江戸時代の花街の最高峰、三大遊郭とはどんな場所なのでしょうか。そもそも遊郭では何をするのか、遊女たちの日常、太夫・花魁などの序列やビジネスの仕組み、明治・大正から現在に続く新たな価値観で揺らぐ遊女の地位。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より、一部を抜粋してお届けします。
「男性が守るべきもの」という価値観の変化により女性の地位が下がる
日本で官許の遊郭を3つだけに定めてきた江戸幕府が崩壊した明治維新の前後では、これら「三大遊郭」だけでなく、日本全国の遊郭文化全体に大きな変化が起こりました。
興味深いのは、全国各地の非公認遊郭の中に、江戸期の吉原の雰囲気や、システムを取り入れようという複数の動きがあったことです(神戸の福原遊郭や福島県飯坂温泉の若葉遊郭、福岡県大川の弥生町遊郭などはその一例)。
吉原及び全国の遊郭は、文明開化によって失われつつある江戸情緒が生き残る場所にして、同時にモダンな建築が立ち並んでいたりもする、非日常的な空気感を楽しめる場所として、明治時代以降も存在意義を得ていきます。
ところが、遊女の立場についてはかなりの変動があったようです。江戸時代では男性とともに働き、暮らしを能動的に支えてきた女性の地位が、文明開化後は男性が「守るべきもの」として、ともすれば専業主婦という名目で家の中に囲い込まれることによって、逆に下がってしまった……という指摘はよく目にしますが、この手の地位の低下は遊女の場合に顕著でした。
女性に心身の純潔性を求めるという、キリスト教的な倫理観が日本にもたらされた結果、どんなにステイタスの高い遊女であっても、「遊女=娼婦」という単純化された評価軸が適用されるようになったからです。
芸能的な意味で、あるいは美的な意味で、高級遊女はエリートであるという好意的な評価軸は失われてしまいます。文明開化後の遊女とは、男性を誘惑する倫理的に劣った存在であり、梅毒をはじめ性病の温床で、そんな遊女や遊郭文化を好意的に書き連ねてきた江戸時代以前の文学などは、恥ずべき日本の暗部である……という極端な価値観の転換が見られるようになっていくのでした。
処女であることを求めるキリスト教的倫理観の輸入
文明開化以降も、以前のように吉原で最高位の遊女は「花魁」と呼ばれ続けていましたが、彼女たちの社会的地位は露骨に下落していきます。江戸時代は、遊女になったのは貧困がきっかけでも、太夫もしくは花魁といったハイステイタスな遊女になれた場合、女性としての出世を遂げた証となりましたが、そのような評価基準は、明治以降には残されていません。
1892(明治25)年の時点で、詩人・文筆家の北村透谷は『処女の純潔を論ず』というエッセイの中で、次のような興味深い記述を残しました。
「晃々としてこの大作(=滝沢馬琴『南総里見八犬伝』)を輝かすものこそあれ。そを何ぞと曰ふに、伏姫の純潔なり。始めより終りまでの純潔なり。その純潔の誠実は通じて非類の八房(妖犬)を成仏せしめしは、尊ふとしと言ふも愚ろかなり」
処女で純潔だった伏姫だからこそ、自らを犠牲にしてまで八房の“魂”を救ってやれたのだ、つまり、処女にはそれだけの高い価値があるというのが北村透谷の論旨です。この文章と同年、北村によって書かれた『厭世詩家と女性』という別のエッセイの中では「恋愛は人生の秘鑰なり、恋愛ありて後人生あり」という熱烈な表現がありました。「秘鑰」とは、秘密を解くための鍵という意味です。
かつて江戸時代の感覚では、恋は誰にでも手に入るものではない、究極の贅沢品でした。吉原での高級遊女の揚げ代が、ことさらに高価だった理由のひとつでもあります。
ところが、北村は「誰もが恋愛なしに価値ある人生を送ることはできない」と説いているのです。北村にこうまで書かせたのは、当時の欧米で主流だった恋愛スタイルである「ロマンティック・ラブ」への心酔です。これを簡単に説明すれば「あなたには運命の人がいて、いつかあなたとその人は結ばれ、幸せになれる」というもので、現代日本で理想視される恋愛像もこの延長線上にあるといっても過言ではありません。
日本では元来、「愛」という言葉は仏教用語で、修行の障りになる煩悩というくらいの意味しかなかった……と説明されることはよくあります。
しかし北村透谷に「恋愛は人生の秘鑰」といわせ、その価値観が一般読者にまで共有されたということの背景には、明治維新の前から、「ロマンティック・ラブ」に相当する恋愛観が日本人の間にもひそかに存在してきたことがうかがえるのです。
遊女が特別な男性に操を立てるため、髪や爪を切り取ってあたえる、場合によっては足に小刀を刺したり、小指を切ったり、はなはだしい場合は自殺すらしてしまう……という「心中立て」もある意味、和製ロマンティック・ラブの存在を前提としたものであるように筆者には思われます。
しかし、北村の唱える「恋愛」の対象となる女性は、処女だけなのです。
『処女の純潔を論ず』というエッセイの中で、北村は江戸時代以前の作家たちが、遊郭での恋愛遊戯を文学のテーマとして選んだことについても、「祖先は、処女の純潔を尊とむことを知らず」と批判しています。「処女の純潔は人界に於ける黄金、瑠璃、真珠なり」という熱っぽい表現も見られます。
現実問題として、肉体が「純潔」だから魂までもが「純潔」というわけではないのですが、女性は「純潔」なのがことさらに望ましいという価値観のはじまりです。吉原をはじめ、全国の遊郭の遊女たちが、この「新しい価値観」と無縁でいられるわけもありません。江戸期にはもっぱら芸能史の対象であった遊女は、明治以降、哀れみと蔑みの的であり、社会問題や人権問題の対象にすぎない存在となっていってしまうのでした。
大正~昭和も続いていた身売り
森光子の体験記『吉原花魁日記』によると、所属する店によって、花魁というランクの遊女でも、待遇がまったく違ったことがわかります。森のように1日に12人も客をとらされ、本を読む間もないほど大忙しという大正期の花魁もいたのですが、これは吉原内ですら花魁という階級の遊女への尊敬の念が部分的にせよ、薄れた証でしょう。さらに「純潔ではない女」は、性的に搾取されても仕方がないのだという感覚があってのあつかいだったと考えられます。
『吉原花魁日記』で、森光子は1350円の価値をつけられ、吉原に花魁として売られたと明かしています。この金額から周旋屋のマージンを差し引くと、実家の取り分は1100円です。当時の1000円は現代の貨幣価値で一説に100万円程度(多く見積もっても約200万円)ですが、これが当時、買い叩かれた状態の処女の価値……ひいては、女性として平穏な人生を歩むための権利を失った対価と考えることができます。
森光子は「春駒」の源氏名で花魁として励みましたが、いつまでたっても商売に馴れることができず、また稼ぎの9割を楼主に借金のカタなどとして持っていかれていました。早ければ2~3年、遅くても5~6年で故郷に帰ることができるといわれていたにもかかわらず、そんなことは夢のまた夢という、終わりのない絶望に耐えかね、吉原から目白の柳原白蓮と宮崎龍介夫妻の元に、馴れない市電や電車を乗り継いで辿り着き、保護を求めたのです。遊女勤めを「自由廃業」し、2冊の本を出版した後の森光子の足取りはあまりはっきりとはしていないのですが、白蓮と宮崎の知り合いで、「自由廃業」の手助けをした元役人と結ばれ、家庭に入ったとされています。
しかし、実家が困窮すると娘を遊女として売るという悪習は、高度成長期くらいまでは依然続けられ、とくに冷害・凶作があった時期の農村地帯からの身売りは社会問題となっていました。
娘が自発的にその身を売って親・きょうだいを助けるのが美談のように語られていたこともありますが、山形県保安課の調査によると、1934(昭和9)年だけで(しかもデータに残されているだけで)身売りされた女子は3298人を数え、そのうち「娼妓(遊女)」になったのが1420人というありさまだったのです。
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本連載は今回で終了です。遊郭についてもっと知りたい方は幻冬舎新書『三大遊郭』をお求めください。
三大遊郭 江戸吉原・京都島原・大阪新町
京都・島原、江戸・吉原、大坂・新町。幕府の官許を得て発展した三大遊郭の日常や、遊郭ビジネスの仕組み、江戸・深川や京都・祇園など公認以外の花街との関係。それらを現代的な感覚で解説した幻冬舎新書『三大遊郭』より一部を抜粋してお届けします。