イギリス千年の盛衰に重大な役割を果たしたユダヤ人の足跡を読み解いた『英国ユダヤ人の歴史』(佐藤唯行著)から、試し読みをお届けします。イギリスの大きな転機となったサッチャー改革。実はサッチャー内閣は、英国史上最多のユダヤ人閣僚を登用した内閣でした――。
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一九七〇年代、英国は限りなく社会主義に近い国だった。人々の暮らしに関わる大企業は国営で、不振に陥っても潰れる心配はなかった。労働者は勤労意欲を失い、サービスは低下した。低迷する英経済は「英国病」と揶揄されたほどだ。
打開したのは「鉄の女」と綽名されたサッチャー首相(在任、一九七九-九〇)だ。新自由主義と呼ばれる彼女の政策は我が国にも導入され、中曽根政権の「三公社」民営化、小泉政権の郵政民営化として結実した。
英国のみならず日米の姿さえ変えたサッチャー改革。その仕掛け人がユダヤ人の閣僚たちであった事実を知る者は少ない。登用された人数は英史上最多で、一九八六年初めには二〇人中五人を占め、この状況を皮肉るジョークが流行したほどだ。これ以上ユダヤ人を登用するなら、閣議をゴルダーズ・グリーンで開催してはどうかとサッチャーの夫が妻に提案するというものだ。ゴルダーズ・グリーンとは、全英屈指のユダヤ人集住地区のことである。
閣僚の顔ぶれをみてみよう。筆頭は蔵相のナイジェル・ローソンだ。国営企業民営化の指揮を執り、膨れ上がった公共支出を抑え、財政赤字解消の立役者となった。また減税、規制緩和といった市場経済活性化策を打ち出し経済回復の道筋を作った。
サッチャーのもと、異例の出世を遂げたのがレオン・ブリタンだ。内相在任中の炭鉱ストに際して、政府は働く意思を持つ労働者を助けるが、暴力的労組に対しては屈服しないと毅然たる方針を貫いた。大蔵省首席担当相、貿易産業相も歴任した。
雇用相、貿易産業相として失業対策と民営化に尽力したのがデービッド・ヤングだ。「ヤングは解決策を示してくれる」と語り、サッチャーはその知恵袋ぶりを称賛している。英国ユダヤ社会の代弁者でもあるヤングは、サッチャーがパレスチナ解放機構(PLO)と接触せぬよう配慮を巡らした。PLOはイスラエルの生存権を認めていなかったからだ。
政権終盤に雇用相に登用されたのがマイケル・ハワードだ。最大の功績は貿易産業省政務次官在任中の一九八六年、英金融史に残る大変革「ビッグバン」を成し遂げたことだ。これは英金融自由化政策の総仕上げ、ロンドン証券市場の大幅規制緩和に他ならない。
スコットランド担当相として英北部を巡り、福祉制度への依存に警鐘を鳴らし、企業活動による自助を奨励したマーコム・リフキンドも、地味な仕事ぶりながらサッチャー改革を助けた。
サッチャーの政界における盟友で党首選勝利への道筋を切り開いてくれた恩人が、保守党の先輩議員キース・ジョセフだ。サッチャーは自伝の中で、ジョセフがいなかったならば党首にもなれず、首相の職務も全うできなかったと絶賛している。産業相、教育科学相に登用され、労組の専横、反企業文化を一掃するため、教育改革による道徳再興を唱えた保守党右派の論客でもあった。
このジョセフの盟友で、サッチャーと共に一九七四年、右派のシンクタンク「政策研究センター」を設立し、理事長に収まったのがアルフレッド・シャーマンだ。シャーマンも上記六閣僚と共にサッチャーを支えたユダヤ人だ。中東問題の専門家シャーマンは、英外務省によるイスラエル批判がサッチャーの中東政策に影響を及ぼさぬよう力を尽くした。
貧しい東欧系移民家庭に育った彼は、元々筋金入りの極左だった。しかしスターリン批判により英共産党を追放されて共産主義に失望した後、右派に転向した。これはまさに、同世代の米ネオコン知識人(多くがユダヤ系)が辿った思想的遍歴に他ならない。シャーマンの存在は、英国にもユダヤ系ネオコンが台頭し、本家合衆国のそれと時を同じくして活躍していた事実を示すものである。
歴代英首相の中で、なぜサッチャーは最も多くユダヤ人の閣僚を登用したのだろうか。
第一の答えは彼女の選挙区、ロンドン北郊のフィンチリーにある。そこは有権者の五分の一がユダヤ人で占められる稀有な選挙区だった。当選し続けるには親ユダヤ路線を示す必要があった。それは彼女の外交政策にも反映されている。チャーチル以来、彼女ほどイスラエルに同情的な英首相はいなかったと言われる。
保守党指導部内のアウトサイダー連合という解釈も可能だ。当時、保守党の実力者は、アッパーミドルクラス出身の男性で占められていた。彼らはそのいずれでもなかったサッチャー(零細な食料品屋の娘)に対し、出自の優位を鼻にかける人々だった。彼女は保守党内における伝統的エリート支配を覆すための同盟相手を必要としていた。そのための人材をユダヤ人脈とノンエリートのキリスト教徒の中に求めたということだ。
彼らがサッチャーに惹かれた理由は彼女が掲げる能力主義、業績主義に他ならなかった。ユダヤ人材が集まってしまった理由について、聡明で活力あふれる人材を望んだ結果そうなってしまったと彼女は述べている。
成育環境も無視できない。それは敬愛する父より受けたメソジスト派の教えだ。同派はプロテスタント諸派の中でも、自助の精神、個人の責任を尊ぶ厳しい倫理観で知られている。これはまさしくユダヤ教と共通する価値観である。長ずるに及び彼女はそのことを知り、ユダヤ教に強い親近感を抱くようになったのだ。ユダヤとの親和性は、彼女のメソジスト信仰の副産物でもあったと言えよう。
彼女の家庭環境は反ユダヤ主義とは全く無縁であった。ナチスの迫害を逃れてきた在墺ユダヤの少女がキンダートランスポートで英国に到着した時、サッチャー家は里親がみつかるまで少女を引き取り面倒をみている。このような背景を持つサッチャーは、閣内でユダヤ人に囲まれ居心地の良さを感じていたはずである。
英史上最初の女性首相サッチャーは、ユダヤという視点でみると、「保守党が親ユダヤで労働党が反ユダヤ」という今日まで続く構図をつくりあげるのに一役買った政治家と言えよう。
もちろん、その構図を生み出した根本原因は、彼女の在任中に(あるいはその少し前から)進行していたユダヤ社会をとりまく構造的変化に他ならなかった。第一は貧しかった移民労働者の中産階級化。政治的スタンスも保守化してゆく。第二は急増する有色人種が惹起した治安悪化と教育環境の荒廃。この状況を労働党政権が見過ごしていることに、ユダヤ人側は不満を持ったのだ。第三は一九八二年のレバノン戦争を機に、労働党内にイスラエルに敵対的な反シオニスト勢力が急増したこと。
以上三つの原因により、かつて労働党支持者が多かった在英ユダヤ社会は様変わりしてゆく。サッチャー政権期には、ユダヤ票の実に三分の二が保守党に投じられるようになるのだ。
*1 Robert Philpot, Margaret Thatcher :The Honorary Jew (Biteback Publishing 2017)
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