東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組んだ傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読みをお届けします。(前回 はこちら)
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2
田伏が代々木上原の自宅マンションに帰宅すると、狭いリビングダイニングのテーブルに娘の麻衣がいた。風呂上がりなのだろう。首にタオルをかけ、タンクトップとホットパンツ姿だ。一四歳という大人になりかけの少女は、中年男にとってどう接してよいかわからない生物だ。
壁際の棚にあるテレビからは、午後一〇時から始まるニュース番組が流れ、アナウンサーがナイトゲームの結果を伝えていた。
「ただいま」
テーブル脇の椅子に鞄を下ろしながら言うと、麻衣がこくりと頷いた。だが視線は手元のスマホに注がれたままだ。ちゃんと目を見て話せ。田伏は喉元まで出かかった言葉をなんとか飲み込んだ。
「おかえりなさい。ご飯は?」
ダイニング横のキッチンカウンターから、美沙が言った。
「適当でいいよ」
美沙が冷蔵庫から缶ビールを取り出し、カウンターに置いた。プルトップを開け、一口ビールを流し込む。捜査が進捗していないときほど、喉に苦味が残る。ネクタイを緩めながら、田伏は麻衣に言った。
「学校はどうだ?」
「大丈夫」
お決まりの言葉が返ってきた。友達と過ごすのが楽しいのか、あるいは勉強がきついのか。大丈夫という決まり文句だけでは麻衣の真意を知ることはできない。
「スマホで何やってる。ゲームか?」
「友達とLINE」
麻衣はスマホの画面を直視し、忙しなく指を動かしている。大丈夫と言ったときと同じで、田伏への返答には一切感情がこもっていない。
「はい、パパが大好きな青菜の煮浸しと鶏の竜田揚げ」
てきぱきと小鉢を田伏の目の前に並べているが、美沙の目つきは存外にきつい。麻衣を刺激するなと言っているのだ。
「私、部屋にいるから」
スマホの画面を見つめたまま、麻衣が立ち上がった。
「ちゃんと宿題しろよ」
「大丈夫」
舌打ちを堪えていると、湯呑茶碗を持った美沙が対面に腰掛けた。
「クラスや部活の友達のほとんどがLINEとかで繋がっているから」
一〇年ぶりに強行犯捜査に復帰し、家にいる時間が極端に少なくなった。家事と子育ては美沙に任せきりの状態だ。しかし、スマホに没頭するのは好ましくない。
「ネットなんかろくなもんじゃない。麻衣が変なサイトで騙されたり、悪い連中と付き合うようになったりしたら大ごとだぞ」
「パパが大変な思いをしたのはよくわかっているわ。でも、麻衣とは別次元の話なのよ」
美沙の瞳に、あわれな犬を見るような色が浮かんだ。
「勉強が疎かになったら困るだろう。来年はすぐ受験だ」
「ねえ、パパ」
そう言うと、美沙がテレビ脇の小さな書類ケースに手を伸ばした。手元には、麻衣が通い始めた進学塾のファイルがある。美沙は中から数枚の書類を取り出し、田伏の前に広げた。
「彼女の希望は都立よ」
美沙が偏差値の高い学校の名前を三つ挙げた。
「塾の先生によれば、今のところ悠々と合格ラインにいるそうよ。私がちゃんと手綱握っているから、大丈夫よ」
田伏は口を噤み、黙々と遅い夕餉を食べ続けた。
3
食事を済ませたあと、田伏は納戸スペースに設えた狭小書斎に向かった。以前は寝室横にある四帖半の部屋を使っていたが、二年前に麻衣に譲った。
日曜大工で作った棚から薄型のノートパソコンを取り出し、折りたたみ式の机の上に置く。田伏は画面に現れた今回の事件の“戒名”〈中野モデル殺人事件〉のファイルをクリックした。画面に大和新聞の社会面が現れた。同紙記者が入手した、宣材と呼ばれるモデル事務所が出した公式写真が載っている。ロングでまっすぐな黒髪、そして奥二重の甘えるような笑顔……。田伏はファイルのページをスクロールした。
〈被害状況:被害者は歩行中、背後からいきなり刺された〉
〈無防備な状況で、背中、腹部、胸部の計五カ所〉
〈本部鑑識課によれば、凶器は刃渡り一六センチ前後の文化包丁〉
田伏は自分で打ち込んだメモを凝視したあと、別のページを表示した。
〈『深夜の凶行 モデルめった刺し』(東京日々新聞)〉
〈『強い怨恨か 狂気の刃がモデルの命奪う』(大和新聞)〉
スキャンした新聞の記事データが目の前にあった。
めった刺し、怨恨……。極めて刺激の強い言葉が並んでいる。事件が発生した翌日、上田は警視庁詰めの記者たちの前で事件概要をレクチャーしたはずだ。
被害者のハンドバッグにスマホ、財布、アクセサリー等々が残っていたことから、物盗り目的の殺人の線は当初から消えていた。ここは捜査本部の見立てと一緒だ。
しかし、ここから記者たちの見方が一方に傾いていく。マスコミ各社は、被害者のプロフィールに着目した。上田、そして広報課長からは怨恨など、動機の推測は明かされていない。美人モデル、そして五カ所の刺し傷というキーワードに、事件記者たちが勝手に反応したのだ。
刃物を使った事件は、痴情や怨恨だけが原因ではない。酒に酔って寝込んでしまったDV夫をか弱い妻が刺した事件にも遭遇したことがある。刃物で複数回ということだけで、決めつけるのは危険だ。
検視官によれば、犯人は被害者の背後から忍び寄り、まず背中を二カ所刺した、というものだった。次いで、振り向いた被害者の腹部、胸部と立て続けに刺し、これが失血を招き、死に至らしめたという。
また鑑識課によれば、途中抵抗する被害者ともみ合いになったのか、小路脇にあったブロック塀に刃物が当たり、鋒が一・五ミリほど曲がったという。司法解剖した監察医も最後の創となった背中にこの曲がった鋒による創を一カ所見つけた。
検視官、監察医という死体検分のプロによれば、犯人の性別はわからないという。それぞれの創は、屈強な成人男子が刺したような深さに達しておらず、少年や老人、また力の弱い女性という見方もできる、というものだった。
田伏はファイルのページを変え、自分が調べた結果を打ち込み始めた。中野署の若い巡査部長とともに捜査本部を出て、河田がアルバイトとして勤めていた六本木の高級キャバクラを訪れた。
田伏は河田と仲がよかったという同僚の女性に会い、話を聞いた。古瀬由美という茨城県出身の劇団員で二二歳、はきはきした口調の女だった。
河田に恨みを持つような人物、あるいはストーカー的な男性の存在を尋ねたが、古瀬は首を振った。
〈女の子は打ち解けてくると彼氏の話とかし始めるんです。でも、光子さんはそんな話をしたことないし、彼氏がいるような雰囲気というか、気配はありませんでした〉
古瀬は自分のスマホを取り出し、インスタグラムの自分のページを見せてくれた。
〈普通は彼氏とデートしたり、ご飯に行ったときの写真をアップするんですよ〉
スマホの画面には、ハンバーガー店で若い男性と笑い合う自撮り写真やバーでカクテルを接写した写真がずらりと並んでいた。
古瀬は素早くスマホの画面をタッチしていた。
〈これ、光子さんのインスタです〉
古瀬が画面を田伏に見せた。横にいた中野署の巡査部長が自分のスマホを取り出し、なんどか画面にタッチした。巡査部長の手の中に、古瀬の画面と同じものが現れた。
〈あれ、すごいフォロワーが増えている〉
自分の手元を凝視した古瀬が驚きの声をあげた。
〈たしか、彼女のフォロワーは五〇〇人くらいだったのに……〉
古瀬の言葉を聞き、田伏は巡査部長の手元を見た。プロフィール画面には、河田の涼しげな顔写真、その横には九八七の投稿数、五万三〇〇〇のフォロワー数、河田がフォローしているという二一二の数字があった。
〈殺されてから注目集めるなんて、彼女かわいそう〉
キーボードを打ちながら、田伏の頭になんども古瀬の声が反響した。古瀬の言い方に強い違和感を覚えた。かわいそうという言葉は死を悼んでいるのではなく、別の意味があった。
〈彼女、駆け出しだって言っていたから、モデルの仕事だけでは食べていけなかったみたいです。実際、この店の他にもいろんな仕事をしていたみたいですから〉
あのとき、古瀬は手元のスマホ画面をしきりに触りながら言った。
〈インスタに写真とメッセージをたくさん上げて、自己アピールっていうか、宣伝したかったんだと思います〉
生前の河田はネットを使って熱心に売り込みをかけていたが、成果は乏しかった。それが残忍な事件に巻き込まれたことで、自分の意図しない形でいきなり世間の注目を集めた。河田の投稿を自動的に知ることのできるフォロワー数の急増という現象が、〈かわいそう〉の本質だった。
〈私なんかより付き合いの長いお友達がいたみたいです。その人たちだったら本当に悲しんでいると思いますし、彼女とトラブっていた人を知っているかもです〉
古瀬はそう言うと、河田が個別に投稿した写真とコメントを指した。
赤いマニキュアの先を見ると、新宿駅に隣接する商業ビルに入るセレクトショップ、カットモデルをしていたという表参道の美容室、参宮橋にある馴染みの寿司屋の写真があった。
手元のメモを見ると、未だ違和感があった。強行犯捜査を一〇年程度離れていただけで、世情がすっかり変わってしまったのか。
本部に這い上がって以降、二〇件以上の殺人事件に関わった。遺族はもちろん、地取りや鑑取り担当としていやというほど被害者の友人や同僚を当たった。皆一様に涙を浮かべ、洟をすすった。だが、今日当たった古瀬の様子は全く違った。古瀬の言いぶりは、バッグやハンカチを紛失したときのようだった。
〈彼女と同じようなフリー組がたくさんいますから〉
店の情報を手帳に記しているとき、古瀬が言った。古瀬は素早くスマホの画面にタッチしていた。
〈ほら、こんな感じです〉
インスタの検索画面には、モデルという言葉に反応して抽出された小さな正方形がいくつも並んでいた。小ぶりなバッグを持ち、横を向いている手足の長い女性。流行りの鐔の広いハットを被り、隣の女友達と笑い合う女性。小さなプードルを連れ、野外のテラスでお茶を楽しむ女性……。最近の若い世代は目立った行動を避けることが多いらしいが、これほど同じような写真が並ぶと薄気味悪さを感じる。
〈河田さんみたいにフリーの人もいますし、読モも星の数ほどいますからね〉
読モとは、読者モデルのことを指すらしい。女子大生やOL、あるいは主婦がファッション誌に自ら売り込みをかけ、モデルの真似事をするという。
メモした事柄を、狭い書斎でパソコンに打ち込む。手書きとデータ。二重にメモを作ることで、聞き込んだ事柄が身体中に染み込む気がする。
六本木のキャバクラのあとも田伏は聞き込みを続けた。表参道にある美容室だ。人気モデルや女優御用達だという骨董通りに面した店舗は、総ガラス張りの高級そうなつくりだった。
髭の男性美容師によれば、河田は月に二度ほど来店してカットモデルを務めていたという。カットモデルとは、無料あるいは格安で髪の手入れをしてもらう、いわば練習台のことだ。有名な美容師に髪を切ってもらうには、最低でも二万円、髪を染めれば三、四万円かかるのだという。河田は身だしなみを整えるため、若手美容師の練習台となり、カットの出来栄えと店の小洒落た雰囲気をインターネットで宣伝していた。カットモデルを三〇人も抱えているという美容師は、河田について詳しいことは知らないと告げた。
手書きメモを全てノートパソコンのファイルに打ち込み、田伏は手帳のページをめくった。古瀬に読み上げてもらった河田行きつけの店の記述に目を向ける。
手に滲んだ汗か、あるいはペットボトルの水滴でボールペンの文字がぼやけていた。新宿の商業ビルの中にあるセレクトショップの名前が読み取れない。インターネットで検索するしかない。
パソコンのテキスト画面を閉じると、田伏はネットのブラウザを立ち上げた。だが、画面には〈インターネットに接続されていません〉の文字が表示される。
マウスを握り、カーソルをWi–Fiのアイコンに載せる。無意識のうちに、マウスを握る右手が小刻みに震え始めた。
クリックしろ……たかがインターネットじゃないか。自らにそう言い聞かせると、田伏はマウスを握る右手の上に、無理やり左手を置いた。
マウスをクリックすると、有名ポータルサイトのホームページが目の前に立ち上がった。左側に世界中で起こった最新ニュースの写真がある。
ちょうど、米大リーグに参戦中の日本人投手が完封勝利を果たしたようで、マウンドでガッツポーズする笑顔がある。
〈速報〉の文字の下には、プロテニス選手の海外トーナメントでの最新動向がトップに据えられ、次はお笑い芸人の薬物疑惑、その下には老人が運転する軽自動車が高速道路を逆走し、三人の死傷者が出たことを伝えるニュースが並んでいた。
見慣れた画面に接した途端、マウスを握る手にじっとりと汗が滲み始めた。
あの日、自分のことを伝える見出しがこのページにも載った。しかも、検索ワードの最上位に〈警視庁刑事〉の文字が躍り、面白おかしく書かれた記事が最新注目トピックとして紹介された。その後は、携帯電話が鳴り止まない日が三日ほど続き、心が壊れた。
大きく息を吸い込むと、田伏は検索欄のバーに新宿の商業ビルの名前と“テナント”と打ち込み、力一杯エンターキーを叩いた。
血の雫
沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。