小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、小林一茶、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。
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精神的に不安定だった一休
大人になった一休さんは、生臭なうえエロ坊主である。
そんなことを書くと、たぶん読者諸氏は驚くであろう。場合によっては怒るかもしれない。だって、自分が抱くイメージをぶちこわされたからだ。
一休といえば、テレビ朝日で放映されていたアニメの影響で、とんちの得意な可愛い小坊主だと信じている人が少なくない。たぶん「スキ、スキ、スキ、スキ、スキ、スキッ、一休さん~♪」という主題歌が頭の中に流れてくる方も多いだろう。
ちなみにアニメの内容は、江戸時代に成立した『一休咄』や『一休諸国物語』などが素材になっている。ただ、一休が死んで二百年経ってから成立した書物なので、こうしたとんち話は、とても史実とは思えない。
一休宗純は、明徳5年(1394)正月元旦に生まれた。縁起の良い誕生日だが、その生育歴は悲惨である。母親は南朝の遺臣・花山院一族の娘で、彼女は密かに北朝の後小松天皇の宮中に入り込んで天皇の寵愛を受けた。一説には、南朝方の刺客として後小松天皇のもとに送り込まれたといわれる。
いずれにせよ、妊娠中に彼女が南朝方の人間であることが発覚して宮中から追い出され、京都の民家で一休を出産しなくてはならなかった。つまり、一休は天皇の実子、皇子なのである。
だが、こうした複雑な事情から、6歳になると一休は母と離れて仏門に入ることを余儀なくされた。少年時代は、京都の建仁寺などいくつかの寺で清叟師仁に師事して禅の修行に励んだ。しかし、この時期の一休の具体的な逸話はまったく伝わっていない。
やがて一休は、妙心寺関山派の謙翁宗為のもとで、5年間の修行に入った。しかし、21歳のとき謙翁が亡くなってしまい、希望を失った一休は瀬田大橋から飛びこみ自殺をしようとしている。幸い制止してくれる人がいたので死なないで済んだが、文安4年(1447)にも譲羽山で飲食を絶って自死をとげようとし、後花園天皇の勅語によってその行為を止められている。2度の自殺未遂からわかるように、かなり精神的に不安定なところがあったようだ。
ひねくれ者ゆえの奇妙な言動
22歳から近江国祥瑞庵に住む華叟宗曇(臨済宗大徳寺派の高僧)の弟子となり、めきめきとその力量を上げ、27歳のときに大悟(悟りを開く)を証明する印可状を授けられた。
だが、中年以降、一休には常軌を逸したように思える「風狂」な言動が目立ってくる。
たとえば応永29年(1422)、言外宗忠(大徳寺七世)の33回忌が盛大におこなわれた。このおり禅僧たちがみな美しい袈裟を身につけて居並ぶ中、なんと一休はボロボロの衣装を身につけて会場に現れたのである。驚いて人びとがその理由を尋ねると、「私がこのような格好をすれば、さぞかし皆々様方が引き立つと思いまして」と言い放った。強烈すぎる皮肉であった。
こんな話もある。
一休は、僧侶のくせになぜか剣を腰に差してよく町をブラブラと歩いていた。しかし鞘の中にあるのは木刀だった。町の人びとは「どうして、お坊さんなのにそんな奇妙な格好をされるのか」と尋ねた。
すると一休は、「いまの禅僧たちは、この木剣と同じさ。部屋に飾っておけば、鞘に入っているから真剣に見えるが、持ち歩いていても人は殺せない。もちろん、活かすこともできないのだ」と役に立たない禅僧を馬鹿にしたという。
さらに、悟りを開いた証拠である「印可状」を簡単に与える風潮に不満を持ち、永享9年(1437)には、華叟宗曇からもらった印可状を皆の前でびりびりに破り、火をつけて燃やしてしまっている。
性欲旺盛なエロ坊主
だが、一休の残した文章や当時の記録を見るかぎり、彼自身も決して僧として褒められた生活を送っていたわけではなかった。
平然と「破戒」をおこなっているのだ。彼のつくった漢詩を見ると、よく酒を飲み、肉を食べ、なんと、遊郭に通っては女性を抱いていたようなのである。
にわかに信じがたい話だが、一休の詩集『狂雲集』には、遊郭での美女との抱擁やキス、女性器やセックスを描写した作品が少なくない。
たとえば、ある詩のタイトルは「吸美人婬水」と名づけられている。「婬水」というのは、女の愛液、いわゆるラブジュースのことなのである。なんとも驚きの題名だろう。
「美人陰有水仙花香」という詩のタイトルも、その意味するところは「美人のあそこは水仙の香りがする」という刺激的なもので、詩中の「花綻一茎梅樹下(花はほころぶ一茎梅樹の下)」という一節は、一茎が陰茎(ペニス)、花は女性器をさし、性交を比喩で表現したものだといわれている。
また「大灯忌宿忌以前対美人」と題した詩を意訳すると、「今日は大徳寺開山の忌日で、多くの僧侶が読経している。その声がうるさくてたまらない。さっき美女と性交したばかりで閨で笑い合っていたのに、その余韻をぶち壊すなよ」という内容になる。
一休は晩年になっても性欲が衰えなかったようで、78歳の頃に森女という40歳くらいの目の不自由な女性と出会い、彼女を真剣に愛して死ぬまで生活を共にしている。そんな森女との交情をうたったのが、先の婬水の詩なのだ。その一節に「満口清香清浅水(口に清香清浅の水を満たし)」とある。つまり、一休は森女の良い香りのする愛液を口いっぱいに満たしたと告白しているのである。
晩節の研究 偉人・賢人の「その後」
小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、小林一茶、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。