寵愛(ちょうあい)、馴染(なじみ)、タニマチ、常連、自担(じたん)、推(お)し……歴史や分野をまたぎ発展してきた日本の「ひいき」文化。学校や会社、芸術界にスポーツ界、政治の世界まで、なぜ人は人に過剰な愛を向けずにいられないのか。『「ひいき」の構造』(島田裕巳著、幻冬舎新書)から試し読みをお届けします。
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他人への依怙贔屓と自分への依怙贔屓
私たちは「贔屓(ひいき)」ということばに敏感である。
「これは依怙(えこ)贔屓ではないのか」
日常の暮らしのなかで、そのように感じることがある。
誰か特定の人間が目をかけられ、引き立てられる。それが依怙贔屓である。とくに集団や組織に加わっていると、依怙贔屓があるのではないかと感じることが多い。
「依怙贔屓などなくなってほしい」
それが公正さを求める私たちの願いということになるが、話は単純ではない。
私たちは他人が依怙贔屓されることを快く思わない。だが一方で、自分が依怙贔屓されることについては、必ずしもそれが悪いこととは思わないからだ。
依怙贔屓されたいという密かな願望を、私たちは抱いている。だからこそ、他人が依怙贔屓されることに我慢がならないと思ったりもするのである。
さらに複雑なのだが、自分が依怙贔屓されることに居心地の悪さを感じてしまうこともある。そこにいじめやバッシングが生じる余地があるからである。
依怙贔屓は、どの社会にも見られる普遍的な現象である。日本にだけあるわけではない。
だが、贔屓ということばについて考えてみると、そこには日本の社会のあり方が深く関係してくるように思われる。
誰かを贔屓にする、何かを贔屓にする。贔屓にする対象は多岐にわたる。
プロ野球の試合を観戦している人たちには、たいがい贔屓の球団というものがある。球場にまで出かけていく人たちのなかには、贔屓とする球団にかなり熱を入れている人もいる。阪神タイガースの熱烈なファンの愛称「トラキチ」などがその代表である。
贔屓は「ファン」とも呼ばれる。ファンはどのスポーツの世界にもいるし、歌手や俳優、アイドルのファンもいる。
最近では、ファンの対象を「推(お)し」と表現するようになってきた。
第164回芥川賞を21歳の若さで受賞した宇佐見りんの『推し、燃(も)ゆ』(河出書房新社)は推しにまつわる事柄を扱った小説である。主人公の高校生、あかりは、ある男性アイドルが推しである。推しは、贔屓の現代版にほかならない。
贔屓ということがスポーツや芸能の世界でのことなら、それが問題を生むことは少ない。
だが、政治の世界での贔屓ということになると、大きな問題に発展したりする。
昨今、政治の世界で問題になることについて考えてみると、そこに贔屓ということが深くかかわっているようにも思えてくる。
政治における贔屓と忖度
安倍晋三が首相に返り咲くことで生まれた第二次安倍政権は、自由民主党と公明党の連立によるものだが、2012年(平成24年)12月26日から2020年(令和2年)9月16日まで続いた。首相の在任期間は2822日に及んだ。これだけで首相の在位期間としては歴代トップである。1年余りで終わった第一次安倍政権での在任期間を加えれば、3188日にもなる。
安倍政権の功罪はさまざまにあろうが、後半は森友学園や加計学園、あるいは桜を見る会、それらに関連する公文書管理の杜撰さで、野党やマスメディアの追及を受け続けたという印象が強い。最後は首相の持病の再発で、政権には幕が下ろされた。
森友学園については、国有地の取得に不正な便宜(べんぎ)がはかられたのではないかという疑惑が持ち上がった。学園の理事長と安倍首相夫人とは関係が深く、役人が忖度(そんたく)して便宜をはかったのではないかと言われたのだ。
この件があったため、忖度ということばは、2017年の流行語大賞にも選ばれた。忖度という行為の目的は、権力のある人間に気に入られようと媚(こ)び、贔屓にしてもらうことにある。
学園の理事長は、新しく建設する小学校の校名を、当初は「安倍晋三記念小学校」としていた。理事長は、首相を贔屓にしており、また、自分が首相に贔屓されようと、そんな校名を思いついたのだ。
桜を見る会の方は、1952年に吉田茂首相の主催ではじまったもので、その歴史は古い。招待客は多方面にわたるが、各界において功績や功労があった人物が対象であるとされてきた。
招待客の数は、この会がはじまった当初の段階では1000人程度だったが、次第に増加し、21世紀に入ると8000人から1万人になった。それが、安倍政権になると一気に増え、2019年には1万8000人を超えるまでになった。
問題は、招待客のなかに安倍首相や自由民主党の議員の支持者が多く含まれるようになっていたことである。つまり、首相や議員を贔屓する人間が大量に招待されていたということである。
桜を見る会の会場は新宿御苑で、その時期にはヤエザクラが見ごろになる。芸能人も数多く招待されている。満開の桜の下、首相夫妻が芸能人に囲まれている華やかな光景は、毎年、テレビニュースでも取り上げられてきた。
日本は議院内閣制の国であり、首相は国会での議決で選ばれる。国民が直接首相を選ぶわけではない。
しかし、国民に支持されているかどうかは決定的に重要で、支持率の高さが政権の安定に寄与する。
政治においては、政党にしても、個々の議員にしても、政策がもっとも重要だとされる。だが、それはあくまで建前であり、有権者に人気がある、つまりは贔屓にしてもらえるかどうかが決定的に重要である。
2008年『広辞苑』第6版から「ポピュリズム」が登場
そうした政治のあり方をさして、最近では「ポピュリズム」ということばが使われるようになってきた。
1998年刊行の『広辞苑(こうじえん)』第5版を引いてみると、ポピュリズムのことばの意味として、「(1)1890年代アメリカの第3政党、人民党(ポピュリスト党)の主義。人民主義。(2)(populism)1930年代以降に中南米で発展した、労働者を基盤とする改良的な民族主義的政治運動。アルゼンチンのペロンなどが推進。ポプリスモ」があげられていた。
それが2008年に刊行された『広辞苑』第6版から、最初に、「一般大衆の考え方・感情・要求を代弁しているという政治上の主張・運動。これを具現する人々をポピュリストという」が付け加えられるようになった。今広く使われるポピュリズムは、ことばとして新しい。ことばとして新しいということは、現象としても新しいということである。
読売新聞主筆の渡邉恒雄(わたなべつねお)は、ポピュリズムという表現にかんして、たんに民主主義について説明しているようで、「なぜ、大衆迎合政治と言わないのか」と批判していた(「大衆迎合政治が日本を蝕んでいる─『反ポピュリズム論』を書いた渡邉恒雄氏(読売新聞グループ本社会長・主筆)に聞く」『東洋経済オンライン』2012年9月7日)。
たしかに、安倍政権時代の桜を見る会は、大衆迎合政治の典型であり、招待客を贔屓にしようとする試みだった。だからこそ、強い批判を浴びたのである。
『広辞苑』で、大衆迎合政治としてのポピュリズムが2008年から取り上げられるようになったことは、日本のみならず、世界の政治のあり方が変容したことを示している。
政治家は大衆の支持を得るために極端なことを言うようになってきた。その典型がアメリカ合衆国の第四十五代大統領、ドナルド・トランプだった。
トランプは再選を果たすことができなかったが、ツイッターを通して自分の考えを直接発信し、それで大衆の支持を集めてきた。支持者からの人気は高く、実は再選の選挙でも勝利をおさめていたと信じる熱烈な人間たちは今もいる。日本にもいて、国内でデモを行ったりしていた。
そのなかには、連邦議会議事堂に突入した人間たちもいて、最後は大きな事件になった。これについて、贔屓という観点から見ていくならば、「贔屓の引き倒し」だったととらえることができるだろう。
ロシアのウラジーミル・プーチン大統領の場合には、毎年、カレンダーを出していて、それが日本でも人気を博している。
そのカレンダーの目玉は、引き締まったからだを誇示する大統領の上半身裸の写真で、男性的な強い政治家としてのイメージを強化することに貢献している。これもまた、国民のあいだに贔屓を増やすポピュリズムの時代ならではの試みである。
アメリカやロシアの場合なら、それぞれの国のポピュリズムについて、贔屓ということばが持ち出されることはない。
だが、日本の場合には、贔屓ということばを使って分析することによって見えてくる事柄が少なくない。それほど贔屓は日本の社会にあふれているからである。
贔屓という現象はいかなる構造を持っているか。それを解明していくことが、本書の中心となるテーマなのである。
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「ひいき」の構造
許せない他人への贔屓(ひいき)。その一方で密かに願う自分への贔屓。寵愛、馴染、タニマチ、常連、自担(じたん)、推し……と次々に変容する日本の「ひいき」。対象への並外れた愛情を表すこの現象は日本独自のものと言えるのか。なぜ人は人や物に過剰な愛を向けずにいられないのか。