江戸時代の花街の最高峰、三大遊郭とはどんな場所なのでしょうか。そもそも遊郭では何をするのか、遊女たちの日常、太夫・花魁などの序列やビジネスの仕組み、明治・大正から現在に続く新たな価値観で揺らぐ遊女の地位。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より、一部を抜粋してお届けします。
ありんす言葉にも細かな「方言」がある
時代劇で聞く遊女の台詞といえば、語尾に特徴があります。
彼女たちは四六時中、「~でありんす(~です)」とか「おいでなんし(いらっしゃい)」などといっています。ところがこの手の「ありんす言葉」は、実際は江戸・吉原の高級遊女が接客する時にだけ、相手への敬意を込めて使われるものでした。いわば軍人さんが「~であります!」などと上官に報告している時の敬語遣いと「同質」なんですね。
また、昭和の金持ち奥様の口癖というイメージのつよい「~ざます」も、元は遊女の言葉なのです。この手の語尾のバリエーションで、代表的なものをいくつかご紹介すると、
~ではおっせん……~ではありません
なんざんす?……なんでございますの?
そうざいます……そうでございます
といった感じになります。遊女が自分を指していう「わっち」は「私」が訛ったものですが、ほかにも言葉自体が吉原の中でだけ、特別な使われ方をする場合もありました。
主……客や、尊敬に値する人物のことをいう時に使う。
塩次郎……うぬぼれの強い自信家のこと。
武左……「むさ」と発音。武士の客だけでなく、いばってうっとうしい客のこと。
七夕……「たなばた」、つまり店の中をバタバタ足音うるさく歩く客のこと。
おゆかり様……馴染み客のこと。
さし……事情があって会いたくない客のこと。
もてる……吉原では「(客が遊女に)丁寧にもてなされる」という意味。ここから転じて、現代の「モテる」という言葉が生まれた。
ほかに吉原独自の風習にもとづく里言葉もありました。
素人屋……吉原遊郭の中にあった各種商店のこと。
行水……月経のこと。
髪洗日……毎月の27日。すべての遊女がこの日だけは絶対に髪を洗ってきれいにしたため。
これらは吉原全体の「共通語」ですが、遊女たちが属するお店ごとに方言が異なっているという、恐ろしくややこしいものが「ありんす言葉」こと「里言葉」なのでした。実は遊女たちの言葉を解説する、ハンドブックまでもが刊行されていたのです。
滝沢馬琴の師匠にあたり、遊女を自分の妻にした山東京伝という作家が、江戸・吉原の「ありんす言葉」を辞書的にまとめた『傾城訛』を残しています。その天明8年版には、当時の吉原を代表する4つの遊女屋である「松葉屋」「丁字屋」「角玉屋」「扇屋」に属する遊女の中でだけ使われる方言が解説されています。いくつか見てみましょう。
松葉屋の遊女は「~でございます」という意味の語尾を、「~おす」と表現しました。ほかにも「来ぃした(来ました)」「しのびをこめる(秘かにする)」など、関西をイメージさせる、雅やかな響きの言葉が多いのが特色です。
丁字屋の遊女は、「~でございます」というかわりに「~ざんす」といいました。「どうともしなんし」は、「どうにでもして!」という意味ではなく、「あなたのお好きなように考えて」と、はぐらかす表現。「どうぞご自由に」に近いかもしれません。丁字屋の里言葉は艶っぽいですね。現代人のわれわれが想像する「遊女言葉」に一番近いような気がします。
角玉屋の遊女は、けっこう個性的な言葉を話していたそうです。たとえば、人をよぶ時には「こんなこんな」といいましたが、江戸弁では「これこれ」というべきところですね。ほかにも遊女たちが会話内で多用したのが「あきれけぇるよ」。文字どおりの意味ですが、「あの客さ、いつまでも寝ないでさわってくんのさ。あきれけぇるよ」みたいな感じです。なお、モテることを「ぼちぼち」、振られることを「ちゃきちゃき」などと表現するのも角玉屋流遊女の方言です。江戸下町風の響きの言葉が多いように思います。
扇屋の遊女は、相づちに「ほんだんすかえ」、というのが特色。こちらは「~ざんす」を「~だんす」と発声、「そうだんす」などといったそうです。また、名前を知らない客のことを「あの人さん」といいました。そして現代日本では若者を中心に、良いことにも悪いことにも「ヤバい!」を連呼する言葉使いが問題視されていますが、扇屋内でこの「ヤバい」に相当するのが、「きさんじなもんだね」という表現だったようです。「いけねぇもんだね」とか「しゃれたもんだね」という意味の言葉をひっくるめて「きさんじなもんだね」と表現していたわけです。面白いですね。
前後の文脈から類推できる範囲の言葉も多いでしょうが、角玉屋の「ちゃきちゃき(振られるの意)」や、扇屋の「きさんじなもんだね」などは、「えっ?」となってしまってもおかしくない独自用法です。吉原の中でだけ、それもそのお店の遊女と遊ぶ時にだけ使われる言葉を覚えるのが、粋な行いだったということなのでしょう。この手の「ありんす言葉」ゆえに、吉原は別名「ありんす国」などとも呼ばれました。
吉原で「ありんす言葉」が発達したのも、「如何なる遠国より来れる女にても、この詞を使ふ時は鄙の訛抜けて、古くより居慣れたる遊女と同じ様に聞ゆるなり(『北女閭起原』)」……要約すれば、どれほど江戸から遠い土地の生まれの女性で訛りがひどくても、ありんす言葉をしゃべることで、江戸で生まれ育った女の言葉のように粋に聞こえる……とのことで、地方出身の娘がお国訛りを消すためという理由だったそうです。
上方の遊女が使った「なます言葉」
とはいえ実際のところ、「ありんす言葉」に訛りをカバーする力はほとんどなかったようです。滝沢馬琴の『羇旅漫録』では、現在の静岡県にあたる駿河の遊女に接客された際、遊女がいわゆる「ありんす言葉」を使おうとはしているものの、駿河弁がまじって「絶倒する(倒れそうになるひどさ)」とあります。つまり「ありんす言葉」は、遊郭という非日常的な場所に来たと思わせるための演出だったと見るべきでしょう。そして、江戸時代、吉原の高級遊女と遊ぼうという客は、ずいぶんと気が長い人たちだったようです。
関西の遊郭ではどうだったかというと、17世紀はじめの京都・島原でも、ある種の里言葉は存在していたようです。ただし江戸・吉原の「ありんす」や「あちき(私の意)」は使われず、『分類京都語辞典』によると、明暦年間(1655~1658)には「飲まんす」「見さんす」といった「~んす」の独特の語尾や、宝暦年間(1751~1764)には「~で居なます(~でいらっしゃいます)」「~しなます(~なさいます)」といった、通称「なます言葉」が使われはじめた、とされます。それが吉原の里言葉の源流ともなったといわれますが、吉原ほど流行や独自進化をとげることはなく、しだいに当地のリアルな方言がしゃべられるようになりました。
恐らく、関東と関西とでは遊女志願者の出身地方が異なり、基本的に関西の遊郭に流れてくる少女は、大枠で関西弁のイントネーション圏内の出身者が多いのに対し、関東では江戸弁とはかなりイントネーションが異なる東北地方からやってくる少女が圧倒的に多かったという背景が考えられます。
現在も京都の芸者さんや舞妓さんは、京都出身者でない場合でも、完全に京都弁を操れるようになっているのと同じように想像するといいでしょう。そもそも江戸時代は、京都が首都であり、関西弁が、いわば標準語に相当していたのですから。
三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町
京都・島原、江戸・吉原、大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭の日常や、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より一部を抜粋してお届けします。