8月に発売されたばかりのヤマザキマリさんの最新刊『ムスコ物語』。夏休み、子育てに悶々とするお父さんお母さんの心に風穴をあける、爽やかな地球の風そよぐ物語です。今回はその中から「第二話」を抜粋してお届けしています。
第二話 おかえりデルス
8月の暑い昼さがり、大型観光バスが3台連なって、リスボン東部のオリエンテ駅裏の駐車場に続々と入ってきた。リスボンに引っ越して40日目、まだこの街のことは夫にも私にも子供にもよくわからない。それでも私たちは、毎日抜けるような青空に眩しい太陽が輝き、穏やかな海風が吹き付けるこの街でなら、ちょっとくらい辛いことがあっても、まあ、とりあえずなんとかやっていけるんじゃないかと、前向きな気持ちになっていた。
バスは3台とも満員だった。皆、ダノンヨーグルトの裏蓋を30枚集めて、この企画に応募した地元の子供たちである。中にはうちの子供のように、家族や周囲の人の力を借りた子もいるだろう。
私と夫はバスから流れ出てくるたくさんの子供たちと、彼らとの再会に沸き上がる親族の群がりを搔き分けて、息子のデルスの姿を探した。体に見合わない大き過ぎるリュックを背負ったデルスは、真ん中のバスから一番最後によれよれとおぼつかない歩調で出てきて、私たちを見つけるなり嬉しそうに微笑んだ。この頃、子供たちはまだ携帯電話など持ち歩いていなかったから、3泊4日のこのヨーグルト・キャンプでデルスがどんなふうに過ごしていたのかは、私たちには知る由もない。彼にこの企画への参加を勧めた張本人であり、本人もアニメーターのアルバイトとしてこのキャンプに同行していた女子大生のヴェラから、毎日「デルスは元気ですよ」程度の短いSMSを受け取ってはいた。実際、私も夫もたいして心配はしていなかった。きっとあの子のことだから、たとえまだポルトガル語がわからなくても、すぐに周りと打ち解けるはずだ、と確信し切っていた。毎日親子で必死になってヨーグルトを消費していた最中にやってきたヴェラも笑いながら「デルスなら大丈夫、このキャンプでポルトガル人の友達がたくさんできるはずです」と、本人も貯めてくれていたダノンヨーグルトの裏蓋をデルスに渡した。さあ、これで30枚。当たるといいね。私たちはヴェラの私たち親子に対する心遣いに感謝した。
イタリアからリスボンまでは、夫の車で引っ越した。実家からもらった鍋や食器などの家財道具と、それまでの滞在先だったシリアから連れてきた猫を詰め込んで、約3000キロの距離を3日かけて辿りついた。リスボンという街の右も左もわからないまま、とりあえず住居探しの次に急いだのは、リスボン大学の人文学科のキャンパスへ行き、子供のポルトガル語の家庭教師募集の貼り紙をしてくることだった。秋からは学校が開始される。デルスには片言でもポルトガル語を学んでもらう必要があったからだ。一番最初にその貼り紙を見て連絡をくれた学生がヴェラだった。
「日本人は語学を学ぶ時、どうしても文法の構造を間違えずに喋らなければならないと思うから、他の外国人と比べてなかなか流暢になれない、と先生が言っていました」と、初めてのレッスンの前に交わした会話でヴェラはそう言った。彼女は〝外国人に対するポルトガル語教育〟という授業を取っているのだという。もってこいではないかと夫は喜んだ。
夫と出会う前、母親である私とふたりきりの暮らしの中で、デルスは何度か計画性のない母親の旅に付き合わされ、滞在先の現地の子供らと、言葉や習慣の壁を乗り越えて打ち解ける術を身につけていた。とある南太平洋の小さな島では、周りの子供らが喋っているメラネシアの言葉を、意味もわからないのにタモリの外国語擬態さながら真似しているのを見たこともある。村の食堂にあるテレビで放映されていた『バットマン』を、子供たちとずらりと並んで視聴しながら、懸命にエセ現地語で何かを伝えようとしていたのである。現地の子供もそんなデルスを訝しがるでもなく、理解しているようなそぶりで対応しているのが微笑ましかった。なので、日本人に外国語を教える心構えについて語るヴェラに「デルスは多分、あまり言語については几帳面じゃないし、すぐ場に慣れるタイプだから大丈夫だと思う」と笑って伝えた。
そんなヴェラが「ポルトガルに最速で馴染めるチャンス」と勧めてくれたのが、この3泊4日のキャンプ企画だった。場所はリスボンから1時間半ほど北に上がったレイリアという街の近郊にある森林公園だった。まだポルトガルで商品の展開が始まって間もない乳製品会社『ダノン』の広告企画だそうだが、裏蓋30枚だけ集めれば、当選しても費用は一切かからない。何よりヴェラが同行するというのがありがたかった。デルスも、ヴェラがいるなら行く、と胸を躍らせた。抽選に外れませんようにと毎日お祈りしていたら、間もなく当選通知が我が家の郵便受けに届いて家族中で歓喜した。早速ヴェラに報告すると、応募数が足りなくて結局全員当選にしたのだという。
「ポルトガル人は保守的だから、どんなものでも新しいものを受け入れるのが苦手なんです。たかがヨーグルトとはいえ、新製品にはなかなか乗り換えない。慣れれば寛容になるんですけどね」と苦笑いをし、私たちもポルトガルの緩さを知ってほっとした。
それでもバスから降りてくる子供たちは総勢で150人くらいはいた。我々も周りの家族と同じく、暑い日差しの照り返すアスファルトの駐車場でデルスと3日ぶりの再会を喜んだ。たったひとりでバスから降りてきたデルスは満面の笑みのまま真っ直ぐこちらに向かって来るが、特に周りにいる子供たちと言葉を交わしたりする気配もない。別段親しい友達ができたわけではなさそうだが、楽しかったよ! と私を見るなりそう言った。良かったね、えらかったね、ブラボー、デルス! と夫に労われたデルスは照れ臭そうにしていた。
家に帰ると、デルスはリュックから紙に包まれた鹿とイルカの小さなガラス細工を取り出して、私にお土産だと差し出した。キャンプ地からそれほど離れていない距離にマリニャ・グランデという、昔からガラス工芸で栄えた街がある。南蛮文化が渡来していた頃「びいどろ」というポルトガル語の呼称で伝わったガラス細工も、この街で作られたものだろう。この街の伝統的な工場にキャンプの参加者たちで見学に行き、目の前で作ってくれたものを、もらったんだか買ったんだかしたのだという。ぐにゃりとしたガラスのタネを、手際良く動物の形に整える職人の巧みなテクニックを伝えようと懸命になっているデルスが愛おしくなって、小さな肩を抱きしめた。
私は、自分が14歳だった時の経験を思い出していた。欧州という全く自分と縁もゆかりもない土地を、1ヶ月もひとりで巡るのは怖かった。いくら3泊4日の集団でのキャンプとはいえ、全く慣れない土地に家族から離れてたったひとりで投げ込まれてしまったあの感覚を、この子は10歳で体験させられたんだ、と思ったとたん急に自分の楽観性が疎ましくなった。正直、キャンプの参加は彼の将来を慮っても賛成ではあったけど、盛り上がる気持ちのどこかでそんな不安を懸命に封印していたところがある。私は子供の頃からひとりで外を駆けずり回るのが好きだったし、母が仕事で長く家を不在にすることも頻繁だったから、人様の家に預けられたり妹とふたりきりで留守をするのには慣れていた。だけどデルスは違う。キャンプのお土産を渡された時は嬉しかったけど、申し訳ない、という気持ちが胸の中に遮る間もなく雪崩れ込んできた。
その夜、キャンプで汚れたものを洗濯しようとしていて、寝袋の様子がおかしいことに気がついた。内側に何かベトベトしたものがねっとりと付着している。飴でも溶けてしまったのかと思ったが、それにしては範囲が広い。とりあえず水洗いをしようと思って広げてみた。ねっとりと、糊かハチミツのようでもある。これどうしたの、とゲームをしているデルスに問い質すと「いたずらされた」という答えが戻ってきた。別に気にしているふうでもない様子だった。「みんなでハチミツ作っている場所に行って、そこでハチミツもらって、多分誰かがそれをそこにぶちまけたんだと思う。寝ようとしたらびっくりしている僕を見て、みんなで笑ってたから」
私は一瞬固まった。そして再び寝袋の汚れを見てから、デルスに声を上げた。
「マジかよ、ダメじゃんそれ。ヴェラには報告したの!?」
「いや、言ってないよ、ヴェラ心配するから」
「心配していいんだよ、こんなことされたら、すぐに誰かに言わないと」
「いいって、いいって」とデルスは興奮する私に取り合うでもなく、笑っている。なぜ笑えるのさ、こんなことされて! 腹立たしい! と私の声はより情動的になる。
私とデルスのやりとりを聞いていた夫がやってきて、何を言うかと思えば「人間の子供なんてみんなそんなもんだ」と一言。「気にしていたらキリがないよ。少し辛抱して、別のことを考えたりしながら、自分が関心の対象にならなくなるのを待つ以外にないよ」
いじめられた経験がなかったら言えない言葉だと思った。
「外部から言葉もわからない新参者が入ってきたら、それくらいの儀式はされるんだよ、それが共同体ってやつの性質だよ」
夫の言葉に耳を傾けているデルスを見て、私はもうそれ以上余計なことは言わなかった。「畜生、これをやった子供の親のところに怒鳴り込みに行きたいよ、今すぐにでも。猛烈にムカつく!!」と激しく悪足搔きをしてみたが「はじまったはじまった」というふたりの苦笑いが返ってきただけだった。
夏休みが終わって、いよいよ新学期が始まる頃、実家から戻ってきたヴェラが久しぶりにポルトガル語のレッスンにやってきた。キャンプの話になり、私は思わずハチミツ事件のことを打ち明けていた。ヴェラはびっくりした表情で私を見て「そんなことが」と申し訳なさそうに表情を曇らせてみせるも「でもいつも見てましたけど、デルスは楽しそうでした。ご飯ももりもり食べてたし、レクリエーションにも積極的に参加していたし」とそれ以上ハチミツ事件には執着しない。「滝のある泉で一緒に水浴びもしたよね、ね、デルス」と声をかけられ、デルスは「ああ、カショエイラ」と声を上げた。カショエイラって何さ、と言うと、「ポルトガル語で滝だよ、ママ。今度連れていってあげるよ、めちゃくちゃ良いところだったから」。にこやかに思い出話を交わしているヴェラとデルスを見ていると、ひとりで何日間もハチミツ事件への憤りを抱え続けているのが馬鹿らしくなってきた。
ヴェラが帰ったあとに「ヴェラも大変だっただろうなあ、子供150人なんて普通じゃ無理だよ」と夫が呟くと「ヴェラも楽しそうだったよ」とデルス。滝に行った時、ヴェラのピンク色の水着姿が人気だったと明かした。その言葉に夫がすかさず食らい付き、私も思わず、どんなふうだったの、どんな水着姿だったのよ、と問いかけると、「ヴェラはなかなかボインだったよ」とイタリア語ではなく日本語での返答。ボインという言葉は私が漫画家の友達と交わす会話から学んだのだろう。夫は日本語がわからないがヴェラの水着姿を思い浮かべたのか「いいなあ」と羨ましそうだった。
何はともあれ、自分の14歳のひとり旅と同じく、楽しい楽しくないは別として、彼にとってはきっとどこかで役に立つ経験だと思うことにする。もしかすると私たちには推し量れないくらい傷付いていたのかもしれないが、そんな辛さも屈辱も強い大人になるには必須栄養素だと都合よく捉えることにする。
その夜、ベッドで猫と一緒に寝息を立てて眠るデルスのこんがり日焼けした頰の表面に、古くなって剝がれた皮膚が粉になってこびりついていた。私たち家族のリスボンでのはじめての夏は、窓の外から香ってくる海のにおいとともに、着々と過ぎていった。
(次回につづく)
『ムスコ物語』刊行記念
国籍?いじめ?血の繋がり?受験?将来?なんだそりゃ。
「生きる自由を謳歌せよ! 」
『ヴィオラ母さん』で規格外の母親の一代記を書いた著者が、母になり、海外を渡り歩きながら息子と暮らした日々を描くヤマザキマリ流子育て放浪記。
「どうってことない」「大したことない」。スパッとさらっと、前を向いて「親こそ」楽しんでいこう!