絶賛発売中の『読んでほしい』は、放送作家の主人公が、初めて書いた小説を、誰かに読んでほしいのに、いつまで経っても読んでもらえない、悪戦苦闘の日々を描いた物語。
前回、芸術家の後輩の作品を「買ってしまった」主人公緒方は―ー。
* * *
ポッドキャスターに読んでもらおう!編
買ってしまった。どんな理由であれ、私は田川に負けた。
「はぁぁ」
机の上に置かれたトーテムポール型“愛ちゃん”を眺め、私は大きくため息をついた。
何という失態。こんな異物に一万円も使ってしまった。ここは芸術家デビューへの祝儀としてか、または彼を茨の道へと送り出してしまったお詫び代として考えるしかない。
しかしながら、妻にこのことを伝えたら絶対に叱られる。出費を削り、工夫をしながら生活をやりくりしている妻が、このような異物に一万円も払ったと知ろうものなら、怒髪天を衝き、家を飛び出す事態になりかねない。
私は“愛ちゃん”を持ち、隠し場所を探した。
「正ちゃん。コーヒーを淹れたけど飲む?」
扉が急に開き、そこに妻が立っていた。妻は不思議そうな顔で“愛ちゃん”を見ている。
「なに、それ?」
「いや……ロケ先のお土産」
「お土産? なんか気持ち悪いね」
「そうでしょ。でも貰い物だから、どうしようもなくて」
「仕方ないね。テーブルの上にコーヒーあるから飲んでね」
「……ありがとう」
すまない。許してくれ田川。お世辞にもこれを素晴らしい作品とは言えない。
私は心の中で謝罪した後、“愛ちゃん”を押入れにしまった。
コーヒーを飲む。妻の淹れるコーヒーは美味い。どこにでもあるインスタントコーヒーなのだが、私の舌に丁度合う。妻は粉末コーヒーをスプーンに二杯入れるだけだというが、私が淹れてもこの味にはならない。レシピ通りに作っても微妙に変わるのだから、コーヒーは面白い。
「ねぇ正ちゃん。今日は仕事?」
「あぁ、そうだよ」
こういった質問になるのは緒方家の日常だ。私の仕事は自宅作業が多い。会議やロケなどは時間が決まっているが、自宅作業の時間は決まっていない。
放送作家というのは不思議な仕事である。例えば、傍から見ると何もせずポカンとしているようだが、頭の中では空想という仕事を続けている。頭の中ではコントのキャラクターやロケで動いていただくタレントさん達が、縦横無尽に駆け回っている。私の想像内のものだから、頭の中のキャラクター達はほとんどが面白くないことを言う。嫌になるが、繰り返し空想する。
そして、面白いことを言うのを待つ。面白いことを言ったら、メモをとる。そんな作業を繰り返す。それが頭の中の仕事だ。
だから、家でゴロゴロしていても、妻は今、私が仕事をしているのか否かを聞いてくれる。私は、ほぼ仕事中だと伝えている。無論、何も考えていないのに仕事中ですなんて嘘をつく日もしばしば。これについては引退後、謝罪しようと思っている。
「そうか、じゃあ難しいね」
「何で?」
「よかったら買い物行ってきてほしいなって」
「いいよ。買い物ぐらいなら行けるよ」
「本当!? じゃあお願い」
そんなに意外だったのか、かなり嬉しそうに妻は喜んでくれた。
そういえば、思い返すと、私は家の仕事や買い物などを手伝ったことは少ない。心の中で反省しながら、私は妻に頼まれたメモを持ち、家を出た。向かう先は青田スーパー。いつも自分が行くスーパーではなく、妻に指定された隣町の小さなスーパーだ。
妻曰く、青田スーパーは魚や野菜が安くて美味しいそうだ。安くて美味しいお店を探す主婦の努力には頭が下がる。
隣町へ車で移動し、青田スーパーに到着した。
午後三時ぐらいだったからか、店には客がおらず、私専用のスーパーとなっていた。スーパーは楽しい。いろんな食材が並び、色彩豊かで美しい。旬の野菜や魚を見ると、季節も感じられる。
私は妻に頼まれた野菜や魚を籠に入れ、レジに向かった。
「……三円かかりますが、レジ袋はいりますか?」
「あっ、お願いします」
不覚にもエコバッグを忘れた私はレジ袋を買い、白い台の上で食材を整理し、野菜と魚をレジ袋に入れた。その時、私は後ろから視線を感じた。
視線を感じた方を振り向くと、先ほどのレジの男が慌てて、顔をそむけた。
おかしい。私はいったん、視線を逸らし、再び見てみた。やはりレジの男は、先ほどと同じようにそっぽを向いた。
私の目には黒々とテカるストレートヘアの男の後頭部が見えている。なぜ私に視線を送ってくるのか? 私は恐る恐る、その男に近づいていった。このつるつるとした黒髪。見たことがある。
「もしかして? 矢方君じゃない」
「どうも、緒方さん久しぶりです」
とろりとしたタレ目、オズの魔法使いに出てくる案山子(かかし)のような頬のこけた顔。老けてはいるが、若い頃の面影はある。
レジの男は間違いなく矢方博だった。
「矢方君じゃん! 久しぶり!」
「久しぶりです」
「いくつになったの?」
「四十歳です」
「あれ? 同い年だったっけ」
「いや、学年で言うと一つ下です」
矢方博四十歳、以前同じアルバイト先で働いていた男だ。年齢は四十歳で同い年なのだが、私は早生まれなので、学年で言うと彼が一つ下だ。学年で言うと一つ下。大人になって起こる不思議なやりとり。久しぶりにこのくだりを味わった。
矢方君と会うのは二十年ぶりだ。お互い二十歳の頃に、居酒屋のバイトで知り合った。
私は放送作家を目指し、彼は俳優を目指していた。
だから、気も合ったし、その頃はよく遊んだ。
彼が所属する劇団のお芝居も見に行ったことがある。その頃はお世辞にも面白いと言えない芝居だった。そのせいかよく口論にもなった。若気の至りだ。今ならば脚本の苦労もわかるし、違う言葉で叱咤激励していたと思う。
彼との付き合いは長く感じるが、意外に短かった。一年も経たずに、彼は東京に行ったからだ。最初のうちは連絡を取っていたが、それもやがて途絶え、現在に至る。
「さっき、こっちを見ていたのに、何で声をかけてくれなかったの?」
「いや、僕なんて覚えてないと思いまして」
ネガティブな発言。これこそが矢方君だ。昔も今も矢方君らしい。この気持ちは私もよくわかる。よくわからない気遣い。誰よりもたくさん見てほしいのに、見てくれと言えない感じ。
思い出す。彼と私はそっくりなのだ。
「覚えているよ。逆によく覚えていてくれたね」
「覚えていますよ。緒方さんは僕の青春ですから」
「青春?」
「いや……何と言いますか」
矢方君は急にもじもじし出し、目をキョロキョロさせた。
「まさかボクのことが好きとかじゃないよね」
(ポッドキャスターに読んでもらおう!編つづく)
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読んでほしい
放送作家の緒方は、長年の夢、SF長編小説をついに書き上げた。
渾身の出来だが、彼が小説を書いていることは、誰も知らない。
誰かに、読んでほしい。
誰でもいいから、読んでほしい。
読んでほしい。読んでほしい。読んでほしいだけなのに!!
――眠る妻の枕元に、原稿を置いた。気づいてもらえない。
――放送作家から芸術家に転向した後輩の男を呼び出した。逆に彼の作品の感想を求められ、タイミングを逃す。
――番組のディレクターに、的を絞った。テレビの話に的を絞られて、悩みを相談される。
次のターゲット、さらに次のターゲット……と、狙いを決めるが、どうしても自分の話を切り出せない。小説を読んでほしいだけなのに、気づくと、相手の話を聞いてばかり……。
はたして、この小説は、誰かに読んでもらえる日が来るのだろうか!?
笑いと切なさがクセになる、そして最後にジーンとくる。“ちょっとだけ成長”の物語。
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