小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。
* * *
健康オタクだった家康
最近はテレビ番組もCMも、またインターネットや雑誌・書籍でも、健康について扱うことが激増している。
だって、それはそうだろう、日本は世界一の高齢化社会なのだから。現在、60歳以上の人は4千万人もおり、5人に1人が70歳以上だ。こんな老人国家ゆえ、当然、最大の関心事は健康である。ただ、健康でいられる時間は意外に短い。「健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間」を健康寿命というが、現代日本人(男性)の健康寿命は約72歳なのだ。定年(60歳)からたった10年ちょっと。最近は65歳まで働くのが当たり前なので、退職して数年後には健康に過ごせなくなってしまうのだ。できれば、死ぬ直前まで健康でいたい。それは誰もが願うこと。
そんな願いを見事に成し遂げたのが、天下人の徳川家康である。
家康は、若い頃から健康にはとても気を配っていた。乗馬や鷹狩り、水泳を頻繁におこなって身体を鍛え、贅沢な食べ物を食べずに麦飯など粗食に甘んじていた。さらに薬学に興味を持ち、自分で薬を調合し、それらに「万病丹」「銀液丹」などと名を付け、常用して健康の維持に努めていた。孫の家光が重病にかかったときも、自分が調じた薬を与えて見事に回復させている。
このため70歳を過ぎてもたいへん元気だった。当時としてはかなり驚異的な体力といえる。
ちなみに健康で長生きというのは成功の秘訣でもある。もし家康が秀吉と同じく62歳で死去していたら、歴史は大きく変わったはず。江戸幕府は豊臣政権同様、家康の死を機に崩壊へ向かっていった可能性が高い。なぜなら福島正則や加藤清正など、秀吉子飼いの大名がまだ大勢おり、秀頼のもとに結集して徳川を倒すことも十分考えられたからだ。権力を握ってから15年以上生き、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼしたからこそ、200年以上におよぶ安定政権の礎が築けたのである。
だが、そんな家康も豊臣家を滅ぼしたわずか1年後、75歳で死去した。
家康、最後の1年間
家康の死は、豊臣家が滅亡してからわずか1年後のことであった。とはいえ、この1年間は、極めて大切な時間だった。
この間、家康は孫の家光を徳川家の後継者に定め、さらに政権に敵対しそうな勢力を徹底的におさえる政策を矢継ぎ早に発した。豊臣家を滅ぼしたばかりの慶長20年閏6月、将軍秀忠の名をもって、家康は西国大名を主な対象として、居城以外の城をすべて破壊させた。一国一城令である。これにより400近い城が破壊され、大名の防衛力は大きく減退した。また家康は、側近の金地院崇伝に武家が守るべき義務を定めた武家諸法度を起草させ、同年7月7日、伏見城において将軍秀忠の名で諸大名に発布させた。そこには城の新築を禁じ、居城修理のさいも幕府の許可が必要であり、私的に婚姻することは認めないと記されてあった。その後、この法度に違反したという理由で、多くの大名が処罰されたのは説明するまでもないだろう。
また、家康はすでに仏教の各宗派の大寺院や、僧侶を個別に統制する法度を発していたが、豊臣政権が朝廷(天皇)の権威を背景に成立したものであったことから、朝廷や天皇・公家の行動を規制する禁中並公家諸法度も発布した。
こうして敵対する勢力の統制を進めていた家康だったが、元和2年(1616)1月、鷹狩りに行った駿河国田中で動けなくなってしまう。
鷹狩りに同行していた京都の豪商・茶屋四郎次郎が、近頃、高級な榧の油で揚げた天ぷらという料理がはやっていることを話したところ、家康はこれを所望し、榊原清久から届いた鯛を天ぷらにしてみた。すると、これが抜群にうまいではないか。ゆえについつい食べ過ぎ、その夜、激しい腹痛を訴え、以後、体調を崩してしまったのである。
そんなことから、家康は鯛の天ぷらを食い、食中毒で死んだといわれている。だが、これは正確ではない。確かにそれがきっかけで病が重くなったかもしれないし、食中毒だったのかもしれない。でも、それから数カ月間も生きており、記録に残る症状から判断しても、胃癌の可能性がかなり高いのである。
こうして病床についた家康だったが、心配した将軍秀忠が2月1日に江戸から家康のいる駿府に駆けつけた。家康は大いに喜んだが、秀忠はその容態の重さに驚いた。そこで、すぐに京都から名医たちを集めて診察させるとともに、諸寺諸山の高僧たちや朝廷の神祇官陰陽寮に祈禱させたのである。
秀忠はそのまま駿府城の西の丸に滞在し、家康を看病した。秀忠が閉口したのは、家康が医師たちの処方する薬を飲もうとしなかったことだ。
家康は「腹の中に固まりがあるので寄生虫にやられている」と自己診断し、自分で調合した虫下しの薬ばかり飲んでいたのである。
心配した侍医の片山宗哲が、秀忠に相談してきたので、秀忠は家康を説得しようとした。すると家康は告げ口した宗哲に「もうお前の薬など飲まぬわ。二度と俺の前に姿を見せるな」と激怒し、なんと信濃国諏訪の高島へと流してしまったのだ。
こうして家康は、それからも自家製の薬を服用しつづけるが、当然のごとく病は悪化の一途をたどり、ついに衰弱した身体は自分の薬も受けつけなくなった。
同年3月末になると、回復の見込みがないことは、本人も自覚するようになった。そこで4月1日、家康は外様大名の堀直寄を召して「此度の老病とても快復すべきにあらず。我なからん後。国家に於て一大事あらんには、一番の先手藤堂和泉守(高虎)、二番は井伊掃部頭(直孝)に命じ置る。汝は両陣の間に備を立て、横槍を入べし」(『徳川実紀』)と命じた。
家康は、自分が死んだ後、再び天下が乱れ、大乱が起こると思っていたのである。
だから息子の秀忠にも「わが命すでに旦夕にせまれり。この後天下の事は何と心得られしや」(前掲書)と心配して尋ねた。
すると秀忠は「天下は乱るる」と即答したので、家康はうなずいて「ざつと済みたり」と言ったという。凡庸な秀忠が大乱に備える覚悟が出来ていることを喜んだのである。
晩節の研究 偉人・賢人の「その後」
小野妹子、一休さん、徳川家康、平賀源内、小林一茶、葛飾北斎……。日本の歴史に燦然と輝く偉人たちですが、実は「意外すぎる晩年」を送っていたことをご存じでしょうか? 河合敦さんの『晩節の研究 偉人・賢人の「その後」』は、彼らの「その後の人生」にスポットを当てたユニークな1冊。教科書には載っていない面白エピソードがたっぷり詰まった本書から、とくにユニークな晩年を生きた偉人たちをご紹介しましょう。