寵愛(ちょうあい)、馴染(なじみ)、タニマチ、常連、自担(じたん)、推(お)し……歴史や分野をまたぎ発展してきた日本の「ひいき」文化。学校や会社、芸術界にスポーツ界、政治の世界まで、なぜ人は人に過剰な愛を向けずにいられないのか。『「ひいき」の構造』(島田裕巳著、幻冬舎新書)から試し読みをお届けします。
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贔屓の背後に遊郭や各種の芸能があるとするなら、それが存在しない海外において、贔屓と意味を同じくすることばを見出すことはできないはずである。
金銭を支払うことで性行為を行う売春は、古代からあり、世界中のどの社会にも存在してきた。現在の日本では、売春は法律によって禁じられているが、かつてはそうした規制はなかった。
したがって、江戸時代には、遊郭が各都市に誕生した。遊郭は売春宿でもあるが、そこには独特な文化が生み出され、遊女は高い教養を持ち、芸事に秀でていることが求められた。こうした遊郭の文化は、日本独特のものである。
贔屓という文化現象は、こうした遊郭を背景に生み出されたものである。歌舞伎にしても、遊郭が舞台になることは多く、そこには密接な関係があった。贔屓と関連することばが、複雑なニュアンスを伴うのも、遊郭や歌舞伎との結びつきが深いからである。
遊郭や歌舞伎の舞台は、娑婆(しゃば)と呼ばれる現実から隔絶した世界であり、社会の矛盾が生み出した場所でもあるが、そこを訪れる者に、途方もない夢を見させるところでもあった。
贔屓にする、ご贔屓になるということは、高等な文化行為でもあり、たんに金銭によって実現されるものではなかった。贔屓となることに、多くの金と労力が払われたのは、それに限りない価値があると考えられたからである。
その伝統は、今でも受け継がれているが、一方で、依怙贔屓という人間関係において、あるいは特定の集団において生まれる厄介な問題がある。贔屓ということば全体が示す事柄をどのように理解していけばいいのか。それこそが、贔屓の構造を理解していく試みがめざすところなのである。
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「ひいき」の構造
許せない他人への贔屓(ひいき)。その一方で密かに願う自分への贔屓。寵愛、馴染、タニマチ、常連、自担(じたん)、推し……と次々に変容する日本の「ひいき」。対象への並外れた愛情を表すこの現象は日本独自のものと言えるのか。なぜ人は人や物に過剰な愛を向けずにいられないのか。