東京都内で連続殺人が発生。凶器は一致したものの、被害者たちに接点は全くなく、捜査は難航を極めた。過去のトラブルで心を壊したベテラン刑事・田伏とITオタクの新米・長峰がタッグを組んだ傑作警察ミステリー『血の雫』(相場英雄著、幻冬舎文庫)から、試し読みをお届けします。(前回 はこちら)
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4
新宿職安通りの外れに営業車を停めたあと、平岩定夫は小滝橋通りとの交差点近くの定食屋に向けて足を速めた。
小滝橋通りに面した古ぼけた雑居ビルの一階には緑色の庇が突き出ている。その下には、腹に脂肪をたっぷり蓄えたサラリーマンの一団や連れとみられる制服姿のOL二、三人の姿がある。
引き戸を開け、平岩は老舗食堂に足を踏み入れた。すでに六、七割の席が埋まっている。
「いらっしゃい」
入り口近くにいた店の女主人が笑みを浮かべた。壁沿いのカウンター席に向かう。ちょうど角の席が空いていた。平岩がスポーツ紙を手に丸椅子に座ると、麦茶の入ったコップを持ってきた顔馴染みの女性店員と目があった。
「ハムエッグ定食とシラスおろしの小鉢をお願い」
「今日は豚汁つけなくていいの? いつも鶏唐揚げ大盛りなのに」
「ここ二、三日水揚げが悪くてね」
「それは失礼しました。お味噌汁の具はたくさん入れておくね」
店員が厨房方向に向かうと同時に、入れ違いで新規の客が隣に座った。
「こちら、よろしいですか?」
「どうぞ」
昨夜のホークス戦の記事に目をやったまま、平岩は答えた。故郷のご贔屓チームの勝利を記した記事で気を紛らわせていると、隣の青年が鶏の唐揚げ定食を大盛りで注文した。
「よく来られるんですか?」
オーダーを終えた青年の声が耳に入った。屈託のない話し振りだ。
「仕事の合間に、たまにね」
パ・リーグの順位表を見つめたまま答えると、青年が言葉を継いだ。
「このサイトで鶏唐揚げ定食が評判だと見たもので」
馴れ馴れしくされるのは好きではないが、商売柄、体が反応してしまう。
「俺が上京した二四年前から、ここの唐揚げは異様にデカいと評判でしたよ」
青年はスマホの画面に見入っていた。
「流行りのグルメサイトですか?」
手元のスマホを見やると、たしかにこの食堂名物の巨大な唐揚げの写真が載っている。常連客の誰かが投稿したのだろう。
「腿一枚分、サクッと揚がっていていくらでも飯が食えますよ」
平岩が軽口を叩くと、青年が頷いた。
「今度は、高円寺の裏通りにあるこの店に行ってみようと思っています」
青年はさらにスマホの画面をタップした。大盛りのキャベツの横にマカロニサラダがある。絵に描いたような定食スタイルだ。肝心の主役は、大ぶりの唐揚げが五、六個存在感を誇示している。
「知らない店だね」
「ここですよ、ほら」
サイトの地図を覗き込むと、JR高円寺駅から徒歩で一〇分程度の場所だ。
「営業時間が不規則らしくて、なかなか行くチャンスがないんです」
「どっちが先に食うか、競争しましょうか」
平岩は愛想笑いを返した。すると、青年が自分の胸元を見ていた。
「平岩さんっておっしゃるんですね」
「深夜に車を捕まえられないようなときは、ご用命ください」
平岩は胸ポケットから名刺を取り出し、ボールペンで個人の携帯電話番号を書き加えた。
「飲み会の帰りとかに連絡させてもらうかもしれません」
青年は両手で名刺を受け取った。
「そうそう、こんな噂もあるんですよ」
平岩がコップに手をかけたとき、青年が言った。
「馴染み客だけに、特製の唐揚げを親爺さんが自宅で振舞うときがあるらしいんです」
「本当?」
平岩は唐揚げに目がないのだと明かした。可能ならば、次の面会日に娘二人を連れていきたい。
「なんでも、紹介がないとその日を教えてもらえないようです」
平岩は箸をカウンターに置き、メモ欄をスマホ画面に表示した。
5
混み合う新宿駅西口の広場を抜け、田伏は隣接する商業ビルに入った。
「汗ぐらい拭けよ」
エスカレーターで三階に着くと、田伏は傍に立つ巨漢の若宮巡査長に言った。背広のポケットからハンドタオルを取り出すと、若宮は額、そして五分刈りの頭全体を拭った。
梅雨時で極端に湿度が高い外界と、ガラス戸を隔てて冷房の効いた商業ビルの内部では雲泥の差がある。田伏は自分の額にも汗が浮き出るのを感じ、慌ててハンカチで拭った。
午前の捜査会議を経て、新たな鑑取りのコンビとして中野署刑事課に配属されたばかりの若宮を割り当てられた。機動隊や別の所轄署での生活安全課勤務を経て、若宮は初めて強行犯係に就いた。
今の時刻は午後二時半、周囲には制服姿の女子高生や女子大生が四、五人いるだけだ。ハンカチをポケットにしまうと、田伏は周囲を見回した。
「完全に場違いっすね」
婦人服、とくに若い女性をターゲットにした衣料品店が並ぶフロアは、全体が淡いパステル調の壁紙や調度品で溢れかえっている。一方、田伏はグレーのスーツに白いワイシャツでノーネクタイ。隣の若宮は高校・大学と柔道部で鳴らした典型的な猛者の体型だ。
セーラー服やブレザータイプの制服を着た女子学生が近くを通るたび、田伏は言いようのない気恥ずかしさを感じた。
「田伏さん、あそこです」
きょろきょろとフロアを見渡していた若宮が、エスカレーターの降り口から対角線上にある角地の売り場を指した。
〈Relaxxy〉
田伏は手元の手帳の文字と、ネオン管でどぎつく発色する看板を見比べた。若宮が大股で歩き、田伏は早足で後に続く。
店の入り口には、フリルのワンピースや水着がレイアウトされている。入り口から二、三メートルの棚の前で、ロングヘアの若い女がTシャツをたたんでいた。
「すみません、昼前に電話した警視庁の者ですが」
若宮が内ポケットから警察手帳を取り出し、顔写真を向けると、女が手を口元に当てて驚いた顔をした。ざっくりと胸元の開いたリネンのワイシャツのポケットに『香西ミキ』の名札がある。
「ほんとに?」
「お仕事中に申し訳ありません」
田伏は若宮の横で同じように警察手帳を提示した。
「本当とは?」
田伏が問い返すと、香西が口を開いた。
「だって、ドラマみたいじゃないですか」
「ドラマではありません。電話でもお話ししましたが、河田さんについて色々とお話をうかがいたいのです」
香西はコットンパンツのポケットからスマホを取り出し、画面の上でなんどか指を滑らせた。
「この写真ですよね」
香西が差し出した画面には、河田と頬を寄せ、カメラ目線で微笑む写真が載っている。スマホの自撮りだろう。
〈まつ毛エクステのあと、新宿のいつものショップにお邪魔しました。カリスマ店員のミキちゃんとお話ししてきたよ。いつも笑顔で迎えてくれてありがとう〉
香西が顔をしかめた。
「私はショップの広告塔です」
なぜ表情を変えたのか。田伏にはその理由がわからない。
「つまり、私はショップのモデルと店員を兼ねているんです。亡くなったのは河田さんでしたっけ? 彼女みたいな子たちと写真撮ってインスタに載せるのって、あくまで仕事の一環ですよ」
「というと、彼女のことを覚えていない?」
「もちろん覚えていますよ。でも一日に二、三〇人は撮りますから」
画面を田伏と若宮に交互に向け、香西が言った。
「それでは、河田さんの交友関係や恋人、あるいはつきまとっているような人に心当たりはありませんか?」
「プライベートのことはなにも知りません」
またネットか……口元まで出かかった言葉を、田伏はなんとか飲み込んだ。
「あ、あの」
黙っていた若宮が口を開いた。田伏が見上げると、おどおどしながら香西を見ている。
「気になることがあったら、訊けよ」
田伏が言うと、若宮が頷いた。
「念のため、香西さんがツーショットで撮られた人たちのリストを全員分いただけませんか?」
「刑事さん、インスタやってないんですか?」
香西の言葉に、若宮が頬を赤らめた。
「ネットではゲームとスポーツ紙を読むくらいなんで、インスタを知らないんです」
「スマホを貸してもらってもいいですか?」
端末のロックを解除し、若宮がスマホを香西に手渡した。香西は手早く画面をなんどかタッチし、先ほど見たインスタグラムの画面を表示させた。
「はい、これが私のアカです」
香西が若宮にスマホを戻した。田伏が覗き込むと、先ほどと同じ画面が表示されている。
「ツーショット写真は何枚くらいありますか?」
「おそらく五、六〇〇人分はあります」
田伏は若宮のスマホに目を凝らした。殺された河田と同じように、笑みを浮かべて香西と写る女性の顔がずらりと並んだ。
「素人考えですけど、この中に彼女を殺すような人はいないと思いますよ」
明るめの茶髪、長いまつ毛、真っ赤な口元とピンクの頬。似たような顔がカメラ目線で笑っていた。
血の雫
沸騰する自意識と承認欲求――。SNSが怪物を生む。スマホが、人間を、社会を壊してしまうのか!? 『震える牛』『血の轍』の著者、最新作『血の雫』(幻冬舎文庫、10月7日刊)、怒濤の試し読み。