シーン…とした場所で読むのがおススメできない本といえば、宮田珠己さんのエッセイ。というのも、読んでると、つい声出して笑っちゃうから!
そんな宮田さんの最新文庫、脱力しまくりの旅エッセイ『日本全国津々うりゃうりゃ 仕事逃亡編』が、発売になりました。
“根っからの怠け者だけど、無類の旅好き”という宮田さんが、鬼編集者(!?)テレメンテイコ女史とともに、流氷ウォーク、粘菌探し、ママチャリ旅に手漕ぎボート……などなど、どこへでも行くが、どこでも脱線する! という、見事な珍旅ぶり。
続くコロナ禍で、なかなか旅に出られない夏休み。こんなときにおすすめの、おなかの底から笑える面白エッセイです。
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オホーツク編
1 旅はしたいが、ワカサギはべつに釣りたくない
旅が好きで、旅ばかりして過ごしているうちにおっさんになり、そろそろ飽きるかと思ったら、まだ好きである。好きどころか、旅をしているときだけが生きてる気分であり、そうでないときは死んだ魚の目をしていると言われる。
私は毎日死んだ魚の目で仕事をし、ごはんを食べ、風呂に入り、テレビで旅番組を見ては、いいなあ、うらやましいなあ、と思っているわけだった。
このまま仕事にかまけてどこにも出かけないでいると、だんだん目つきだけでなく総合的に死んでしまう可能性がある。そうなるまえに、ときどき逃亡しなければならない。
年の初めの頃だったか、仕事に追われてうんざりし、流氷を見てみたい、見るだけでなく、できれば乗っかりたい、と思ったのだった。
最近はそういうツアーがあるそうで、インターネットで見て流氷に乗れると知ったときは驚いた。流氷に乗っていいのは、白熊とペンギンだけだと思っていた。写真を見ると、乗ってる人はだいたいドライスーツを着こんで、その姿はややペンギンに似ている。一応ペンギンに見えなくもないということで、流氷に了解をもらったのかもしれない。
しかし真面目に考えてみれば、白熊など人間よりも相当体重があるわけで、それで大丈夫なんだから、人間が乗ってもオッケーなはずだ。
私も流氷に乗りたい。
あれに乗るのはどんな感じなんだろう。
つるつる滑るのだろうか、でもって海に落ちたり、落ちたついでに流氷の間に挟まれたりするのだろうか。その前に流氷ごと転覆したりしないのか。落ちたら落ちたでクリオネが見られたりするのだろうか。危険なのか面白いのか判断できかねるが、とにかく、いま流氷に乗らないと、人間いつ死んでしまうかわからない。流氷に乗らずに死ぬのは惜しいので、ここはテレメンテイコ女史に相談しようと考えた。
ここ何年か、編集者のテレメンテイコ女史と日本国内をあちこち旅している。流氷について原稿を書くといえば、女史は、私を流氷に乗せてくれるかもしれない。
テレメンテイコ女史は、非常に有能な旅のコーディネーターだ。いざ出かけるとなればインターネットを駆使して旅の情報を収集し、毎度的確な判断で段取ってくれるうえ、原稿の取立てが厳しく、〆切をどうしても守らせようとする往生際の悪さは、私への思いやりに欠け、血も涙もない。
あ、いやいや、そうではなくて、テレメンテイコ女史は大変仕事のできる女性であるから、私の流氷に乗りたいという希望を叶えてくれる可能性があった。
仕事から逃亡しようというのに、仕事増やしてどうする、という問題はあるものの、流氷はだいたい3月中旬ぐらいまでしかやってないとのことであり、ぐずぐずしていると営業期間を過ぎてしまう。早く見に行かないと、業者が流氷をたたんでみんな持って帰ってしまうだろう。
急いでテレメンテイコ女史に打診することにして、その場合、本当にちゃんと原稿を書くのか、という切り返しが予想された。もちろんそのつもりだから言っているわけで、いつも人を疑わずにおれない彼女の猜疑心の深さには一度カウンセリングを受けることを勧めたいぐらいだけれども、ここで信用されないと流氷に乗れなくなるかもしれないから、そう聞かれた場合、書く確率は80%近い、と高い信頼性を保証する覚悟だ。
そうして、
「流氷に乗ってみたいです」
とテレメンテイコ女史に告げたところ、女史は怪訝な表情で、
「流氷に乗る? またまたあ~」
と、いかにも宮田が言いそうな冗談だという口ぶりである。
テレメンテイコ女史も知らないのだ。流氷には白熊とペンギン以外も乗れるということを。
「乗れるんです。ネットで見ました」
私がそう主張すると、やがて自分でも調べて納得した女史は、
「わかりました。では北海道に行きましょう。連載は4月スタートでよろしいですね」
と言った。
「あ、はい」
勢いに飲まれ、思わず答えてしまった。
4月? 予想を上回るすごい切り返しだ。確率80%とか言ってる場合ではなかった。
テレメンテイコ女史は、満足げにうなずきつつ、ただし、そういう危険な行為を自分もやるかどうかは保留、というか宮田ひとりでやれ、という冷ややかな表情は崩さないまま、
「せっかくオホーツク海まで行くのなら、他にも何かしたほうがよくないですか」
と編集者らしい提案をした。
そこで、またネットで調べて、
「紋別(もんべつ)の海中展望塔にも行きたいし、スノーモービルも乗り回してみたいです」
と私は答えた。
たしかに冬の北海道に行くことなど滅多にないわけだから、冬にしかできないことをやりたい。それもカニを食うとかそんな日常生活の延長みたいな行為ではなく、できれば非日常世界にどっぷり浸かりたい。紋別の海中展望塔は、窓から流氷の下が見られるらしいし、スノーモービルで雪原を走るのは、ちょっと冒険の匂いがする。そうやって普段なら決してしない体験にトライしてこそ旅だ。
そういうことで打ち合わせも終わり、数日後、羽田空港に集合して、テレメンテイコ女史の組んだ旅のスケジュールを見せてもらったところ、なぜか流氷ウォーキングツアーのほかは、観光砕氷船(さいひょうせん)おーろら号に乗って、網走湖でワカサギ釣りをやる予定になっていた。
「あれ、紋別は? スノーモービルはどうなったんです?」
「紋別の海中展望塔は、日程上、交通機関がうまく繋がらなくてダメでした。あとスノーモービルはシーズンがちょうど終わったところで、やってないみたいです」
「そうですか……」
そういうことなら仕方がないが、ワカサギ釣りとは何のことであろうか。全然興味ないぞ。
「なんでワカサギ釣りなんですか」
「宮田さん、釣りはなさらないんでしたよね。どうせ旅をするなら、そういう普段やらないことをやるのが面白いじゃないですか」
どこかで聞いたようなセリフだが、どこだったか思い出せない。
それより、たしかテレメンテイコ女史は釣りが趣味だったはず。なんか怪しい匂いがする。
女満別空港に降り立つと、われわれ専用の迎えの車が来ていた。
このへんがテレメンテイコ女史の手回しのいいところで、こういうダンドリを任せたら最強である。おかげで私は安心して流氷に乗りに行ける。
「意外に、雪少ないんですね」
私は、冬の北海道というのは、そこらじゅう雪が積もって壁のようになってるのかと思っていた。
「いや、ついこないだまでここ2メートル積もってました」
スポーツインストラクターふうの若い運転手が言った。
「昔はそんなに積もらなかったんですが、温暖化でだんだん積もるようになって……」
「温暖化すると雪積もるんですか?」
「ですね。寒いほうが雪降らないんですよ。低気圧が発達しないから」
「なるほど」
やがて左手に白く凍った湖が見えてきた。網走湖だ。
と、車はその湖畔で停まって、われわれは降ろされた。眼の前の白い氷原にポツポツとテントが立っている。
「あれがワカサギ釣りのテントです」
って、いきなりワカサギ釣りだ。
こらこらテレメンテイコ、流氷はどうなったんだ。まず流氷だろう。天気がいいうちに流氷を見に行きたいぞ。この日の空は快晴で雪がまぶしいぐらいだった。
「流氷に乗るのはウトロっていう場所なんですけど、結構遠いんです。このまままっすぐ向かっても接続がスムーズにいかなくて、どっちみち今日は流氷には乗れないので、ここで時間潰していきましょう」
スケジュール上どうしてもそうなるのだから、私の意向など聞いてもしょうがない、という口ぶりだ。
そして運転手は、ここに来て突如本物の釣りガイドに豹変し、もろもろの道具を出してきてソリに積み込むと、そのままそれを引きながら湖の中へ歩き出した。運転手もグルだったのだ。というか、われわれ専用の車じゃなくて、ワカサギ釣りの送迎車だったらしい。
「ワカサギ釣りなんて、北海道じゃなくてもできるんじゃ……」
「そうですね。前に諏訪湖でやったことがあります。船の中に穴が開いててそこから釣るんですよ」
テレメンテイコはしゃあしゃあと言ったが、私が聞きたいのはそういうことではない。
運転手あらため正体を現した釣りガイドは、ダ・ヴィンチが発明した飛行船の羽のような、らせん状のドリルを取り出し、私を呼びつけると、
「これで、このへんに穴を開けてください」
と言った。
「結構大変ですが、がんばって」
え、私が?
まるで納得いかないのであるが、ここでドリルを手にとらないと、まるで穴開けに臆したような“男のくせに感”が甚しいので、仕方なく言われるままに手にして、氷の表面に当ててぐるぐる回した。
できれば片手で固定して、もう一方の手でカキ氷器みたいに回したいんだけれども、ドリルの仕組みはそうなっておらず、三輪車のペダルを水平にしたのと同じで左右両手とも回転させなければならない。つまり左手を奥に、右手を手前に、という動作を同時にやるから、かっふんかっふん、というリズムになって力がこめにくい。あっという間にいやになった。
なぜ私がテレメンテイコ女史の趣味のために、かっふんかっふんしないといけないのか。女史が自分でやればいいのではないか。
「氷何センチぐらいあるんですか」
聞いてみると、
「70センチ」
とのこと。
厚いよ。テキトーに30センチぐらいの凹みでワカサギ釣ったらどうか。
それでも、かっふんかっふん回していると、やがて氷が湿気を含んでシャーベット状になり、突然ガボッと底が抜けた。
それを見てガイドはニタッと笑顔を浮かべたかと思うと、隣にすばやくもうひとつ穴を開け、だったら最初からふたつ開けてほしいものだが、穴のそばに折りたたみ椅子をふたつ置いて、釣竿まで手渡してくれ、ときどき上下に動かすようにとアドバイスをして、今度はテレメンテイコ女史と私をすっぽり包むようにテントを立てはじめた。至れり尽くせりとはこのことである。最初からそういうツアーなのだ。
そうして事態は着々とワカサギに向かって進行し、しょうがないから私もときどき釣竿を上下に動かして、どうでもいいワカサギ釣りに参加した。
釣糸の先から、話が違う感がひしひしと伝わってくる。
唯一面白いことがあるとすれば、自分の下センチは湖だということだろうか。本来であればこんな場所に座っていることはできないという、その非日常感をしょうがないから噛み締めた。
ガイドの話によれば、1月の氷は5センチの厚みがあれば戦車でも乗れるとのこと。なんで戦車を乗せなければならないのかは謎だが、逆に春の氷は、30センチあっても乗らないほうがいいそうだ。もうすぐ春だけど、今日は70センチあるから大丈夫だろう。
というか、だったらスノーモービルだって乗れるのではないか。本当にシーズン終わったのか。
テレメンテイコ女史は信用できないので釣りガイドに聞いてみようと思ったら、いきなり引きがきて、あげてみるとワカサギが釣れていた。
おお、簡単すぎる。こんな簡単でいいのか。
テレメンテイコ女史もすぐに釣れだして、あれよあれよという間に、ふたりで20匹以上釣ってしまった。
1時間もしないで20匹はまずまずの釣果だそうだが、釣りの腕前もへったくれもなく、ただ上下に動かしていただけだから、達成感とかそういうものは全然ない。まるで自動販売機のように釣れたのだ。
「面白いんですか、これ」
もうちょっと苦労して、やっと釣ったほうが感動があったのではないか。
ガイドはコンロに火をつけ、そのままワカサギを揚げて、塩をふってくれた。食ってみるとこれがうまくて、20匹はあっという間になくなり、その後、椅子やテントはこっちで撤収しておきますからと言われ、網走の港まで車で送ってもらって、ワカサギ釣りは終了となった。
あまりの展開の速さに気持ちの整理もつかない。
面白かったのかどうなのか。
テレメンテイコ女史を見ると、大満足といった表情で、ビールがあればもっとよかった、とかなんとか言っていた。
(オホーツク編 つづく)
日本全国津々うりゃうりゃ 仕事逃亡編
仕事を放り出して、今すぐどこかに行きたいじゃないか! 根っからの怠け者だが、無類の旅好き。人間、旅行以上に大事な仕事があるだろうか。鬼編集者テレメンテイコ女史とともに流氷ウォーク、粘菌探し、ママチャリ旅に手漕ぎボート、果ては迷路マンションまで。どこでも行くが、どこでも脱線。読むほどに、怠け者が加速する脱力珍旅エッセイ。