年齢、結婚、ファッション、女ともだち……女性の人生にはいくつもの葛藤があります。山内マリコさんの『あたしたちよくやってる』は、いつの間にか自分を縛ってしまっている女性たちの日々を丁寧に描き、そして救い上げてくれます。
文庫化にあたり、いぬのせなか座の笠井康平さんが山内マリコクロニクル的書評を寄せてくれました。
あちこちの友情、いつも身近な別世界
本当ならこの種の書評には、ちゃんとした人が書いた解説が載るものなのは、読者のみなさんもご存知のとおり。本書はフィクションを制作するうえで難しいことをばっちりやり遂げた本なので、業界事情に精通した、その道の権威的な顔して小難しい理屈を並べることも一瞬考えたのですが、やめました。
この文庫を手にとる多くの方にとって、山内マリコは「そういう語り口」にしっくり来ない作家だろうし。僕にとって山内さんは、お互いに無名時代の最中で運よく出会えた、信頼できる先輩で、大切な友人の一人だと思っているので。
本書のラインナップは2012年から2018年まで、ざっくり2010年代です。日本で生まれ育った多くの方にとって、東日本大震災から新型コロナウイルス感染症までの、短い歴史と重なることでしょう。消費増税、日本再興戦略、ふるさと納税、IoT、SDGs、#Me Too――。
山内さんから届いた最古のメールは2011年8月24日。電子書籍配信サイトで毎月刊行していた文芸誌の編集部で、小特集の企画を任された大学生(=僕)が、そのとき熱心に追いかけていた「女による女のためのR-18文学賞」の受賞者たちへ依頼しようと思い立ちます。
その小特集では、震災復興チャリティ電子書籍『文芸あねもね』を紹介しつつ、執筆陣を代表して3人に新作短編を書いてもらいました。その1人が山内さんでした。いまや驚くべきことに、僕は彼女がまだ本格的に世に出る前に原稿を依頼した、唯一の編集者だったのでした。
「次の10年」を先取りしていた作家
中国では八〇后世代、アメリカではミレニアル世代が、新しい作家として台頭していた頃です。「次の10年」をだれが、どのように描くのか? 将来のために日本語表現の歴史をたどっていた僕は、「そのひと」をずっと探していた気がします。未曽有の大災害を経てなお、愛すべき「日本」を取り戻したい老人たちに幻滅しながら。インターネットは「世界」を変えると熱狂するおじさんたちと、微妙に距離をとりながら。
きっと「次の10年」は、だれもが目覚めながら悪夢に苛まれるような、夢現(ゆめうつつ)の反転する時代になるのかもしれない。僕のぼんやりした予感が確信に変わったのは、何を隠そう、2011年に初めて「In your dreams.」を読んだとき。R-18文学賞の第7回受賞作(読者賞)です。最先端だと思いました。「時代を先取りするぞ」と胸に秘めていた着想を、はやくも2008年に実現しているなんて! とても悔しくて、すごくうれしかった。
出世作『ここは退屈迎えに来て』が刊行されてからも、山内さんとの交流はつづきました。僕の主宰誌に寄稿してくれたり、友人が運営していたインディーWebマガジンで取材記事を載せてもらったり。その取材記事で聴き手を務めた女子大生たちは、
「今日も世界は、SNSや街に集う「迎えに来て」ほしい女の子と、それを勘違いして猛アタックを仕掛ける下心全開の男たちであふれてるわけです。で、そのときに本当に来てほしい女の子が、まさに”ソウルメイト”なんですよね?」(「ねとぽよ 女の子Web号」より)
と直言して、山内さんと意気投合。いま思えば、僕たちの世代にはごく自然な肌感覚が、世間にようやく受け入れられ出す前夜だったのかもしれません。やがて日本でも第四波フェミニズムが盛んになるなか、山内さんはその一翼を担うように、『アズミ・ハルコは行方不明』『さみしくなったら名前を呼んで』『あのこは貴族』と、「報われない女の子を、女たちの連帯が救い出す物語」を描き続けたのでした。
一冊にまとめられた多様な歳月
山内マリコは短編を数多く手がけてきた書き手でもあります。これまで刊行された14の著作のうち、長編小説はまだ3作。数年おきに玄人好みの大著を世に問うというより、毎月どこかで悩めるだれかに、身近な物語を届けるような作風。
本書もまた、8の短い物語に16の随想と9の粗描を組み合わせた個人撰集です。そして、この本に収録された34篇の初出誌は、いつにもまして多様な顔ぶれですよね。
オルタナティブ・ファッション誌から老舗のモード誌、こなれきれいめのカジュアル誌、のどかなお出かけ誌、玄人好みの映画評論誌、一般向け美術誌、経済新聞、社内ベンチャー文芸誌、インディー系生活実用誌、商業ビルのオウンドメディア、短篇小説アンソロジー、漫画家トリビュート、上映パンフレットに学級通信まで。書店の棚分類をいくつも渡り歩いた足あとみたいな作りです。
言わずもがな、諸ジャンルの読者が望ましく思うフィクションの含有率はちがいます。うかつに混ぜるとおかしなことになりかねない。長年かけてあちこちの「集まり」に向けて書かれたテキストを、こうしてひとつに「集める」ときは、いくつもの登場人物――本書では主に「あたし(わたし)」と「彼女」――を束ねる2、3の決めごとが欠かせません。
いってみれば、文章の執筆・編集を通じた「自分」整理術。その工夫が行き届いた本には、読者があちこちを自由に読む「ゆとり」が生まれます。
この本はどうかというと、日常と地続きのフィクションを立ち上げて、控えめな私感とたしかな生活体験を交えてリアリティを担保する。その姿勢が一貫しているから、多様なジャンルの短文が一堂に会しても、ごちゃつかずに、きちんとまとまる。
たとえば、「essay」だけに注目すれば、「女(の子)らしさ」を形づくる常識・しきたりから距離をとって、自分の大切な将来を考えるための、大いなる助走として読める。「short story」の展開を、現実のどこかにいそうだし、どこにもいなそうな女たちの半生だと読んでもいい。もっとシンプルに、ひとりの作家の仕事歴としてたのしんでもいいでしょう。
そんな風に目次を眺めていると、「short story」が主題を示し、「essay」が文脈をつないで、「sketch」が余白を広げるという、もっと大きな「時間の流れ」がみえてくる気もする。
「How old are you?(あなたいくつ?)」グループは、「じぶんらしい生き方と時代の移り変わり」と「流行りの文化・芸術を買う日々に潜む迷い」の二本柱。続いて「あこがれ」グループが、「いくつになっても尊敬できる”彼女”とはどんなひとか」を探訪する。
中盤の短い2グループが「痛い青春」と「苦い成熟」で調子を整えたあと、「マーリカの手記――一年の留学を終えて――」グループが「別の視点でみた”いまの常識”の奇妙さ」を描けば、「一九八九年から来た女」グループは「華やかなりし頃の終わりを生きる、あやふやな孤独とゆるやかなよろこび」を伝えます。そして最後に「五十歳」と「超遅咲きDJの華麗なるセットリスト全史」が、「やがて来る”人生後半”のコンセプトモデル」を実演する。
ちなみに僕の見立てでは、本書のコンセプトは連作短編集『パリ行ったことないの』(2014年)の書き下ろし「私はエトランゼ」にすでに現れています。10人の女性をさまざまに描いた短編集の終わり際で、単身で渡海した視点人物は、「都会でも、田舎でも、どこでだって、きっとわたしはやっていける」とつぶやきます(同書より)。この言葉は、祖国を離れて自立する「わたし」にとって、新生活への期待と不安の交じった「祈り」でした。それが本書では、成熟と喪失を受け入れ、「あたしたち」の人生を見つめ直す「ゆとり」に変わっている気がするのです。
だからか、本書を読み終えたときに僕は、「わたし(あたし)」が「あたしたち(わたしたち)」にゆっくりと移り変わった歳月を、この作家の、そして時代の変化に重ね合わせたくなった。みなさんはどうですか?
「よくやってる」「あたしたち」のために
ふり返ると、2013年頃から彼女は、「ともすると、地方都市と女性というご意見番のような立場で見られるようになった」(『メガネと放蕩娘』所収「文庫版のためのあとがき」より)諸作から転じて、いわば「主題もの」のフィクションを手がけるようになりました。
東京、結婚、階層、家庭、地元、男性性――。それらをきちんと扱った著作を世に送る一方で、あちこちへコツコツと書き貯めた短文が、本書に収められている。つまりこの本は、いずれ山内マリコの新作として現れるであろう、あらゆる将来の物語のためのイメージボードなのでしょう。
それなら、「よくやってる」「あたしたち」とは、だれのことでしょう。まずは素直に「女たちの連帯」だと読めますね。さまざまな年代の「理想とはちがうけど、じぶんなりに最高の暮らし」が観察され、記録されているから。
「孤独を分かち合えるソウルメイト」だと読んでもいいでしょう。性別、年齢、婚歴、子供の有無、資産……といった、個人情報の組み合わせでは名指しづらい、仮想もしくは実在の友人。恋愛と婚姻の制度ではなく、類縁と友好による結束の相手。
さらに抽象的に、フェイクとファクトの板挟みにめげず、ささやかな居場所を守ろうとする「フィクションの共同体」だと読んでもいい。だれもがじぶんにとって最善の「あたしたち」のために読み、書くのです。「そのひと」は、まだ(またはもう)どこにもいないのではないかと、夜ごと不安に怯えながら。
山内マリコの散文は、あらゆる女の子を思い煩わせる、抽象的で空想的なわけのわからないことをやさしく、図太く、にぎやかに受け止めて、世間が雑に「ここではないどこか」と呼んで済ませている場所を、こまやかに描き分ける配慮に満ちています。
時代の記憶、昔の思い出、反実仮想、将来の夢、遠い理想。どれも身近な別世界です。それがいつも「そこ」にあると信じられるから、わたしたちは安心して「ここ」で生きられるのでしょう。彼女の作品になぞらえれば、あのこがあたしであるように。都会と地元を行き来するように。
――作家・編集者