シーンとした場所で読むのがおススメできない本といえば、宮田珠己さんのエッセイ。というのも、読んでると、つい声出して笑っちゃうから!
そんな宮田さんの最新文庫、脱力しまくりの旅エッセイ『日本全国津々うりゃうりゃ 仕事逃亡編』が、発売になりました。
“根っからの怠け者だけど、無類の旅好き”という宮田さんが、鬼編集者テレメンテイコ女史とともに、流氷ウォーク、粘菌探し、ママチャリ旅に手漕ぎボート……などなど、どこへでも行くが、どこでも脱線する! という、見事な珍旅ぶり。
続くコロナ禍で、なかなか旅に出られない夏休み。暑い夏に、超絶・涼しい旅の様子を、お届けします!
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オホーツク編4
流氷に乗る
ずいぶん寄り道をしたが、私はついに、満を持して流氷ウォークに参加した。
ワカサギ釣りやら、動物観察ツアーやら、幾多の興味のないアトラクションを乗り越えて、ようやくたどりついた流氷ウォークである。このためにはるばる知床までやってきたのだ。
流氷ウォーク参加者は合計8名。ワゴン車に乗せられ、町外れの海岸へ連れて行かれて、
そこで全員ドライスーツに着替えさせられた。ウェットスーツと違い、服を着たままその上から装着するので、これがあれば冷たい海でも対応できるのだ。
さきほどフレペの滝から見たように、海は完全に流氷に覆われ、平原になっていた。ここに来るまでは、イカダのように浮かんだ流氷に乗るつもりでいたから、想定外といえば想定外である。
道路から小さな斜面を下りた先に海岸があり、着替えが済んだら、そのまま海へ下りていった。いよいよだ。
私は砂浜から流氷に乗り移る瞬間が、ちょっとしたスペクタクルなんじゃないかと期待していた。なんといっても、それこそが流氷ウォークにおける最も重要な瞬間であるのは間違いなく、ここは、「さあ、今……、宮田選手、流氷の上に……ついにその第一歩を……踏み出そうとしています!」
とか、口には出さず実況中継したい。なぜ選手になっているのかとか、何の大会なのかとか、そもそもどこで放送しているのかとか、いろいろ謎はあるが、重要な場面ではとりあえず実況中継である。男子はみな、心の実況中継とともに生きているものだ。
今こそ、境目の瞬間を見逃すな! と視聴者に訴えたい。
で……。
どこからが流氷なのであろうか。
このへんが本来の波打ち際かなと思うあたりで立ち止まってみたものの、そこらじゅう雪に覆われて、よくわからない。今がまさしくその瞬間なのか、まだ陸地の上なのか、それとももう海の上なのか、判断できなかった。そこがはっきりしないと、うまく実況できない。雪と氷が連続して、ずっと地表のようだ。
と、すぐ脇に、ちょうど人間がひとり海に落ちるぐらいの小さな丸い穴が開いていて、そこから海が見えていた。
んあ?
ということは、私は今、海の上に立っているということではないか。
「おおお、宮田選手、肝心の境目を通り過ぎてしまっています!」
すかさず実況中継した。
どこからが海の上だったのか、振り返ってみても、ずっと地続きな感じだから、その肝心なポイントがわからなかった。
それでも、念願かなったということで、今さらだけど、自分が重要な場所にいることの味わいを噛みしめた。わざわざ意識して噛みしめないと、ただ地面に立っているのと錯覚しそうだったからである。
ここで、流氷の上に立つのがどんな感じか説明しておこう。
まず、流氷は地面のように固く、まったく動かない。飛び跳ねても、氷がひび割れたりしない。もう少し春になれば、もっとプカプカした感じになるのかもしれないが、今の時期はぎっしり密に詰まって、大地のようだ。
大地といっても表面は平らではなく、そこらじゅう凸凹していて、その上に雪が積もっていた。なので歩くルートはよくよく選ぶ必要があった。
沖に行くにつれその凸凹は大きくなり、厚い氷の板がでたらめに立ち上がったり重なり合ったりして、手を使ってよじ登らないと先へ進めなくなる。なかにはモノリスのようにきれいに立ち上がっている氷もあった。
海がのぞいている場所はほとんどなかった。ときどき氷が青く透けて、そこが海の上であることを感じさせる場所はあったものの、それでも氷の厚みは相当あり、足でガシガシ削ってみても、とても穴など開きそうにない。海に落ちる心配はまったくなかった。
流氷を知らない人に電話して、
「今、私は船にも乗らず、道具も使わないで海の上に立っています、さてなぜでしょう?」
ってクイズを出したい。こんなことができるのは、日本ではオホーツク海だけだ。
陸地から数百メートルも離れただろうか、ある程度沖まで歩いたところでみんなで立ち止まり、景色を眺める。
これ以上進んでも同じという判断だった。たしかにひたすら氷が続いているだけなので、とくにこの先に重要なアトラクションが待っている気がしない。
ガイドの話によると、流氷はここ数年でだいぶ少なくなったそうである。多いときの5分の1ぐらいだそうで、あと50年もすると来なくなるかもしれないとのこと。
やはり温暖化のせいかと思うと気持ちが落ち込むが、逆に今の5倍の流氷が来たとはいったいどういう状況なのか、そっちのほうが想像がつかなかった。
ガイドはさらに、流氷が接岸すると知床は内陸性気候になる、と教えてくれた。気象的な観点で言えば、ここはもう海ではないということだ。海面が閉ざされてしまうため、水分の蒸発が起こらないわけである。気候まで変えてしまうとは、流氷おそるべしである。
私はどこまでも続く流氷原を見渡した。
日本において水平線はどこでも見られるが、氷の水平線はここでしか見られない。
やがて傾きはじめた太陽の光が、流氷をかすかにピンク色に染めて、あたりは幻想的な雰囲気に包まれてきた。
おおお、これだこれだ、こういうのが味わいたかったのだ。
雄大で、美しい眺めであった。
と、自然の雄大さに思いを馳せている私の横で、テレメンテイコ女史が、流氷の一部をもぎ取っていた。
「何やってるんですか?」
女史はニヤニヤ笑いながら、
「ホテルに戻って、オン・ザ・ロックにします」
彼女の脳みそには、この雄大な大自然も、グラスに入れる氷にしか見えないらしい。
流氷→氷→オン・ザ・ロック
まったくアルコール中毒者の考えそうなことであった。
酒の飲めない私と違い、取材にかこつけてどこかで旨い酒飲んで旨いもん食いたいというのが、テレメンテイコ女史のこの連載における最大のモチベーションなのだ。氷に赤潮でも混じっていればいいと思う。
その後われわれ一行は、帰る途中に、流氷ウォークのゲスト用にわざと開けてある穴に立ち寄り、体ごと入ってみたりして、ひと通りオホーツク海を堪能。そうしてまた海の上を歩いて、どこで陸にあがったのかうやむやな感じで知床半島に戻ってきた。
「なんか地上歩いてるのと変わりませんでしたね」
とテレメンテイコ女史。
たしかに実況中継はうまくできなかったし、流氷のイカダに乗ったり、つるつる滑って海に落ちたり、流氷の下をのぞいてクリオネを見たりするのかと想像していたので、少々イメージが違ったけれど、それでも流氷の上に乗るのはどんな感じか知ることができたから、私は納得している。
むしろガイドの話にもあったように、これほど密に流氷に覆われた海は、今後はなかなか経験できなくなっていくのかもしれないとすれば、逆に貴重な体験をしたとも言える。
「おじいさんが若い頃はな、流氷で海が陸のようになったものだよ」
将来孫にそう話して聞かせる自分を想像した。けど、思えばもう若い頃じゃないので、
「おじいさんが中年だった頃はな、流氷で海が陸のようになったものだよ」
こうして、私の流氷ウォークは終わったのだった。
われわれはこの後、網走に戻り、飛行機が出るまでの時間を利用して、北方民族博物館やオホーツク流氷館、さらにモヨロ貝塚館に、網走市立郷土博物館を見学した。
網走には博物館が多い。なかでも北方民族博物館は、大阪にある国立民族学博物館の北海道版といった感じで、非常に見ごたえがあった。モヨロ貝塚館や郷土博物館もそうだが、大和民族とは違う北の民族に関する展示が見られ、北海道といえばアイヌ人かと思ったら、それより前に、オホーツク人や擦文人(さうもんじん)というのがいたらしいのだった。
オホーツク人は狩猟民族で、擦文人は農耕やサケ・マス漁をして暮らしていた。このふたつの民族はやがて衝突、融合しトビニタイ文化が生まれたという。まるで日本じゃないよその国の話のようである。
テレメンテイコ女史は、オホーツク人と擦文人の住居の展示を見比べ、もしお嫁に行くとしたらどっちがいいか検討していた。
熟考の結果、家のつくりがいいオホーツク人のほうにするそうだ。
「でも狩猟民族だから、家の中とか臭いのかなあ」
何でもいいから、さっさとオホーツク人のお嫁さんになって、氷の上をどんどん歩いていけばいいのであった。
テレメンテイコ女史が最後はオホーツクの幸で締めましょうと宣言し、寿司屋に行ったら、オホーツクのネタはウニしかなく、
「オホーツクの魚はないよ」
とあっさり言われる。
オホーツクに来て、オホーツクの魚が食べられないとはどういうことだ、と思ったら、漁ができない、と大将。なるほど、流氷に閉じ込められているから、船など出せるわけないのだった。
流氷→海の幸なし
一瞬驚いたが、考えてみれば、当然のことであった。
(オホーツク編 了)
日本全国津々うりゃうりゃ 仕事逃亡編
仕事を放り出して、今すぐどこかに行きたいじゃないか! 根っからの怠け者だが、無類の旅好き。人間、旅行以上に大事な仕事があるだろうか。鬼編集者テレメンテイコ女史とともに流氷ウォーク、粘菌探し、ママチャリ旅に手漕ぎボート、果ては迷路マンションまで。どこでも行くが、どこでも脱線。読むほどに、怠け者が加速する脱力珍旅エッセイ。