8月に発売されたばかりのヤマザキマリさんの最新刊『ムスコ物語』。夏休み、子育てに悶々とするお父さんお母さんの心に風穴をあける、爽やかな地球の風そよぐ物語です。今回はその中から「第六話」を抜粋してお届けしています。
第六話 ババとチェロ
「仕方がない。孫の代までは私の責任だ」
これは母が初めて私の子供と対面した時の言葉である。17歳から親元を離れた娘が、経済力も生活力もない詩人の男性と一緒になって11年目。結婚もしていないのに、いきなり孫ができたとわかった時の彼女の心境はいかなるものだったのかが、この言葉に簡潔に表現されている。母は単純に、心底から喜んでいた。この言葉も決意を宣言するようなものではなく、満面の笑みとともに漏れ出てきたものである。
母は最初の夫とは死別、そしてその後の夫とは離婚という形でシングルマザーとなって、私と妹のふたりの娘を育てた女である。そしておそらく、そんな話をされたことはないけれど、きっと死別した元夫との前にだってお付き合いをしてきた男性はいるだろうから、娘が自分にとって少しも納得のいかない男と同棲し続けていることも、とやかく口出しをすることはなかった。ただ、フィレンツェの娘の家まではるばるやってきても、彼女はたいてい1日か2日滞在するだけで、その後はさっさと北イタリアに暮らすイタリア人の友人の家へ行ってしまう。理由はフィレンツェの家では公共料金が支払えずインフラが機能していないことが多かったこと。そんな貧乏で荒み切った暮らしの中で、社会生活に適応できない詩人と絵描きの切迫した喧嘩など見るに堪えない、というものだった。
日本に一時帰国していた頃、家に遊びに来た幼馴染の友人が母に「お母さんはマリさんが貧乏で働かない彼氏と苦労していることについて、別れてほしいと思わないのですか」とストレートに問いかけたことがあった。母はわははと笑いながら「べつに。そんなこと私には関係ないもの」と間髪を容れず断言した。
「私はマリの彼氏は好きじゃない。マリだってあの人と一緒でなければどんなに楽になるかと思う。でも本人がそれでもあの人と居たいというのなら、もうそれは仕方がないことなのよ」
母の若かりし頃の恋愛経験や親との軋轢を推し量らずにはいられなくなるような回答だった。
だから母は単純に詩人との苦しい生活を断ち切ってきた私にも安堵を覚えただろうし、思いがけない孫の出生に対しては驚きや動揺よりも、娘に人生をリセットする決意をもたらしてくれた感謝と歓迎の気持ちで溢れんばかりになっていたのだと思う。つまり母にとってのデルスは単なる孫ではなく、それまでの不安を解き放ってくれた、天から舞い降りてきた天使のような存在だったはずだ。実際自分の娘たちにはぎこちない態度しか取れず、明治生まれの父親仕込みで愛情を照れに邪魔されてうまく表現できなかったはずの母が、デルスには「かわいい」「いい子」と執拗に連呼する様は異様だった。孫に対しての祖父母の態度なんて誰でもそんなものなのだろうけれど、母は自分の選択した道に進むため、勘当状態で家を飛び出し、誰の力も借りずに見知らぬ土地で人生を切り開いてきた、鉄のように屈強な女である。甲冑を纏う代わりに女性らしい情動的言動を極力避けてきた頑固な人が、孫を前にしたとたん、それまで娘たちに見せたこともないようなでれでれの表情で接しているのは、単純に衝撃的だった。デルスが初めて喋った言葉が母を指す「ババ」であったことも、母の孫愛をさらに増長させるきっかけとなったのだろう。
「とにかくあんたはじゃんじゃん働きなさい、デルスのことは私が面倒見るから」と母は子守に意気込んでいたが、勤めていた交響楽団を定年退職したあとの彼女には50人ほどの弟子がいて、今までになく忙しい人になっていた。とても孫の世話など悠長にしていられるゆとりなどなさそうだったが「レッスンは孫が一緒でもできるから」と言われ、実際私が漫画だ、テレビのリポーターだ、大学だと10足の草鞋状態で働いている最中に、母はデルスを抱っこしたりおんぶしたりしながら、バイオリンのレッスンを行っていた。そしてそんな生活が数年続いた頃、母はついにデルスにも小さなバイオリンを買い与えた。
「本人が自分の意思でやりたいとも言ってないのに、押し付けるのやめなよ」とかつて強制的にバイオリンを習わせ、途中で嫌になって楽器を床に叩きつけられた過去のある娘に苦言を呈された母だったが、彼女は毅然と「わかってるよ。やらせてみて嫌だったらそれまでにしとく」と答えた。「とりあえず、子供っていうのは何事もやらせてみるまでわからないものなのよ」
私が生まれた当初、母はこまめに育児日記なるものをつけていた。途中夫を失っても娘とふたりで頑張って生きていこうと自らを奮い立たせる健気な文章の端々には、そのうち娘にもクラシック音楽を好きになってほしい、楽器を学び、自分と同じように音楽に感動できる人に育ってもらいたい、という願望がありありと滲み出ていた。いつか娘と一緒に合奏をしたい、という夢もあったようだ。
ところがふたりの娘はせっかく楽器を学ぶにはこれ以上ない環境で育てられながらも、音楽の道には進まなかった。前出の育児日記には時々「マリはどうやらクラシックよりもグループサウンズが好きなようだ」だの「マリはギターの音が聞こえると踊り出すし、人前で大声で歌い出す 困った」というようなことも綴られているが、まさに私は軽音楽好きな子供に育ってしまったし、楽器も強制という形で習うのが耐えられなかった。だからやめてしまったわけだが、その時いったん挫折せざるを得なかった「家族で合奏する」夢を、母は孫に託すことにしたらしかった。
まだ幼いデルスは一生懸命なババの気持ちを汲み取って、ニコニコしながらバイオリンのレッスンに励んでいた。自分の子供ではあったが、嫌な顔ひとつせず、灰汁の強いおばあちゃんの願望に応えようとしているデルスを素晴らしいと思いつつも、申し訳なくもあった。だから、よく「嫌ならやめてしまいなよ? ババのことは気にしなくていい。無理してやらなくていいんだよ、ママだって途中でやめたんだから」と母の見ていない隙にデルスに助言をすることがあった。「やめたいならママが代わりにババにそう言ってあげるから」と。ところがデルスはけろりとした顔で「大丈夫。やる」とバイオリンを習い続けたのである。
母は孫がバイオリンに熱心になってくれてすっかり気を良くしていた。気を良くするだけでは飽き足らず、とにかくどんどん上達してほしいという思いが募り、南太平洋に浮かぶフィジーの孤島へ親子3代で出かけた時もデルスのバイオリンを持参し、椰子の木が揺らぐバンガローの庭でレッスンを続行したのである。人々が安息を求めてやってくる楽園のような場所で、老婆が小さな男の子に懸命にバイオリンを教えているのは実に無理のある光景だった。おそらくどこからともなく聞こえてくるぎこちのないバイオリンの音に、周辺のバンガローの宿泊客もびっくりしたはずだ。
母はそもそも南国が嫌いである。戦争体験者であることが理由のようだが、南国はつまらない、暑い、文化が足りない、とその島に滞在している間も毎日ぼやいていた。南国の楽しみ方がわからず、つまらなさが頂点に達すると、私とデルスがたとえ海で泳いでいてもビーチに現れて「デルスーっ、バイオリンやるよーっ!」と大声で呼びかける。私はその都度「こんなところまで来ておきながらバイオリンだ!? もういい加減にしてよ!」と声を上げたくなる衝動に駆られるも、デルスに「ママ、いいから、いいから」と制される。そして「ババかわいそうだから、バイオリンやってくるわ」と文句も言わずに海から上がるのである。
齢4歳にして、祖母に気を遣う子供に成長していたデルスが不憫でならなかった。ところが、椰子の間からこっそりレッスン現場を覗いてみてわかったのは、私が思っているほどデルスの態度は真面目ではなく、だらけていることだった。彼は熱心な祖母に屈することもなく、それなりに楽しそうにレッスンを受けていたのである。
しばらくその様子を見てみると、3分弾いては「ふう、ねえババもう疲れた、ちょっと休憩させてよ」だの、弾いている途中で急に弓を休め、「ねえババ、教える時、鼻の穴が大きくなるね、どうして」などと茶化して全く集中している様子がない。なるほど、こんな調子だったらそれほどレッスンも苦になってなさそうだ、と納得はしたものの、今度はそんな孫のために懸命になっている母が哀れになってきてしまった。このフィジーのバイオリンレッスンを目撃して以降、私もあれこれ口出しはしなくなったが、その翌年、突然デルスの楽器がバイオリンからチェロに持ち替えられていたのには驚いた。
「だってあの子、全然集中してやらないんだもの。立って弾いてるのが疲れるって言うから、じゃあ座ってできるチェロはどうだって勧めたのよ。そしたらやるって言うから」
私は学校から戻ってきたデルスに「あんた、ほんとにチェロやるの? やめていいんだよ、何度も言ってるけど、やりたくないこと無理にやりなさんな」と忠告した。しかしデルスはいつも通り「大丈夫」と嫌がっている様子もない。母はチェロを弾けないので、レッスンは当時の札幌交響楽団の団員だった女性に頼んでいたが、デルスはこの先生が大好きだった。美人だけど飾り気がなく、レッスンもユーモアに溢れていたし、しかも彼女の奏でるチェロも素晴らしかった。おかげでデルスはチェロという楽器と真剣に取り組むようになっていた。素敵な先生に対しては、祖母の時のようにいちいち疲れただの、鼻の穴が膨らんでいるだのとおちゃらけることも許されない。バイオリンをチェロに持ち替えさせ、良い教師を選んだ判断も含め、母は満足そうだった。そして自分の弟子たちを集めた子供オーケストラを構成した折には、すかさずチェロのポジションにデルスを据えた。
「将来ヨーヨー・マみたいにならないかしらねえ」とデルスが敏腕チェリストとして育つことを夢見る母だったが、それから数年後、私の結婚を機にデルスも日本を離れることが決まってしまった。母はがっくりと意気消沈し、デルスがチェロを続けていけなくなることを残念がった。
「せっかくここまでやってきたのにもったいない。シリアでもチェロできる人いるでしょう、もったいないからデルスにはチェロのレッスン続けさせなさいよ、頼んだわよ」と私は母から何度も念を押されたが、実際シリアではチェロの先生を見つけるゆとりはなく、それからしばらくあとに引っ越したポルトガルで、デルスがやっとチェロを手にするまで半年近く掛かってしまった。でも、リスボンの交響楽団に所属している若いチェリストの先生とは言葉の壁を越えて意気投合し、通っていた現地の小学校でもデルスのチェロは合奏のたびに重宝され、中学では教師たちで構成されるバンドにまで駆り出されるようになっていた。
6年に及ぶリスボンでの生活が終わり、新たなる転居先のアメリカのシカゴでデルスが転入したのは、偶然にもシカゴの公立高校の中でも特に音楽教育に力を入れている高校だった。授業の一環として3段階のレベルに分けられた学生だけのオーケストラが存在し、デルスはオーディションを経て、既に幼少の頃から楽器を習っている学生たちで構成された一番ハードルの高いオーケストラに配属されることになった。そして年に2回催される音楽会のために、デルスは学業と同時に今までになくチェロを練習しなければならなくなった。それを知った母はいたく感激し「ほら、やっぱり楽器やらせてて良かったじゃないの!」と勝ち誇ったように喜び、80歳にしてはるばるシカゴまでデルスの舞台デビューとなる音楽会を見にきたのだった。
春に催されたそのコンサートでデルスたちのオーケストラが演目として奏でたのはジョン・ウィリアムズの「スター・ウォーズ組曲」だった。『スター・ウォーズ』が大好きで全てのシリーズを観ているだけでなく、レゴでもあらゆるシーンを組み立ててきたデルスにとって、これ以上ない最高の選曲だった。舞台で楽しそうにチェロを奏でている孫の姿に、はるばる日本からやってきた母はまたひとしお感動したようで、私の隣りで一言も口をきかずにじっと客席から舞台を凝視していた。シカゴという世界でも屈指の交響楽団のある街の、高校のオーケストラでチェロを弾く孫の姿は彼女にとって感無量だったに違いない。
演奏が終わり、カブトムシのようにチェロを担いで楽屋から出てきたデルスに母は「チェロやってて良かったじゃないの!」と声をかけた。デルスは「ババのおかげです」と久しぶりの、自分よりも小さくなってしまったババを労った。「ババのおかげで、言葉がわからなかったポルトガルでもアメリカでも、チェロですぐに周りと打ち解けられたから」
なるほど。そういう意味では確かに母の音楽教育ゴリ推し姿勢は、世界転校を繰り返してきたデルスにとって相当役に立ったと言えるだろう。だが母は決して褒められても舞い上がる女ではない。感謝された照れを隠すつもりだったのか「だけどね、まだ練習足りてないのが見ててわかったよ。練習もっと頑張んなさいよ」と発破をかけた。デルスはそんなババのそばでニヤニヤ笑っていた。
あれから数年後、母は病を患って入院生活となり、デルスはハワイ大学の工学部で日々勉強に追われて、チェロを手にすることも、演奏を誰かに聞かせることもなくなってしまった。でもこのところ私に「チェロが弾きたい」と漏らすことが増えてきた。せっかく何年も習ってきたし、またババに聞かせてあげたいよ。あのさ、ママはやめろやめろってやたらと煩かったけど、僕はババが自分の演奏を褒めてくれるのが結構嬉しかったんだよ。チェロを弾くのも好きだったし、演奏を誰かに喜んでもらえるって単純に嬉しいことなんだよ。それわかってなかったよね? とデルスは胸に溜め込んできた思いを私の前で顕わにした。
無償の愛情を注ぎまくった結果とはいえ、すっかり大人になった孫からそんなことを言われるババは、つくづく幸せものだと思うのだった。
(次回につづく)
『ムスコ物語』刊行記念
国籍?いじめ?血の繋がり?受験?将来?なんだそりゃ。
「生きる自由を謳歌せよ! 」
『ヴィオラ母さん』で規格外の母親の一代記を書いた著者が、母になり、海外を渡り歩きながら息子と暮らした日々を描くヤマザキマリ流子育て放浪記。
「どうってことない」「大したことない」。スパッとさらっと、前を向いて「親こそ」楽しんでいこう!