江戸時代の花街の最高峰、三大遊郭とはどんな場所なのでしょうか。そもそも遊郭では何をするのか、遊女たちの日常、太夫・花魁などの序列やビジネスの仕組み、明治・大正から現在に続く新たな価値観で揺らぐ遊女の地位。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より、一部を抜粋してお届けします。
新吉原でカジュアル化する遊郭。格式高い「太夫」が消滅し下位の「花魁」が台頭する
遊女自身のビジュアルや振る舞いだけでなく、客自身にも非日常的な贅沢さを体験してもらうことで、元吉原時代の仰々しいまでの格式を保持しようとしていた当初の新吉原ですが、時代がたつにつれ、この手のサービスはなくなり、遊女の揚げ代自体も物価の上昇のわりにはそう変わりませんでした。
これらは、遊女たちのお得意さんが、上流武士たちから新興成金に相当する商人たちに変化していったことも無縁ではないでしょう。商人はコストパフォーマンスにこだわりますから。
太夫や格子が消滅した宝暦年間以降の吉原では、繰り上げ当選的に散茶が最高位となっていきます。後に「花魁」と呼ばれるのは、この元・散茶たちのことです。その中でも花魁の名前にふさわしいのは「昼三」と呼ばれたクラスだけだ、と『洞房語園』は説明していますが、一般的には花魁は、何種類かに区分されました。
揚げ代が一番高くついたのは「呼び出し昼三」、その下に普通の「昼三(「附け廻し」とも)……というように続いていきます。
呼び出し昼三は茶屋に呼び出してもらって、宴会をしてもらえる分、高いギャラを得られる遊女というイメージです。昼三の中の上位物件といえます。なお、「昼三」とは揚げ代のことで、金一両一分というのが相場です。この呼び名の由来は、彼女たちと会うには「昼夜」、つまり一日丸ごと、彼女の時間を買いとる必要があるという意味でした。客が帰った後のことはわかりませんが、彼女たちは一日に一人しか(少なくとも同衾するメインの客は)とらない……というスタイルです。もともとの太夫や格子といった高級遊女の営業スタイルに近いと考えられます。
ただし、客にずいぶんとフレンドリーな接客をする経営方針となった新吉原では、遊女のランクによっては、このように「昼夜」つまり一日丸ごとでなくても、昼と夜のどちらかの時間だけを押さえればよい「片仕舞」というシステムが導入されるなど、値段のカジュアル化も進んでいきました。
その中で呼び出し昼三は、客から茶屋に呼び出され、大勢のスタッフを引き連れ、道中を組んで茶屋にむかう……という、かつての太夫や格子といった高級遊女のビジネススタイルを踏襲した営業を続けていたのですね。
呼び出し昼三は過去の太夫たちのように、基本的に禿時代から置屋の主人筋に目をかけられ、英才教育で諸芸を仕込まれた、教養の高い女性でした。ただ、彼女たちは、かつての太夫や格子のように客を選ぶこともありましたが、初会から客と同衾するようになりました。つまり、三度面会するまでは床に入らないといったかつてのルールは撤廃されたのです。
なお、元吉原時代、客が太夫や格子といったクラスの高級遊女を呼び出した揚屋などは、新吉原時代のはじめこそ江戸町など遊郭内の各町に数軒ずつ存在していたものの、後にはすべて廃業、よりカジュアルな茶屋のみが営業存続することになりました。新吉原は万事、カジュアル化していったわけです。
さて、呼び出し昼三ほどの待遇をしてもらえない、つまり茶屋に招いて金を使ってもらえるなどの厚遇はない昼三クラスの揚げ代も、金三分ほど。一分は、一両の4分の1です。呼び出し昼三にくらべて、4割ほども低いですが、これは、抱えているスタッフが少ないことも影響しているのでしょう。茶屋に招かれたところで、高級を自覚している遊女たちほど、杯に唇をあてる程度で、大酒を飲んだり、たくさん食べたりということは(そういうキャラクターで売り出している例外以外は)できません。ですから、昼三の遊女たちは茶屋での宴席があるかどうかよりも、単純にギャランティの低さが悔しかったことでしょう。
違法営業の湯女などが流入し失われた吉原のエリートイメージ
「呼び出し昼三」「昼三」という散茶を讃えた呼び名が有名な「花魁」です。語源は明らかではありませんが、「おいらがねえさん」を短くしたものともされており、そこからも元吉原時代にはなかったカジュアルさが伝わってくるように筆者は思います。
元吉原時代にくらべて格段に親しみやすくなったとはいうものの、散茶は遊女としては最高位でありました。この散茶に続くとされていたのが、いわゆる「茶女郎」こと「梅茶(埋め茶)」などです。一説に、「熱い茶を水で薄めた=うめた茶」が梅茶の語源だとか。
なお、最高クラスの遊女は不特定多数の客の目にふれる機会がほぼ限られていたのに対し、クラスが下がるほどに、自分の姿を客の無遠慮な視線に晒さねばならず、これは恥ずかしいことでした。張り見世で客待ちをするのは、格下遊女の宿命だったわけです。梅茶の格式は下がり、揚げ代は、はじめは「昼夜」で十匁、後に一分、「片仕舞」で二朱でした。
そもそも太夫や格子といった最高クラスの遊女がいた時代に、湯屋で違法売春していたのを幕府に摘発された湯女などが罰として吉原へ強制連行され、無償労働を科されたことがありました。その彼女たちが配属されたのがこの散茶というレベルだったことからも、なんとなく位置づけがわかると思います。
散茶という奇妙に思える呼び名の語源は、小枝などが混入した粗茶の別名のことです。江戸時代初期はまだ現在の煎茶がなく、抹茶以外はみな粗茶のあつかいであり、散茶とは湯女がアテンドしている客の風呂上がりに提供したお茶のことなのです。彼女たちが吉原のひとつのトレンドを作ったことの証拠が、局女郎・端女郎といわれてきたサードクラスの遊女に「散茶」という呼び名がつけられたことでしょう。
ある時期の摘発では512人もの湯女が、吉原に一気に流入します。元・湯女であった遊女たちは吉原で散茶になっても、「私はアルバイトをしていただけ」「お客が求めたから小遣い稼ぎに身体も売っていただけ」程度のカジュアルな認識しかありませんでした。『洞房語園』によれば、経営者の方も「風呂屋くづれ多くありし」ということで、「見世を風呂屋の時の如く構へたり」と、それ以降、高級だった吉原の雰囲気は一気にくだけたものになります。
それによって「値段も中身も高級であること」を最大のウリとして、気概のあった吉原の高級遊女たちの気風も一気に衰えてしまった……という説は正しいと思います。先に客層が格式を重んじる武士から、コストパフォーマンスを重んじる商人に変わったという「変遷の背景」を挙げましたが、遊郭内部からも「変化」は起こりはじめていたようです。
こうして時代の要請でどんどんカジュアル化されていったため、格調高いビジネススタイルを保持しようとした種類の遊女たちは、19世紀前半の文政年間末頃にかけて姿を消してしまいます。吉原から、理想化された色恋の世界観が薄れていった瞬間です。これ以降の吉原では「遊女=芸能者」というエリートイメージは失われ、春をひさぐだけの女として、同情や哀れみの対象にすらなっていきました。
三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町
京都・島原、江戸・吉原、大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭の日常や、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より一部を抜粋してお届けします。