江戸時代の花街の最高峰、三大遊郭とはどんな場所なのでしょうか。そもそも遊郭では何をするのか、遊女たちの日常、太夫・花魁などの序列やビジネスの仕組み、明治・大正から現在に続く新たな価値観で揺らぐ遊女の地位。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より、一部を抜粋してお届けします。
遊郭のカジュアル化が進んでも、より華美になる花魁道中
高級な遊女は、基本的に一日一人の客しか取りません。それゆえ、置屋の店主夫妻からも「様」づけで呼ばれていた彼女たちの姿を目にするチャンスは、客になることができるお金持ち以外には、決して多いとはいえませんでした。とはいえ、客にならずして彼女たちの姿を見る機会もありました。それが「道中」という遊郭の制度です。
元禄時代以降になると道中は一気に華やかになり、人数も増えていきました。遊女の格式によって、私的な召し使いの少女・禿も何人かくわわり、つづらに入れた遊女の一番の商売道具である布団一式や三味線、太鼓までもが大勢の遊女屋の男性スタッフによって運ばれました。
この頃から、高級遊女には晴天・雨天に関係なく、傘がさしかけられる伝統ができました。また道中を作るのは、最高級の遊女たちだけでなく、その下のランクの遊女たちも行うようになったのです。
18世紀半ばの宝暦年間以降の新吉原では、高級遊女の商売の場だった揚屋は貸座敷としても最高級であり、経費面で客から敬遠されるようになりました。吉原の場合はこの手の理由から、高級遊女との面会ですら茶屋を利用することが普通になっていきます。
遊女を豪華な施設に招いて宴会をすることはある意味、客がパトロンとして、遊女をもてなす行為でもありました。ところが時代の経過とともに、吉原の客からはパトロン的側面がほぼ完全に抜け落ち、彼らは遊女の性的サービスを期待するだけの存在になっていったのです。
ところが、茶屋にむかう高級遊女の道中の華美さは、宝暦年間頃から増したことに筆者は注目するのです。道中が賑やかに飾られるのは、高級遊女が身銭を切った結果です。そこまでする背景には、高級遊女たちの「下級の遊女と同じ茶屋に呼ばれたところで、私自身の価値は落ちたりしない」という気概の表れであろうと思われます。こうして、18世紀から遊女の衣装に使われるのは南蛮渡来のビロードをふくむ、緞子・綸子・羽二重・縮緬……と高級素材のオンパレードになります。
高級遊女たちは、この手の豪華な衣装を毎日取り替えて道中にのぞみました。しかし天明年間(1781~1789)以降は、逆に簡略化が進み、高級素材を使った衣装を着てはいるものの、それを変えるということは、滅多になくなっていったそうです。実際、着るものに凝りすぎた遊女は、置屋に対する約十年間の年季奉公期間が終わってからも、呉服屋にたまったツケを支払うべく、遊女の仕事を続けなくてはならない場合もありました。
19世紀はじめに相当する文化・文政時代に、遊女の道中はほぼ完成したとされます。当時すでに、吉原からは太夫・格子というランクは消え、先にも紹介したように、もともとのランキングでいえばサードクラスに相当する散茶の女性たちが、最高位の遊女・花魁として君臨していました。
花魁道中で推しを庶民に見せびらかすファン心理
花魁道中が行われる時代になると、元禄時代の様式がさらに華やかになり、金棒持ち・箱提灯持ちなどのほか、遊女の妹分に相当する振袖新造、遊女の私的なマネージャーに相当する番頭新造と呼ばれる、客に色を売ることを目的としていない女性陣までもが駆り出されるようになりました。
このような「道中」のほかに、たとえば『一目千軒』によると、毎月21日を「道中の日」としてイベント化し、客を集めたりもしたようです。さらに遊女が置屋から衣装をもらった「仕着せ日」を記念した道中、さらには江戸の吉原で正月や8月1日、京都の島原では4月21日……というように遊女の道中は年中行事にもなっており、これらは金のない庶民の目の保養として大いに楽しみにされていました。
このため、遊郭街には遊女の姿を見物だけしに来る人々がたくさんいました。その道中で、姿をちょっと見ただけで遊女に心を奪われてしまう男性はもちろん、道中の様子を噂に聞いただけで、真剣な恋に落ちてしまう人もいたようです。
そもそも道中とは、太夫たちを置屋から揚屋の座敷に呼ぶ場合に組まれた特別な行列でした。その時、揚屋の座敷にいる客は、その豪華な行列を自分の目で見るわけでもなく、ただ待っているだけなのです。しかし、道中がさかんになるにつれ、吉原にはとくに遊女を指名する目的もなく、ただ、この手のパレードを見物するためだけに紛れ込んでいる男性が多々おりました。そういった庶民の男性に、自分が大金を出して呼んだ遊女の輝く姿を、見せびらかしたい……というのは究極のファン心理だったのかもしれません。吉原の遊女と客の関係は、ある意味、現代のファンがアイドルの少女たちにただただ、輝いてもらいたいがため、大金をはたいてCDの購入を大量に続けるのと似ています。
そのファン心理を何十倍、何百倍も極めた男性……それが太夫たちの想定客だったのです。吉原の高級遊女のけばけばしいまでの華やかさは、毒のある花に似ています。どうなってもいい殿方だけ、私の馴染みになっておくれ……というある意味あっぱれな意思表示だったわけですね。
先にも書いたように、吉原のハイクラスな遊郭の遊女たちは、豪華な装飾品・衣装で美しく着飾っていましたが、それらをふくめ、身の回り品の多くが自腹でした。ですから、高級な遊女ほど、とにかく「太い客=良い客」を選んだのです。そうでもしない限り、一日中、複数の客の相手をせねばならなくなり、体力的・精神的に摩耗してしまうからです。初期の吉原で行われていた「三度目の面会」があるかどうかは、客を見極めたい遊女と、その試験になんとか合格しようという男性の「せめぎ合い」だったのですね。
稼ぐためにそこまで必要経費のかかるのが遊女稼業だったため、借金の返済など進むわけがありません。それでも仕事を続けて27~28歳になれば、ようやく年季があけて自由の身になれたのです。
よりリーズナブルな「芸者」が遊郭のライバルに
「会いに行ける、しかも恋愛自由のトップアイドル」であることこそが、江戸時代を通じての高級遊女の理想の姿であった一方、彼女たちに会うためにかかる経費の莫大さはしだいに問題になっていきました。
18世紀中盤頃、つまり宝暦年間のことですが、江戸の吉原では、太夫という文字どおり最高ランクの遊女が消えてしまいます。
吉原より古く、格式が高いとされた京都の島原遊郭よりも、さらに2~3割ほど高めの値段設定をしていたのが江戸の吉原です。
当時の日本の首都は京都で、京都にくらべれば江戸は文化度も低く、まだまだ地方の一大新興都市あつかい。そこで強気の商売をしすぎたがゆえ、吉原の遊女ビジネスはある意味、自壊してしまったわけです。
そして、この時代、吉原の遊女が、見逃せないほどのライバルになったのが、深川などの芸者たちでした。最高クラスの遊女・太夫は、楽器の演奏や舞、歌にも秀でていたわけですが、それを客の前で披露することはよほどのことがない限り、格式上あり得ませんでした。
太夫のかわりに三味線を弾いたのが、天神などの次のランクの遊女たちです。しかし、諸般の事情で吉原から太夫がいなくなると、最高ランクが天神ということになり、彼女たちの役目のひとつを担うのが芸者という存在になっていったわけです。吉原の芸者が、深川の芸者のように堂々と密売春をはじめるようなことは、遊女たちの手前、少なかったようですが、深川などの芸者にその手の心理的な縛りはありません。
人気のある芸者と一晩過ごす代金は、一晩で1両を取る高級遊女の3~5割引程度。格式などという難しいことも少なめです。吉原の高級店なら最低でも3回通わないと遊女とは同衾することができませんでしたが、芸者相手の場合、どれだけ人気のある人でも、初回から床入りが可能でした。
江戸時代は中盤以降、新興の商人が実権を握っていきます。彼らがコストパフォーマンスにうるさくないはずがありません。吉原では「端女郎」と呼ばれ、まるで見切り品あつかいの遊女であっても、そのわりには高くついてしまいます。そんな相手と遊ぶより、人気者の芸者とコッソリ……の方が人気が出るのもうなずけるのです。
吉原では非日常的な豪華さをウリにしていたのですが、江戸時代も中期以降になると、このようにリーズナブルな方が客に受けるようになっていきました。
三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町
京都・島原、江戸・吉原、大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭の日常や、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より一部を抜粋してお届けします。