地主というと「先祖代々受け継いだ土地を貸しているだけ」というイメージがあるかも知れません。しかし、地主というのはその財産を食い物にしようとしている様々な人々……不動産、建築、金融、紙業に関わる業者、身内に常に狙われています。
『地主のための資産防衛術』では、そんな地主のために様々な資産防衛術を紹介しています。
著者の芝田泰明さんは、叔父との8年間にもおよぶ壮絶な相続争いの体験と、その経験をもとにした資産を守る方法をまとめています。
その生々しい相続争いの中身を一部紹介します。
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当時の状況
2012年12月の時点で、芝田家には3社のグループ会社がありました。
ひとつは本家の資産管理法人として1990年に設立、資本金300万円の(株)芝田久右衛門。
これは先祖代々相続してきた所有地を利用した不動産賃貸業で、現在も、私が社長として経営しています。
もうひとつが、叔父が代表を務める(株)A社。
7億もの借金を作った元凶でした。1985年設立、資本金4800万円。郊外型の大型書店としてスタート。レンタルビデオ店、インターネットカフェへと事業を展開。最盛期は売上高15億円、8店舗、従業員数170人でしたが、リストラが進み、2012年当時には3店舗にまで縮小し、父の死により旗艦店も閉店することが決まっていました。
3つめの会社が1996年、叔父が資本金1000万円で創業した(株)B社。
インターネット関連業でしたが赤字続き(この時点では存続していましたが2016年に解散、最終的に私が訴訟を仕掛けたことにより2020年に清算しました)。
また、当時の芝田グループの所有不動産は下記図の通りでした。
当時、芝田家は、顧問税理士法人に本家の資産管理法人と、叔父が経営する2つの会社、芝田グループの計3社の収支の管理を任せていました。叔父は「役員報酬を決めるため全体の個人収入を見たい」と言い訳をして、本家の不動産収入の数字を顧問税理士法人から入手していました。
父が亡くなった後、芝田グループ全体の収入を把握していた叔父は、本家の賃料収入に手を出そうとしていました。
A社からの収入がなくなるにあたって、叔父は今後の給料の代わりにするため、本家に相談もせず「芝田グループの不動産収入の分配を変えたい」と、分配計画表を作成して、母に突き付けてきました。
それは賃料収入の多くを自分と姉妹に割り当て、本家の負債や多額の固定資産税の支払いなどは一切考慮しない、酷いシロモノでした。さらに言えば私が東京から帰ってくる前に、祖母が所有していた月極駐車場1と畑は叔父が税理士法人部長と決めて売却し、A社の自分が作った負債返済に充てていました。
叔父の身勝手が露呈した計画に母と私は驚き呆れ、怒りに震えました。
叔父は、その計画通りになるものと確信しているようでした。
それでも、私はまだ「話せば分かってくれる」と思っていました。
コップを捨てる
私は折に触れて叔父に会社の再建について、今ある土地をもっと有効活用し収益力を強化するという意見を伝えていましたが、叔父は「リストラは土地の売却を前提としているため、月極駐車場を他社に貸してしまうと売れなくなる」などと、訳の分からないことを言って受け流すだけでした。
あるとき、叔父と2人で、A社の経営するネットカフェに立ち寄りました。セルフサービスのドリンクを飲み、さて帰ろうと立ち上がったその時、叔父は、洗い場に戻すはずのプラスチックのコップをポイとゴミ箱に捨てました。
「これは洗ってまた使うんじゃないの?」
「ああいいよ、こんなの、いくらでもあるから」
「ちょっと待って。借金があるのに。これも全部経費なんだよな?」
たかがプラスチックのコップひとつでも、大切な店の備品であり会社の財産です。莫大な借金を返すために切り詰めなければいけない現状を知りつつ「いくらでもあるから」とは。
その瞬間、私は確信しました。この人の感覚はおかしい。
その後、叔父のゴルフ代はもちろん、ゴルフの会員権、祇園で遊んだ金、海外旅行代金、呑み代、息子の車のガソリン代などなど、生活費の多くを叔父夫婦が経費につけていた実態が徐々に明らかになっていきました。
叔父の家の屋根瓦の修理代まで経費にしようとしていたと経理担当常務であった母に聞きました。その時母は、「会社のどこに屋根瓦があるの!」と叔父の妻に出してきた領収証をつきかえしたそうです。本家では、父も母もそんなでたらめな経費の使い方はしていません。
借金に思い詰める真面目で不器用な父を無視し、いいかげんで手前勝手な叔父夫婦は愉快に遊び暮らしていたのだと分かりました。
もっとも、私にも責任がまったくなかったとは言えません。
学生時代から私は、名前だけは(株)芝田久右衛門の役員になっていました。20代の前半頃、銀行に出す書類だからと訳も分からず強引にハンコを押させられたことが何度かありました。「重要な内容だろうな」と薄々気が付いていながら、きちんと説明を聞こうともしていなかったのです。
母のマンション売却交渉
祖母の月極駐車場1と畑に続いて、叔父の作った借金返済のため、母が相続したマンションの売却交渉がスタートしました。
母は当時A社の常務、そして本家の資産管理法人(株)芝田久右衛門の社長になってはいましたが、それは父亡き後に引き継いだだけのことで、社会経験はほとんどありません。そんな母に不動産の売却などできるはずがないため、叔父が仕切り、母に指示することになっていました。
顧問税理士法人を通して査定を依頼すると、1億8800万円となりました。それをベースに顧問税理士法人は1億7800万円で買うというK社を見つけてきました。
しかし、売却が決まった翌日、叔父は「やはり土地を残す方法を考えよう」と言いだし、売却を中止しようとしました。母は「いまさら何を」と反発しました。叔父は知人の老経営者に相談し「買ってくれる人がいるなら売りなさい」と説得され、ふたたび売ることを決断し、そう母に告げました。
その直後、叔父にメインバンクである銀行の支店長から「J社という地元の業者が同額で買いたいと言っている」と連絡が入ってきました。
叔父は二者の間で板挟みになり、どうしたことか、あとはまかせたと言って行方をくらましてしまいました。母からの電話にも出ず、どこにいるのかも分かりません。
いなくなった叔父
「叔父さんがいなくなっちゃった! 泰明、どうしよう」
まったくの素人である母は不動産の売却交渉をいきなり丸投げされ、途方に暮れていました。母からの緊急SOSを受けて、私が出ていくことになりました。
これが、私が叔父の負債整理のためにした最初の交渉でした。
顧問税理士法人の絡む買主(K社)と、メインバンクの支店長が紹介する地元の業者(J社)、どちらに母名義のマンションを売却するかを決めなければなりません。
今後の会社再建計画に顧問税理士法人の協力は必要不可欠であるため、内心はK社を選ぶしかないと考えていました。
地元のJ社に売るという選択はできないのですが、J社の社長から「弊社は仲介会社ではないので、手数料3%の534万円は不要ですよ」と連絡がありました。正直心が揺らぎました。現金は少しでも多く欲しいと思っていましたから。
「K社に売る際の手数料をどうにか減らせないか」
ここが交渉のしどころでした。
私は、K社に「地元業者に売却すると手数料の534万円が不要になると言ってきた。もう少し考えさせてください」と伝えました。
数日待つと、K社のほうから「手数料はナシでよいので、ぜひ仲介させてください!」と連絡をしてきました。K社は売却後の管理業務を受注することになっていたため折れるより仕方がなかったのです。
こうして私は、顧問税理士法人との関係を壊すことなく、手数料なしでマンションを売却することに成功しました。2012年12月のことでした。
最初の交渉に成功はしたものの、負債整理はまだ始まったばかりでした。
「このままうかうかしていると、本家は収入をすべて吸い取られ、A社の借金を押しつけられてしまう」
危機感を覚えた私は、自分の身を守るためにA社の経営に参画していくことを決断しました。
まずは本家側の言い分を叔父に伝えようと、行方をくらましていた叔父の家を予告なしに訪ねると、当の叔父が何食わぬ顔で出てきました。
その図々しさに怒りが湧きました。いろいろぶちまけたいと思いましたが、まだグループの借金返済には協力してもらわなければなりません。何とか感情を抑えました。
「借金の返済やリストラには協力する。本家の私たちは今持っている不動産の収入で生活していく。今後はそれぞれの生活のことはそれぞれで考えよう」と言うと、叔父は「そうだな」とつぶやきました。
叔父と私は仲が悪かったわけではなく、むしろよいほうでこの7ヶ月間の言動をうけて、叔父に対する不信感は募っていましたが、私はまだ、叔父に対して情を残していたのです。心のどこかで「話せば分かる」と信じていました。
そして、年が明けて2013年。
1月、私は税理士法人部長を呼んで、改めて過去の経緯をヒアリングしました。
税理士法人部長の話から、叔父のずさんな経営実態が浮かび上がってきました。