレキテルを製造する資金だと語り、人びとから金を集めていたのだ。これに激怒した源内は、弥七を役所に訴えたが、告訴したわずか1年後、死去してしまう。
晩節の研究 偉人・賢人の「その後」
小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、小林一茶、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。