地主というと「先祖代々受け継いだ土地を貸しているだけ」というイメージがあるかも知れません。
しかし、地主はその財産を食い物にしようとしている様々な人々……不動産、建築、金融、紙業に関わる業者、身内に常に狙われています。
『地主のための資産防衛術』では、そんな地主のために様々な資産防衛術を紹介しています。
著者の芝田泰明さんは、叔父との8年間にもおよぶ壮絶な相続争いの体験と、その経験をもとにした資産を守る方法をまとめています。その生々しい相続争いの中身を一部公開します。
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11代続いた家の最大の危機
三十数年前、私の叔父は、田んぼの真ん中に書店を建てました。
いわゆる「郊外大型書店」の走りでした。
そこは私の祖母(叔父の母親)名義の土地でした。開店のタイミングも、立地もよかったので、その書店は大いに繁盛しました。
叔父は、テナントを借りて2号店、3号店と支店を増やし、レンタルビデオ店やインターネットカフェなど書店以外にも手を広げ始めました。
バブル景気の勢いに乗って、商売は長期にわたって右肩上がりが続き、最盛期には8店舗、従業員170名を抱える大所帯になりました。
いつしか叔父は地元の名士となり、どこへ行っても「社長、社長」と下にも置かない歓待を受けるようになりました。
そして、彼の周囲では、彼の言葉は絶対の威力を持ち始めました。叔父が「白」と言えば黒いものも白くなるような空気が醸成されていたのです。
その「空気」はバブルが去ってもそのまま続きました。誰ひとりとして「それは間違っている」と指摘できぬまま突き進み、いつの間にかずれた軌道は、取り返しのつかないところまで進んでしまったのです。
当時、小学生だった私は、その書店がオープンして、繁盛していった様子を覚えています。
その頃は、盆や正月ともなると本家である私の家に親戚一同が集まり、大勢で宴が繰り広げられるのが常でした。賑やかに酒を酌み交わす大人の男たちと、おしゃべりに余念がない大人の女たち。日本中どこにでもある、ごく普通の親戚同士の風景でした。普通の親戚と違っていたのは、そこに集まっていたのが同族会社という同じ船に乗る運命共同体だったことですが、子どもだった私にはそんなことを知るよしもありません。
叔父が社長で、父母・祖父母・叔母が役員。親戚みんなでひとつの会社を仲良く切り盛りする、そんな平和な関係が、この先もずっと続くと思っていました。
周りからいじめられた子供時代
どうやらうちは資産家らしい、と知ったのは小学生の頃でした。大型書店の成功により友達の誰かが気付き「金持ち、金持ち」とはやしたて始めました。中学生になると「マンガをタダでちょうだい」と言われ、高校生になると「お前の店で万引きしてやった」とまで言われました。
嫌な気持ちでした。同じ人間なのに、大型書店が成功したことでいじめられるのか。好きでこの家に生まれてきたわけじゃないのに、そう思いました。
友達が私を攻撃し、傷つけたのは「嫉妬」という感情が原因なのだと理解できたのは、ずっと後のことでした。
家が資産家なのは生まれつきで、自分の才覚で得たものではありません。生まれつきくわえていた銀のスプーンを、私は心のどこかで後ろめたく思いながら大きくなりました。
起業家を目指して上京
大学を卒業すると、私は大阪のマンションデベロッパーに就職しました。新卒の私にゼネコンの所長と交渉をさせるような「むちゃぶり」をする会社でしたが、おかげで硬軟ありとあらゆる交渉術を学ぶことができました。
当時、経営コンサルタントに憧れていて、1年間就職活動を続けた結果、その粘りを買われて入社することができました。経営コンサルタントの仕事は多岐にわたっていました。なかでも資料作りが得意になり、最後には、社長が訴えられた際の裁判資料を作るまでになりました。
いつしか私は「起業する」ことを夢見るようになっていました。ちょうどライブドアの堀江貴文氏がニッポン放送やフジテレビの株を買い、マスコミに華々しく登場した頃です。自分の実力で巨大な富を築いたホリエモンがたまらなく格好良く見え、テレビに彼が映るたび、私は「よし! 自分の力でやってやろう!」と決意を新たにしていました。
「お前にできるわけがない」
そう言って、水を差したのは父でした。起業の話題だけでなく、いつもそうでした。
就職で悩み、相談したとき父は「どんな会社でも思いっきりやればよい」と言ってくれました。しかし直後に、「でもお前が俺を抜くことはない」と言い放ちました。そんな父が私は苦手、正直に言えば嫌いでした。
ライブドア事件でホリエモンが逮捕された翌年、私は大阪の会社を辞め、今度は東京の経営コンサルタント会社に就職しました。
地元を、親元を離れて、自分の力を試してみたいと思ったのです。しかし、兵庫県に実家があることから大阪事務所立ち上げメンバーに加わることになってしまいました。「意地でも実家に帰りたくない」と言って東京に住み、上司や同僚達に呆れられつつも東京から大阪に出張しながら仕事をこなしていました。
親戚の手前もあったため盆と正月くらいは帰省しましたが、その頃の私と実家との関わりは、母から時折届く野菜と手紙、私からは短いお礼だけでした。
父からの相談
お盆に帰省した際に、珍しく父が私に相談をもちかけてきました。父は顧問税理士法人が作成した同族会社・芝田グループの収支表を私に見せながら言いました。
「お前、経営コンサルタントをやっているんだろう? 今、会社が最悪の事態になっている。どうすればいいと思う?」
叔父のデタラメな経営により、同族会社は傾き、今も借金が増え続けている。
顧問税理士法人の経営コンサルタントである担当部長が返済計画を立ててくれたが、土地を売却して返済することになる。バブル時代には何十億もの価値があった芝田家の土地は、現在たった数億円の価値しかなく、希望通りの値段で売れるかどうか分からない。
とにかく借金が多すぎる、このままでは本家の家屋敷も売って、所有している古い貸家に移らなければならなくなってしまうかもしれない……。
借金が増え、父は追い詰められて私に相談してきたのでした。藁(わら)にもすがる心地だったのかも知れません。
しかし、経営コンサルタントであるといっても上っ面の事実と論理を集めて話すだけ、経営の経験などないのですから、経営の本質なんか知りません(少なくとも当時の私はそうでした)。私は父を追い込むほど借金が多額であったことも知りませんでしたし、借金を抱えた父の心労がどれほどのものか、想像すらしませんでした。
結局、「顧問税理士法人に任せておいたらいいんじゃないか」としか答えられませんでした。
父は「そうか」とだけ言って、肩を落としました。今でも、あの時もう少し私が地主としての自覚を持っていたら、と後悔しています。
そして父は自ら命を絶った
父が自死を選んだのは、その2年後のことでした。
私は東京に戻り、転職した大手IT企業で実績を上げ、その勢いで上司が誘う投資ファンドの設立に参画しました。しかし、蓋を開けてみると、それはとんでもなく嘘にまみれた酷い話の連続でした。「100億円調達できている」と言いながら、実際に調達できていたのは4億円にも満たないなど、現場は混迷を極め、私は自分自身の未熟さを痛感すると同時に人間の狡猾さを思い知らされました。
結局、使い捨てられる形で私はその会社を後にしました。
何もかもがうまくいきませんでした。しかし、実家には戻りたくない、まだ東京でやりたいことがあると思っていました。
2012年4月。私は何度目かの就職活動を開始しました。
3社の面接が決まり、この中のどこかの会社に入社できればいい、そう思っていた矢先のことです。